シンジュク地下のダンジョンにて after(再掲載)
他に掲載していたのを移動しました。新規ではありません。
〈シンジュク御苑地下ダンジョン〉8階層。レベル90近いパーティーランクのモンスターが跋扈するアキバ近辺でも有数の高レベルダンジョンの中層。
たとえサーバー随一の〈守護戦士〉が狩りの伴とはいえども、私がそれなりに装備が整った〈神祇官〉だったとしても、そもそもゲームだった時でさえ、このフロアはペアで踏破できるような設定の場所ではないのだ。
増して今やこの世界はゲームのとおりとはもはや言い難い。3人称視点だったゲームとは違って、見渡せる視界は半分にも満たず、ちょっとした足の運びの遅れやずれは、コンマ数秒以上の致命的な技の発動の遅れとなって、戦況を簡単に覆す。
むせかえる血の臭いは、狂えとばかりに正常な判断力を削り、既に倒れたモンスター達ですら、連なり私の足場を奪う。無残に切り裂かれたその身体から流れる血も私のブーツを湿らせ絡み取り、まるで地の底に引き釣り込もうとでもしているかのような錯覚を覚える。
蒼黒く光る重厚な鎧を血で真っ赤に染めて、その赤よりもさらに朱く巨大で禍々しい斧を振るう〈狂戦士〉も、疲労とMPの低下から当初の精彩さは失い、強引で力任せな攻撃や、乱暴な突撃の数が増している。まあ、彼の場合は世間で言われるような涼しげで落ち着いたなんてイメージの時よりも、こっちが本性に近いのだけれど。こうなってからの彼の方が数段怖い存在ではあるのだけれど。
それにしたって少なくとも、付き合う私の方はそろそろ限界だ。MPの残量はもう2割を切り、再使用時間の長い大技は既にその殆どを使い切っている。盾役のクラスティ君のHPにしたって、もう5割を維持するのが限界で、ここで大きいのをもう一つ食らってしまえば、立て直せるだけのヒールワークはあと一回が限度だろう。
そんな時、ふっと周囲のモンスターからの威圧感が一瞬途絶える。薄暗く申し訳程度にダンジョン内を照らしていた松明の光が2つ3つ瞬いた後に、まるで昼間のように強く明るくフロアを照らしだす。フロアの床の半分を埋めていたモンスターの死骸が、小さな光の泡となって分解され、その場から消え去っていく。
そして、その光で照らしだされた通路の奥に、鬣の一本一本がまるで蛇のようにうねる3つの首を持つ巨大な犬のような影が揺れる。
もしゲームの時と出現するモンスターが同じままなのであれば、あれは8階層のフロアボス、〈二頭獄犬〉オルトロス。二つの首がそれぞれ雷と炎を司る、パーティーランクとしても攻撃力過多な厄介なモンスターだ。
もちろんベストコンディションであっったとしてもパーティー未満の2人きりで倒せるような相手ではない。ないのだけれど、今回の狩りの相方は、あの厄介なモンスター以上に厄介なのだ。一応その厄介なパートナーの顔を伺うように覗きこんだ後、私は無言で覚悟を決める。
まあ勝てない。勝てないだろう。半分以上そうだろうとは予想していたけれど、今日は死に戻りだ。とはいえ此処まで来てしまったのだからしょうがない。私はなけなしのポーションや呪符を全て使いきり、少しでも体勢を整えるために呪文を唱える。
こうなってしまったら、こいつは何を言っても聞きやしないのだ。
なにせ、覗き見たクラスティ君の顔は、まるでオモチャを前にした子供のように、笑っていたのだから。
◆
流れすぎていったのはセピア色の想い出。
病室で除々に温度を亡くしていった母の手の感触。俯いたまま私を見ることが少なくなくなっていった父。何かを忘れる為のように仕事に没頭し、擦り切れていくかのように細くなっていくスーツの後ろ姿。
そのまま学生だった私には実感のもてないような通帳のゼロの数などという無味乾燥なものだけを残して突然消えてしまった最後の血のつながり。
そんな風景が、ひとつ、ひとつ、古い映写機に移されたかのようにジジジと音を立てて、掠れながら流れる。
後悔は、ある。
笑っていればいいと思っていた。大丈夫だよと言っていれば自分は大丈夫なのだと思っていた。
どうすれば上手くいくのか、先に気づけるように、手をかけさせないように、煩わせないように。
そうして笑いながら、周りとの繋がりを拒絶していた。
泣いても良かった。我儘を言っても良かったのだ。そうしても、されても良かった。したいし、されたかった。
それに気づけたのは、ずっと後になってからのことで、そんな出会いを得られたのは色々と間に合わなくなってしまってからだったから、こんな風にもう一度それを見せつけられると、ちくりと忘れていた心の刺が痛むけれど。
ただ、そんな昔の自分を、自分より上から見下ろしているナニカにふと気づいて、私はセピア色の映写機で写された空を見上げたのだ。
◆
そこは空の色を写した、透明な砂浜だった。
ゆっくりと優しく砂をなめる波は、ほんとうに微かにだけ、白い波をたてて、そこではじけた泡は白い光となって、瞬時に紺碧色の空へと淡いラインを一瞬ひいて消えていく。
まるでこまかな水晶を砕くかのような微かな鈴の音が、その寄せる波にあわせて、視界の先までずっと続く海岸線に、微かに、ほんとうに微かに響いている。
眼を閉じて、その音を聞き漏らさないように耳をすませていると、背後にさくりと、砂を踏みしめる足音をひとつ、ふたつ感じる。
それでも数秒、眼を閉じたまま十分に鈴の音を楽しんだ後、私は背後に振り向く。
そこに居たのは想像したとおりの人物の姿だった。
チャコールグレイの起毛のパンツに、仕立てのよさそうな黒いテーラードのジャケット。スタンダードながらも、憎たらしいくらいに上品さを感じさせるその姿は、オフ会で何度か出会ったことのある彼のイメージのままだ。
そして、その彼の姿を見た瞬間、私は彼が今回、無理矢理に近い形で私を無茶な狩りに誘った最後の理由を、ふと悟ってしまう。
「今回の依頼、本当の目的地は此処だったって訳か。まったく、随分と酷いことに付き合わされた気がするんだけど」
「ええ。そうだった。そうだったみたいですね。どうも私は貴方が此処に辿り着くまでに見た風景を、そして貴方がこの光景を見てどんな感想を持つか、それを聞いてみたかった、みたいです」
クラスティ君は、組んだ腕の片手を顎にやり、少し首を傾げて考え込んだ後に、頭のなかを確認しながら、といった感じで私にそう答える。
「走馬灯のような、まるで心の中を値踏みされたみたいな、仕舞いこんでいた筈の記憶。ほんとどんな仕組みに踊らされてるんんだろうね、私達は」
あの最中、一瞬感じた見られているような感覚。それが何処からだったのか、誰だったのかは判らないけれど、この世界には多分、私達がまだ知らない誰かが、まだ居るのだ。
「私は今までに既に数回、この途を辿っています。この記憶はこのままあちら側には持ってはいけないのでしょう。そうでなければ今までこれがアキバの街で話題にあがらない筈がない。
しかし今、ここにこうしていれば、その覚えは確かにある。であれば、この記憶はどこに保持されているのでしょうか。死という方法以外でこの現象に辿り付く為の手段は? そもそもこれは死なのでしょうか。何をキーとして、この現象は発生しているのでしょうか。
今その答えをつかむ為のヒントは多分、この現象を体験しているこの瞬間にしかない。そして私は今まで数回の経験ではそれを掴むことができなかった」
そして彼も、その何かの存在に気づいてはいる。しかしまだそれが誰なのか、何なのかまでにはたどり着いていない。
「というわけで、私が動かしやすい人物の中で、いちばん理論を飛ばして感覚的にものを理解していそうな貴方にご同行を願った」
それを彼が腹立たしく感じているのか、それとも何か面白いものだと感じているのかは私には判らないけれど、このいつも退屈していて心の中で欠伸をしているサド眼鏡が、何かがわからないままにしておく訳がない。こいつが興味をしめすということは、周りは否応なしに巻き込まれると、そう相場が決まってしまっているのだ。
「まあ、そんなところです」
そういって肩と両腕を軽くあげながら、クラスティ君はまるで他人ごとのように自分を観測する言葉を締める。
途中からそんな彼の姿ではなく、空に大きく浮かぶ、小さい頃から科学系の月刊誌に載る写真やCGで見慣れた空色に白いマーブル模様をちりばめた球体に眼向けていた私は、彼の声が途絶えたことを切欠に再び彼の方に向かい直す。
「えっとさ、此処ってこれ、月なのかな」
「まあ、そうでしょうね」
「もしかして、テストサーバーって此処にあるってことかな」
「地球上のどこにもプロットされていない14番目のサーバー。それが此処だという可能性は、それなりにあるでしょうね」
テストサーバーとはゲーム〈エルダーテイル〉の開発元である〈アタルヴァ社〉がリリース前の開発中のコンテンツをその名前のとおりテストするための環境だ。それは〈ハーフガイア・プロジェクト〉と名を打って地球と似た世界を実現している通常のサーバーとはキャラクターの行き来はできない独立した物ではあったものの、ある程度ユーザーに向けて公開されていたコンテンツの一部だった。
その内容はフィールドなしのダンジョンのみというものだったため、それが何処に位置するかなどということは考えてもみなかったのだけれど、こうやって実際に13のサーバーのどことも一致しない地に足を踏み入れてしまった現在、そう考えるのが一番自然だろう。
けれども、これはゲームの時にはなかった現象だ。〈タウンゲート〉や、〈妖精の輪〉なんていう瞬時に長距離を移動できる手段がある世界ではあるけれど、自分の知る世界がこんな遠くに見えるこの視界に、いまさらながら驚きを覚える。
「ねえ。もし、このゲームの時と同じようにこの世界にも〈ハーフガイア・プロジェクト〉の設定が反映されてるんだったら、あの惑星までの距離も半分なのかな?」
私は両の手の指でカメラのフレームを切るかのように四角形をつくり、その四角を片目で覗き込みながら、クラスティ君に尋ねる。
「まあ、それにしたって、この宇宙を飛ぶ旅に必要な推進燃料が、クラスティ君の言うように『記憶』ってやつなんだとしたら、それはこの世界では随分と高いエネルギーを発するものなんだね」
それは何かの返答を求めるような欲求から出てきた言葉ではなくて、なんとなく心に浮かんだ感覚。彼の言葉、それから理由はわからないけれども自分が感じている、此処に置いて行かなくてはならないと感じている後ろめたさみたいなものが感じさせる感触だ。
全然理論的なものではなくて、なんとなく、唯なんとなく、誰かが私達の『記憶』を欲しがっているような。それを代償として、私達と何かを交換したがっているような、そんなあやふやな雰囲気のようなものだったのだと思う。
「ふむ、記憶を奪われる、ではなく、記憶を代償に何かを為す、ですか」
だから数分間、考えこむように目を閉じていたクラスティ君が、その後に発した言葉も、多分私の言葉を受けての返答ではなく。
彼の中で、何かが形成されて、その何かを確かめるために発せられた言葉だったのだろう。
「それは少しだけ、面白いですね」
そう言って少し眼を細めたクラスティ君の顔が、私があの時、あの場所に置いていった記憶の、最後の風景だったのだ。