表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

君を愛することはないと言ったのにシリーズ

愛人よりも立場が低い妻でしたが夫は私にだけ恋愛脳です

作者: かんあずき
掲載日:2026/07/23

短編

「愛人と夜を過ごすので君は自由にしていいと言われたので、全力で喜んで使用人になりました」


「愛人に夢中だった夫に恋をする予定はありませんでしたが、初恋をやり直すことになりました」


の後日談になります。初見でもわかるように説明を入れておりますが、そちらを先にお読みいただく方が楽しめます。

「パトリシア様、お綺麗だったそうですね」


「いい旦那様と縁組できてよかったなあ」


領民たちから先日結婚式を挙げた娘――パトリシアの結婚のお祝いの言葉をもらうたび、父であるアディール伯爵は、みんなにありがとうと微笑んだ。


(だが、パトリシアが置かれた現状を知っても、みんな同じ反応が出来るのか?)


一人になると、アディール伯爵は、パトリシアに申し訳なくて頭を抱えていた。


パトリシアが挙式を上げたのは先日のことだが、実際に結婚をしたのはもう一年以上前のことだ。


ここ数年、続く天災によりアディールが治める領地は、水路も陸路も壊滅的な被害を受けていた。


自分の財を崩して、他の領地から領民の食べ分だけでも確保しようとしたが、足元を見られた。手に入れられたものはわずかで、その物価も跳ね上がる。


そんな状況で税の徴収などできるはずもなく、どんどんみんな生きているだけで精一杯になっていった。


最後の極め付けは、隣国に通じる街道が、落石で行き来できなくなったことだ。


これで、領地から他国に貿易できるルートも途絶えてしまった。落石を除去しようにも、それを動かすだけの人員と費用が足りない。


「とにかく資金援助を頼んでくるよ」


そうして、王都で声をかけて来たのが、パトリシアの夫となったミレー侯爵だったのだ。


(あの時、私は領民の命を助けるためだと、娘を売ってしまった)



こんな家に、侯爵家からの結婚話、しかも、領地への支援もしてくれるという。良い家に嫁ぐのに持参金も不要、結婚準備も侯爵持ちなんて、明らかにおかしい話だった。


だが、疑ったところで、それしか生きて行く道はなかった。


「まさかの良縁じゃない!」


そう言って、パトリシアが喜んでくれることに私の罪悪感は薄れてしまったのだ。


パトリシアが喜んでくれるなら、これはパトリシアにもみんなにも一番良い選択だ。


家族も領民も、みんな、そんな気持ちに変わっていった。



「侯爵夫人なんてすごいわ。これからはパトリシアもいい暮らしができるね」


「歳も10歳しか離れてないのか。しかも、ここの借金も肩代わりしてくれると言うんだ。助かったね」


そうみんなの表情が明るくなっていく。


「そうなの!久々に忘れていた貴族の練習をしておかないとね」


へへっと貴族らしくない笑顔で、パトリシアは、本当に小さな荷物を一つ抱えて、この家を去っていった。



それから間もなく――


パトリシアの夫のミレー侯爵には、平民の愛人がいて、社交の場でも家でもその愛人を妻だと名乗らせている話が、アディールの耳に入って来た。


ミレーから紹介された貴族のクラブで、新事業のガラスを売り込むために話をしていた時のことだ。


「親孝行な娘さんですけど、気の毒に……」


「天災さえ問題なければ、娘さんがあんな待遇を受けなくても済んだのにな」


最初は、結婚と引き換えにしたミレーの支援のことかと思っていた。

だが、アディールの反応が期待通りではなくて、つまらなかったのだろう。


「ミレー侯爵の愛人の件は、やはり立場的に口は挟めないのかい?伯爵家の娘の名前を、あんな平民女が勝手に名乗るのはあまりにもバカにした話だろう?」


「あんな下品なドレスを着た女が伯爵令嬢だなんて笑わせる。おかしいと思ったら、ミレー殿の愛人だそうだね」


そうアディールを見て、蔑むように笑うのである。


「えっ!愛人が、パトリシアの代わりに妻と名乗ってミレー殿と歩いているんですか!」


「それだけじゃないらしいぞ。あの家に出入りしているものから聞いたが、結婚した次の日から娘を使用人にして愛人の世話をさせているそうだ」


「……なんですって……」


だが――それを知っても、情けないことに、何もできなかった。

ミレー侯爵も、自分が文句を言えないとわかっていて、娘を利用しているのだ。


(領地に連れて帰ってやりたい……)


だが、やっと食べられるものが出来、必要な医療を受けることができた領民たちに、今更その環境を奪うことなんて出来ない。


すまない……パトリシア……


アディールは、先日の娘の挙式も、見守ることしかできなかったと後悔していた。


幸せだと言った娘の笑顔が胸に痛かった。


大切な家族も、領民も誰も守れない。


私はなんて情けない人間なのだろう。


そう一人落ち込むのだった。






パトリシアの夫、ミレーの支援は、娘と結婚したというだけなのに手厚かった。

それだけのことを娘はされているのだと言える。


落石の除去もその一つだ。


それによって、落石事故に巻き込まれて亡くなったと思っていた子爵の息子――セルビオが、実は生きていましたと戻って来て、パトリシアの結婚について聞いてきた。 



「パトリシアが結婚したってどういうことですか!」


「セルビオ!お前生きていたのか!」


「生きてます。辺境で馬車を2台借りたんです。多めに食料を搬入しようと思って。そうしたら、うちから持って来た馬車は落石に巻き込まれるし、連絡も帰るにも道が閉ざされてしまうし」


セルビオは、伯爵家の領地の中の一部を分与して統治を任せている子爵の息子だったので、パトリシアと共に苦労を分かち合う関係にあった。


領地内で起きる問題を、若い二人が必死に頭を働かせながら夜な夜な話し合っている姿を見ると、苦しい時でもこちらも支えられたものだった。


それだけに、セルビオが落石の下敷きになったと聞いた時は、憔悴した友人たちを必死に励ますパトリシアの姿が目に焼きついていた。


「大回りして帰ってくればよかっただろう。完全に馬車が石の下敷きになって……もう、私もパトリシアもみんなお前は亡くなってしまったと……」


アディールは涙目になりながら、無事で良かったと迎え入れた。


聞けば、借金を抱えながらも食材を購入した手前、それを放棄してすぐ帰れる状況ではなかったそうだ。

しかも、馬車もない。


仕方ないので、一旦、買った食材は売り、帰る目処を立てようとしていたところで、落石を除去する工事に入ると聞いたそうだ。


「ひどいです。伯爵様!俺はパトリシアをずっと想っていた。彼女だって、俺を慕ってくれていたし、一緒に未来を語りながら支え合おうと話をしていたんだ。しかも、貴族仲間にきいたらとんでもない男だと言うじゃないですか!」


セルビオは、血相を変えて訴える。


「な、なんだって!お前とパトリシアが実は想いあっていた……そんな話……聞いてないぞ」


アディールはセルビオに詰め寄る。


だが――アディールは固く目を閉じる。


想っていたセルビオは亡くなったと思われ、領民は明日食べるものないところまで追い詰められていた。


そんな中で、亡くなったセルビオに操を立てて、結婚しないなんていえる状況だっただろうか?


私は、パトリシアを不幸になる地に追いやっただけではなく、思い合う二人まで引き裂いてしまったのか――


アディールは、それを聞いて床に膝から崩れ落ちた。





「パトリシア、お義父上からの手紙に灌漑事業のことは何か書かれているか?前向きに話を進めていたはずなんだが、これ以上は支援は不要だと言って来ているんだ」


ミレーは、眉をひそめてアディールからの領地の再建状況について書かれた手紙をパトリシアに渡した。


「えーっ!せっかくご主人様が支援すると言ってくれたのに……」


私、パトリシアは灌漑事業に着手できれば、災害によって農作物が被害を受けるリスクが減ると聞いて、ありがたいと喜んでいたのだ。


「パトリシア、ご主人様はやめよう。ミレーだよ。さあ、言ってみて」


私の言い方が気に入らなかったらしい。


夫は面倒くさいことに、訂正を求めてくる。


「ミ、ミレー……せめて……様つけにさせていただけると……」


「夫の数少ないお願いだよ。名前は呼び捨て、あと、君のドレスを何着か買いたい。靴もいるよね。君の化粧品や実務的ではない物語の本も買いたい。あとは、たまには君とデートをしたい。最近王都で観劇が流行っていると聞いたからそれも一緒に見たいし、あと……」


ミレーは、指を折りながら妻とやってみたい100のリストを読み上げ始めた。


100も?


どこが数が少ないんですか?


なんちゅー乙女!


私は、ドン引きして、誰からも、私の夫と認識されてしまったミレーに声をかける。


「ご主人様、願いが多すぎです」


「では、最優先の願いだけ……」


ミレーは、ふーっと一息吐いて私を見つめる。


「朝の目覚めのキスと、夜のお休みのキスぐらいはしても良くないかな?誓いのキス以来、いや、正確に言うとファーストキスとそれの2回しかしてない。」


不満気にぶーっと膨れるミレーを前に、私は困った子をあやすようにミレーに声をかける。


「あれは、息が苦しくなります。二人で窒息という名の共同作業をやりたい人たちだけがする行為だと思うんですけど……」


「鼻の穴を広げればいいじゃん!」


ミレーは叫ぶが、そばにいたマイヤーが額に手を当ててため息をついた。


「二人の共同作業なら、もっとやるべきことがあるでしょう?いつまで、偽装結婚の気分でいるんです?奥様、もう、みんなに知れ渡る形で結婚したんですからね。あなたの夫は坊ちゃましかいませんよ」


今まで、ミレーに向けていた厳しい視線は、私に注がれ始め、確かに申し訳ない気持ちになる。


「マイヤーさん、私は、別に拒否ってないんですよ。みなさんが着せてくれる服をきてちゃんとベッドにいった後は、さあどうぞって大の字で寝ているんですから!キスだって、窒息という名の共同作業だと思えば我慢できますよ!」


夫ミレーは、かつてセラフィーヌという孤児院育ちの愛人がおり、貧乏伯爵令嬢の私を書類上の妻として囲っていた。


結局、痴情のもつれで別れたが、私に対してその時のことをとても後悔しているのだ。


私は、実家に多額の支援をしてもらったし、貴族としての仕事をすることもなく自由気ままに生活させてもらっていたのだけど、世間一般にはありえないことだと、なぜかやった夫、本人がとても落ち込んでいる。


よって、あなたと夜伽をしたくないと言っているわけではない私は悪くない。


勝手に夫が罪悪感から手を出さないだけなのだ。


「それなら、妻公認ですから、なし崩し的にやっておしまいになれば?」


そばで手紙を読んでいるミレーの様子を見守っていた執事のテイラーが、諦めの境地でそう進言する。


「それはダメだ。心が通わないのに、無理強いはしないと決めているんだから。キスは君がしてもいいって言った2回だけしただけだ。それも無理強いはしてない」


そんな整ったお顔でキラキラと妻と使用人に語られましても……


私は、ため息をつきながらも、父が灌漑事業について難色を示していることに心当たりがあり、話を戻す。


「ご主人様、父のことなんですけど……どうやらセラフィーヌ様が私の代わりをしていたことが父にばれたようなのです。何度か手紙に問い合わせが来ていたので、式の時に、心配はいらないことを告げたのですが……もしかしたら、私がここに嫁いで酷い目に遭っているという噂を信じているのかもしれません」


それを聞いて、ミレーとテイラー、マイヤーは、ひゅっと息をのみ一気に固まる。


「それは……支援金を返すから、娘を返せと言うパターンでは?」


「あまりにも、坊ちゃまはゲスですからね。だから、無理強いしてでも既成事実を作っておくことは大事なんですよ!」


テイラーとマイヤーはどうすんだとミレーに詰め寄る。


ミレーは、ぐっと眉間に皺を寄せたが、ふーっと息を吐き諦めたような顔をした。


「私はアディール伯爵の大事な娘を軽んじる行為をした。だから、殴られても、刺されても文句は言えないよ。」


私は、実家にまで可哀想な娘扱いをされていることを想像して、かなり落ち込んだ。

やっぱり、父と母には、自分は幸せであることをもう一度説明した方がいいだろう。


それに――私は、父からセルビオが生きていた話を聞き、一度会っておきたいと思っていた。


「ご主人様、実は落石事故に巻き込まれたと思っていた私の幼馴染が生きていたことがわかったのです。私はここで幸せに暮らしているということも両親に伝えたいし、セルビオに……あ、幼馴染の名前なんですけど、一度、結婚したという報告をしたくて」


私は、実家に里帰りしたいことを告げる。


慌てたのは、ミレーだ。


「実家に帰るなら、私も行く。とんでもないことをした自覚はある。お義父上に謝罪した上で、君のことを本気で想っていることを説明したい。あと……そのセルビオというのは……男……なのか?」


恐る恐る確認するように、ミレーは私の顔を見つめる。


「そうですけど……」


「そっか……といっても、別に君と深い関係とかじゃないただの幼馴染だよね?」


ミレーは、すがるような目で再度私に聞いてくる。


「ただの幼馴染かどうかは知りませんけど、うちみたいな極貧貴族に侯爵家から結婚話があるなんて思いませんでしたからね。以前は、結婚するなら、自分としないかと言われてましたけど……」


そう答える私に、マイヤーが悲鳴のように叫ぶ。


「それはもう確定じゃないですか!支援されたお金を返す代わりに、その子爵の息子とやり直させる方が幸せだろうっていうことですよ。」


「死んだと思っていた男が生きて帰って来て、娘は不遇な環境で過ごしているとなれば……親ならば連れ戻したくなりますよ。しかも、相変わらず白い結婚となれば尚のこと!」


テイラーも、どうするんですか?ミレー様!とオロオロする。


「やめてください。もう私はここに嫁いでるんですから、今更どうもこうもないじゃないですか!」


そう返答する私を、ミレーとテイラー、マイヤーの3人は複雑そうな表情で見つめた。




◇(ミレー視点)



正直、パトリシアは好きな人もいなかったと言っていたし、恋愛どころではなかったと言っていたから、男性の影を疑ったことはなかった。


だが、すでに男は死んだものと思っていたわけだし、生きている男で好きな人がいないという意味なら、結婚を受け入れるのはわかる気がする。


恋愛どころじゃなくても、貧しい中支え合っていたなら、想いを寄せていたけど、お互いに確かめ合う余裕がなかったということだろう。


そうでなければ、結婚の話なんて……


どうしよう……娘を返せと言われたら……


最近、落石がなくなって、隣国との流通が再び活発になった。


ガラスペン、香水の小瓶、ティーセットなど日用品に関心を持ってもらえたと書いてあったな。


それは、同時に、復興のの目処が立ちつつあると言うことだ。


私は離したくない。


でも、そんなことを言える立場ではないのはわかっている。


普通に考えて、夫は有責を認めていて、妻が私を好きでたまらないと言う状況でない限り、戻ってこいと言われるパターンだ。


がっくり肩を落としていると、夜着?いや、もう紐のような服でパトリシアがすたすたとやって来て、どーんとベッドの上で大の字に横になる。


「パ、パトリシア……あの……それもう裸に見えるんだけど……」


「マイヤーさんが、紐一本でも残ればそれは服だと言いました。そして、これでベッドに横になれと指令を受けました」


パトリシアは恥ずかしがるわけでもなく、無表情でそう語る。


「あの……一応手出しはしないと言ったけど、夫だから問題ないかもしれないけど、私は男だよ?」


これは、マイヤーからの挑戦状だろうか?


もはや大事なところが紐で隠れている?

いや隠れていない気がする。


それにしても……


ファーストキスの時もだが、息苦しさの前に何か感じることはないのか?


「あのさ、初夜を潰した私が聞くのもおかしいとは思うんだけど……」


一応、夫婦の夜をどのように考えているのか聞いておこうか。


このまま白い結婚で離縁を考えているのかもしれないし……


でも、普通の夫婦だったら、この格好で夫の前に出てくる段階で、間違いなくひと山越えてもOKのサインの気もするし……


私は、勇気を出して口を開いた。


「家からはどのように夜伽のことを聞いて来たの?女性の夢を壊した私は、君にトラウマしか植え付けていないとは思うんだけど……その割には、君は私に対して積極的なようにも見えるし、その割には、全くその気もないように見えるし……」


私は、大の字に無表情で横になるパトリシアを見つめた。

これだけ色気のある服を着せて、これだけ色気がないのも才能に思えてくる。


「その気とかは良くわからないのですが……」


パトリシアは、大の字をやめて、ムクっと起き上がった。


「なにせ、結婚話は急でしたから、家からも、夜のことはご主人様が年上だから任せたらいいと言われました」


きょとんとして、その気とはどの気?と私に聞いてくる。

狼狽えたのはこっちだ。


「その……それ以外は……なんか聞いてないか?だってファーストキスのことはちゃんと自分からやりたいって言ったよね?」


私は、本能的に、この姿ですごさせることは、そもそもヤバイのではないかと思い、急いで自分のガウンを着せる。


「そうです。ファーストキスは驚きました。私の中でキスとは、唇と唇が合うだけのものだったのですが、あんな舌と舌のせめぎ合いが水面下で行われているとは……」


「舌と舌のせめぎ合い……」


「はい。鼻で息が必要なのであれば事前に教えていただきたかった。やり終えた後、今更鼻の穴を大きくしたらいいなんて……

ああ、やり直したい」


「やり直したい??」


やりたくないんじゃなかったのか!

心の動揺が止まらない。


「あの、君は私のことをどう思っているの?それを聞くと、私は君との夜伽を我慢しなくてもいいように聞こえるんだけど……」


そう聞くと、何を今更とパトリシアは首を傾げる。


「ご主人様、すっかり恋愛脳になっておられますけど、大半の貴族の結婚に心の通じ合いとか、我慢とか本来必要ないはずです。ご存知の通り、私は、生きていくのに精一杯でした。男性とお付き合いしたこともないし、結婚話をしてきたのはセルビオだけです。私の認識では、貴族は、相手が決まったらその男性と結ばれると言うことのみです」


「その結ばれ方のことを言っているんだよ」


そう言いながらも、彼女が私のところに嫁いできたのは18歳。


デビュッタントも見送ったことを考えても、色恋を意識した頃は、もう貧乏まっしぐらで、そんな知識を誰からもらう?と私も焦り始める。


だが、18歳で何も知らないなんてことはあるだろうか?


「だから、初夜の日、すごく緊張したんです。だって、何がどうなるのかわからないんですから。でも、ご主人様に別の人とするから良いと言われてホッとしたんです。その後は、再び初夜を迎えたけど、気持ちが通じ合わないとしないと言われてそのままでしょう、私は、夫に任せておけばいいと言われただけです」


そういって、少し悲しそうな顔で、再びガウンを着たまま大の字になる。


もしかして……彼女はどうしたらわからないから、大の字に寝ているのか?



セラフィーヌが、私との情事後のシーツを洗濯させようとしても、その前の準備をさせても、けろっとしていたのは……


パトリシアにとって、それが何が行われたのかわかっていないなんてこと……ないよな?


いや、それはわかっていると言ってくれ。


私は震える声で、再度聞く。


「つまり、私がもし夜伽をするとしたら……何が行われるのかわからないと……」


「何度言わせるんですか?さすがに子供ができることをするってことは知ってます。ただ、情報が細切れで、詳しく知らないだけです。ご主人様にお任せしたらいいと言われてるのに、知るわけないじゃないですか」


パトリシアは、そろそろ寝ますよと、灯りを消そうとする。


私は、その夜寝息を立てるパトリシアの横で、正座のまま呆然と佇んでいた。



「坊ちゃま、どうでした?パトリシアも、抵抗せずにあの服を着るあたり、満更でもないと思うんですよ」


マイヤーは、私ができることはここまでですよと満面の笑顔で私に話しかけて来た。


だれかに閨知識を与えてもらわないといけないだろう。

明らかに私たちと前提が違いすぎる……


「それが……」


私がマイヤーに話すと、マイヤーは気絶しそうな様子になる。


「それは、どうするんです?知っていればセラフィーヌがなんと言おうと止めたのに……」


事後処理までさせてしまったじゃないですか。


「いや、でも最初からあのズレはおかしいと思うべきでした……」


マイヤーは愕然としつつ、思いついたように手をポンと打つ。


「そうだ、それだったら女ばかりで使用人たちと偶然を装って話をしてみてはどうでしょう。掃除の責任者であるカロリーヌは、あのセラフィーヌの奥様への仕打ちを知っていますからね。彼女と示し合わせてさりげなく夜の営みについて話したらいいんです」


そう言ってカロリーヌを呼び、事情を告げる。


「えーっ!今どき知らないなんてあるのかい?いや、でも、それなら納得だよ。ご主人様とセラフィーヌの情事のシーツを剥がした後、シーツを手洗いしようとするから、私がやっとくから触るなって言ってもきょとんとしてさ」


「手洗い!まさか、手で洗わせたのか!」


私は、どれだけ俺はゲスなんだと自分自身を殴りたくなる。


「洗わせないとセラフィーヌの奴、確認するからさ。パトリシアに用を言いつける間に、別の綺麗なシーツと入れ替えておきましたよ。どれだけ自分が酷いことをさせたかご主人様も自覚されましたか?流石に、それに触れさせるわけないでしょうに」


「そうか……すまない。当時、君たちから知らされるまで、把握してなかったんだ」


「私に謝られても知りませんよ。ただ、何が行われているかわかっていなかったから抵抗がなかったんだとすれば、何をするのか知ればパトリシアも傷つくかも知れませんね」


マイヤーは、そう苛めてやるなとカロリーヌを止める。


「で、どう自然に話をします?やっぱり、具体的に説明するのに世間話は無理ですからねえ」


マイヤーとカロリーヌは、パトリシアにわかりやすい話はないかと思案する。




「パトリシア、たまにはお茶でも飲まないかい?」


カロリーヌとマイヤーはお菓子を広げてパトリシアを誘ってみる。


「うわぁ、奥様業は肩が凝りすぎちゃって!やっぱり、パトリシアって言われる方が私も気が楽です」


おっ!うまく話にのってくれた。


やっぱり、パトリシアは素直だねえ――


マイヤーとカロリーヌは目配せする。


「聞いたよ。この間はマイヤーに露出が強い服を着せられたんだって?パトリシアの姿にご主人様、見惚れちゃったんじゃないの?」


「ほんと、坊ちゃまはヘタレですよ。最初に痛すぎて泣かせたらとか考えすぎてるんじゃないでしょうかね」


よしよし、会話の導入は成功!


マイヤーは、パトリシアに紅茶を差し出した。


「ああ、痛いらしいですね。ご主人様に任せておけばいいとは言われましたけど、ご主人様は何もアクションはありませんし……」


パトリシアは困ったように首を傾げた。


「まあ、初めての共同作業みたいなもんで、なんていうの……」


へへっと照れ笑いしながらカロリーヌが具体例を出そうとする。


すると、パトリシアは少し悲しそうにうつむいた。


「まだ裕福だった頃は、こうやっていろんな話をお母様に物語できいたんです。その時は、王子様と結ばれる話も、結婚式でキスをしてめでたしとなるでしょう?私、子供だったから、そのキスの下で窒息の共同作業がされているなんて思ってもみなかったんです」


「パトリシア……その、キスは窒息の共同作業じゃないよ」


なんで表現をするんだいとカロリーヌは目を白黒させる。


「らしいですね。鼻の穴を広げておけば、物語みたいに素敵だったんでしょうね。きっと……でも、ご主人様が何も言わなかったと言うことは、きっと知らなくていいということなんだと思います」


パトリシアは、はぁっとため息をつく。


マイヤーたちは、お互いに顔を見合わせる。


これは、中途半端に知識を持たせたら良くないのではないか?


お互い、マイヤーとカロリーヌは頷いた。


覚悟を決めて正直に話をしようとする。


「あのね……実は、ミレー様に頼まれたんだよ。普通は、そう言う教育も時間をかけるものだけど、無理に結婚を急がせたから責任を感じているんだろうね。夜伽というのはね……」


マイヤーとカロリーヌは、パトリシアに正直に夫婦のことを話していった。





「で、落ち込んでいると……」


「変に雑談にするより、正直に伝えた方があの子にはいい気がしてさ」


ミレーとマイヤー、カロリーヌは、部屋から出てこないパトリシアの事を心配していた。


「ここからは坊ちゃまの仕事ですね。」


マイヤーは、ミレーの肩を叩く。


だが、その日を境に、パトリシアが夫婦の部屋に来ることをパタリと辞めてしまった。


私の執務室に来ることさえなくなってしまう。


食事も、食欲がないと言って、マイヤーが持っていくものを少し口にするだけのようだ。


私は、これからのことや自分のと関係をどうしていくのか、ただ彼女が好きになってくれるのを待つのではなく、きちんと話し合わなくてはいけないと感じていた。




◇(パトリシア視点)



私――パトリシアは、マイヤーとカロリーヌから夜伽の内容を聞いて衝撃を受けていた。


と言っても中身の話ではない。

中身は具体的には分からないなりにも、所々は想像ができていたので衝撃は少なかった。


二人は、内容だけではなく、丁寧に、女性として相手をどう受け止めて、どう関わるのか、どんな気持ちになるのかなど具体的に心理面の話もしてくれたのだ。


それが必要だと、夫であるミレー様は、私のことを考えてくれた。


知らなければ、私がこれからどうしたいのかすら決められないからだろう。




でも――父と母は私をなんだと思っていたんだろう。


そのことに気づいてしまい、つらくなった。




領地を旅立つ直前まで、私は走り回っていた。


特に落石事故で、セルビオが亡くなったという時は、色々と大変で、自分のことなんて二の次だったから……


「そういえば、ゆっくり結婚について、お父様たちと話したことなんてなかったな」


結婚は急だったということもあるだろう。


それだけではない。私にはまだ下に弟も妹もいた。


その子達を食べさせることで父も母も必死。


貴族としてどう生きるのか、どんな知識やマナーが必要なのかだけは、ずっと教えられてきたのに――


私が自分でどうしたいのかという選択権が与えられていなかったことに今更気づく。



お母様は生粋の貴族令嬢だったから、決定しなければならないことは、お父様に任せておけばいいという考えだったのよね。


お父様は、逆に、家のことはお母様に任せておけばいいという人だった。


私は自嘲気味にフッと笑う。


父と母が悪いわけじゃない。


普通の貴族は、その世界が当たり前というだけだ――




私はため息をついた。


何が一番ショックだったかと言えば、私が何も疑問に思わなかったということだ。


任せておけばいい――


その考えに支配され、私はただ、夫から与えられた世界をありがたいと思って生きていくことが正しいのだと思っていた。


夜伽もそうだ。


夫が必要なら行う。


やり方は夫に任せる。


やらないならありがたい。


「私、ゆがんでるわ。私は可哀想ではないとみんなに言ってきたけど、本当にそうなの?私、みんなが言う通り、もしかしたら可哀想なんじゃないの?」



お金のために結婚したことも……


なんの知識も持たずに夫任せにするように言われたことも……


初めての夜に、夫から不要と言われることも……


愛人が当たり前に、私に嫌がらせすることも……



私が結婚して、すぐ使用人になったのは、妻の仕事は必要なく、支援はするから、好きにして良いと言われたからだ。


少しでも支払いの足しになればと……


私にとっては支援をしてもらう理由がないと思ったから、夫の言うことを忠実に守って好きにしたのだ。


そして、今度は、ミレーから、使用人はするなと言われてからはしていない。


何度もミレーはそれを匂わせてきた。


「君が女主人なんだから、君が望むなら家庭的な雰囲気にしていいんだよ。みんなで同じテーブルで食べたいといったら良いんだ」


家の方針のことで、そう言ってくれたことがあった。


それは……私の意思がそこにないことを暗に告げていたんだ。


呆れていたんだろうか……私のこと……




「でも、ご主人様は……ううん、自分は夫だといったわ。私を好きだって、惹かれてるって……」


そう言ってくれたもの――


呆れてなんていないと信じたい。




向けてもらう気持ちすら夫任せ。


私がどう応えるのか?


ミレーは、私の意思を何度も確認してきたけど、私がそれを拒んだ。


どうしたいのかなんて意思表示はいらないと思っていた。



「ご主人様は、私が夫の言いなりになるんじゃなくて、私がどうしたいのか、初めて選択肢をくれた人ということなんだわ」


ミレーが今まで言ってきた言葉の意味を思い出す。


「君が私に好意を持たない限り手を出さない」


「無理に自分を好きにならなくてもいい」



私はそれを思い出して、ハッとした。


「わたしは……ご主人様を、夫して愛してもいいし、愛さなくても……いい……」


それが、選択で決定――


そう思うと、突然心の中に冷たい風が吹いたような、何にも隠れることも支えるものもなくなったような、不安な気持ちになる。



その時――


「パトリシア、私と話をしよう」


ドアの外から、夫であるミレーの声が聞こえてきた。




ふらふらと、部屋の扉を開ける。


「ご主人……ミレー……」


私は、ミレーを見た瞬間、今までは私のご主人様だった目の前の人が、初めて自分の夫なんだと認識した。


「パトリシア、ご飯食べてないんだって?私が、女性同士話をした方が色々聞きやすいかと思って手配したことが、ショックだったかな?」


心配そうに、様子を聞く夫ミレーの優しさに、ボロボロと涙が出る。


この優しい人が、私に酷いことをしたのだ。


それなのに――誰よりも、私の理解者なのだ。


「ミレー……ミレー……ミレー……」


私は、夫の名前を連呼する。


ご主人様じゃない。


私の夫だ。


「私は……怒っていいんですか?」


「怒る?」


ミレーは、私が泣いていることに動揺していた。


「大丈夫?どうしたの?」


私に目線を合わせて心配そうに肩に手を当てて聞いてくる。


ちゃんと、わたしを認識してくれる。


でも、そんな優しい人にまで、私は軽んじられたんだ――



私は、夫に、妻として迎え入れられたわけじゃなかった。


私は、夫と愛人の隠れ蓑だった。



夫の任せたらいいの。


夫の言う通りにしたらいい。



それなのに、何も求められなかったことをなぜ喜んだのだろう?


「どうして、私を求めてくれなかったんですか?」


「えっ?」


「どうして、夫が好きな人と付き合うために、私は軽んじられなければならなかったの?」



ううん、そんなことを言いたいんじゃない。


だが、ミレーはハッとしたように私を見つめる。


「パトリシア、ごめん。君をたくさん傷つけた。」


ミレーは焦ったように、泣き出す私の手を握る。


「ちがう!そんなこと、謝って欲しいんじゃない。どうして、わたしを軽んじたあなたが、唯一、わたしの意思を尊重するの?みんな誰もわたしの意思なんて聞かないのに!一番わたしを馬鹿にした人が、どうして……」


「パトリシア……私は君を馬鹿になんて……いや、その態度はそう思われても仕方なかったことだな」


ミレーは、わたしから目を背けることはなかった。


「ねえ、ミレー、私は?私は可哀想なの?」


そう聞くと、そこまでは、じっとわたしを冷静に見ていた目を見開いて、明らかに動揺しはじめた。




「私は可哀想ではありません」


そうみんなに伝えていた。


でも、みんなそう思ってくれなかった。


どうしてだろうと不満だった。でも違う。


それは……明らかに、私は可哀想で、私だけがそれをみとめなかったからなんだわ。


私は全ての糸が切れてしまったように、涙が、次から次へとボトボト落ちてきた。


何もこれ以上考えられなくて、発狂しそうだった。


「君は、自分のことを可哀想ではないと言った。でも、当初、私は、確かに君を可哀想だと思ったんだ。だから君に対して申し訳ない気持ちがあって、当初の予定以上に実家の支援をし続けた」


借金だけではなく、落石除去や新しい事業の相談のことだわ。


私はコクンと頷くと、ミレーは、切なそうに私を見つめながら私の頬の涙を指で拭った。


「でも、君は、文句も言わず、置かれた環境で前向きに行動をして多くの人たちから愛されていたよね。すると、今度は、自分の思い通りにならないことを人のせいにばかりしていた自分が情けなくなった。そして、人の幸せや努力が平気で踏みにじれるようになっていた自分こそ可哀想なダメな奴だと思ったんだ」


「ミレーが可哀想な人?」


「そう、君は可哀想じゃなかった。本当の意味で可哀想で、ダメな奴は私だった。

君の行動を見て、私は君に惹かれていったんだよ。前向きに笑顔で過ごす君はとても魅力的だった。だけど、私はずっと思っていたよ」


ミレーが、私に触れる手が震えていることに気づく。


「君は、私に怒りをもっとぶつけていいんだ。もっと嫌っていいんだ。なんでここに自分を連れてきた?なんで、愛人の隠れ蓑にさせた?借金をチャラにするためになんで自分が犠牲にならなければならなかったって……」


私は、ぐっと奥歯を噛み締めた。


「怒って……いいんですか?」


ミレーは頷いた。


「妻なのに……夫を嫌っていいんですか?」


ミレーは、少し目を細めた。


「私はそうされるだけのことを君にしたんだ」



そう言って目を伏せる。



それを見て、私はボロボロ泣きながら、ミレーに抱きついた。


ミレーは、少し驚いた顔をしたが、こわごわと私を抱きしめ返す。



「ひどいです。嫌えないです。だって、わたしをちゃんと見てくれた人だもの。ちゃんと、わたしを好きになってくれた人だもの」


そう肩を震わせて涙する私を、ミレーはずっと撫でた。


「パトリシア、愛している。本当に愛しているんだ。君にずっと恨まれても、嫌われても、それでも離したくないんだ。酷い男だろう。君の愛する人が、生きて帰ってきたというのに……きみの結婚したい人が……それなのに離したくないんだ。」


それを聞いて、わたしの頭はフリーズする。


「えっ……」


ミレーも涙を流しながら、私には懇願する。


「君が自由になりたい。実家に帰りたいというなら、私には止める権利はない。だけど、私は君の夫でいたい。生涯、君にしかられながらその罪を償いたい」


そう言って、私を抱きしめる力を強くする。


「ち、ちょっとまって!あの……私の結婚したい男って?なんのことですか?」


「君には、結婚の話があった幼馴染の男性がいるって。君がそう言っていたじゃないか?」


「結婚する話があっただけで、愛しているは間違いです」


私はキッパリとミレーに告げた。


だが、再び不安が心の中を覆ってくる。


そんなことは今までになかったことだ。


「私が……ミレーの奥さんでいたいと言ったら……受け入れてくれますか?たくさん今までのこと蒸し返すかもしれない。突然嫉妬して怒り出すかもしれない。それでも受け入れてくれますか?」


「もちろん。当然じゃないか」


ミレーは、私を抱きしめる腕を緩めて、私に視線を合わせる。


「貴族らしいこと何もできませんよ。知識だって、流行だって、ダンスだってすごく秀でているわけじゃないです」


「すごく秀でてないというけど、君ほど努力家もいないし、君は聞き上手だからね。自己顕示欲の強い奥様たちからは、評判はいいときいているよ。君は自分を蔑みすぎだ」


ミレーは、額に「愛している」と呟きながら、口付けを繰り返す。


「キスも夜伽のことも知りませんよ」


「聞きたいことがあれば伝えるよ。私は、君が私のことを本当に好きになるまで待つつもりだ。こんな男だ。恨まれることは覚悟だし、好きになってもらうのは正直諦めていた。だけど、その質問をしてきたということは、将来私にも希望はあるということかな?」


ミレーは、私の顔を優しく見つめたが、すでに諦めているような顔つきだった。


「妻とやってみたいこと……100のリストを見せてください。私も夫とやってみたいことを100作ります。おはようのキスと、おやすみのキスは絶対です。ええと……夜伽は……」


「君が受け入れてくれるなら、それだけは私に任せるということでどうかな?全部自分でって思わなくていいよ。任せるということを決めてくれたらいい」


私は、こくりと頷いた。


ミレーは、ははっと笑ってホッとしたように呟いた。


「愛する妻が、そばに居てくれるなら、私も君を譲りたくないと伝えて戦えるよ」


「戦う?」


私の問いにミレーは頷いた。


「やらかしたことは事実だからね。君の実家に行く。そして、君を妻にしたいともう一度告げるよ。元々そのつもりだったけど、君が離縁したいと言ったら諦めないといけないかなっておもってたから……」


そう苦笑いするミレーを見て、わたしはむっとする。


「なんで、諦めるんですか?セラフィーヌ様の時は諦めずに、私を隠れ蓑にしてまで添い遂げようとしたくせに!そんなの、私への愛が弱すぎます!」


そう私は叫んで、ミレーの口元にチュッと口付けをする。


そして、わなわな震えて、叫んだ。


「私、今日からミレー様の妻ですから!私以外の他の女性を大事にするのは禁止です!あと、過去の女性より私の方を蔑ろにするのはもっと禁止です」


そう叫ばれたミレーは、私が口付けたところに手を当てて、呆然としていた。





それから間もなく、私とミレーは、馬車に乗って実家を訪れていた。


「正直、馬に乗りたいです。馬車は堅苦しい」


私は、ミレーに向かって文句を言う。


「流石に実家に里帰りする時ぐらい格好つけさせてよ。立派な馬車に乗せて帰らせたいし、馬車はいちゃつけるじゃないか」


そう言って、私を抱き寄せようとする。


「ミレー、うちの領地でこんな豪華な馬車が走るのは珍しいの。いちゃつきは禁止です」


沿道に、私たちが走る馬車を見つめている人たちが見えた。


「あ、植物が育っている」


茶色く枯れた農作物が残り、硬くなってしまった土壌が少し改善されているようだった。


侯爵領のようにすばらしい田畑が広がる景色ではなかったが、長くみることができなかった緑がそこにある。


「ああ、土壌改良をすると言っていたからね。だからこそ、また大雨でダメにならないように、水路は工夫した方がいいんだ」


ミレーの顔は、少し不安そうだった。

どんなにこうした方がいいと思っても、お父様が、どんな反応を示すかわからない。


「ミレー、私の夫は貴方だから……もし、お父様が反対しても、離さないでほしいの……」


私は、力強くミレーの手を握る。


「ちょっと嫌な予感がしているのよ……」


そう語ってから家に着いた直後、私の予想は大当たりだった。





「パトリシア!」


私がミレーの手を借りて馬車から降りた直後に、私を出迎えたのは、セルビオだった。


「やっぱり嫌な予感がしたのよ!」


私は叫ぶ。


「なんで、セルビオが実家から出てくるのかしら?この家は貴方の家じゃないし、わたしが帰ることはお父様にしか伝えてなかったわよね」


「なんで?どうしてそんな他人行儀なんだ?夫の手前か?アディール様も僕も君が不幸な目に遭ってると知っているんだ。ミレー侯爵が、君の代わりに愛人を妻だといって連れ立っていたらしいじゃないか?あなたも、今更、里帰りだと言って夫の顔でここにくるのはどうなんですかね」


セルビオは、私が無事でよかったと言う前に、まるで我が家の家族のような顔でわたしを出迎える。


「セルビオ、話は私がするから……ミレー侯爵よくおいでくださった。セルビオは、娘の幼馴染で家族のような間柄でね。苦しかった時に支え合った関係で、娘を心配して行き過ぎた行動をしてしまうんだ。お許し願いたい」


お父様は、セルビオの後ろから声をかける。


少しやつれた顔で私を見て、よく帰ってきてくれたねと私に笑顔を向けた。


遅れて、お母様と弟と妹も、心配そうに後ろで、私たちを見つめていた。


セルビオがまさか初手からミレーに対してあんな不遜な態度を取るとは思わなかったのだろう。


「ええ、お父様とはゆっくり話がしたいと思ってる。だけど、聞き捨てならないわ。セルビオ、夫の愛人は私が公認していたことで、大した問題ではないの。しかも、貴方が言う権利がある話なの?」


私は目を釣り上げて、セルビオに迫る。


ただでさえ、ミレーは、自分のしたことを責めているというのに!


「確かに失礼した。だが、この後、侯爵と君の関係が偽造されているものだというなら、借金は僕とパトリシアの二人で返していきたいと話をしたんだ。僕は、結婚するなら君だと話していたよね」


セルビオは、ミレーの前に立ちはだかる。


慌てて、父が飛び込んできた。


「ミレー侯爵、この二人のことは私も知らなかったんだ。仲睦まじく、昔から二人は支え合ってくれていると思っていた。セルビオ、二人は今夫婦なんだぞ!何を言っている?

ここからはゆっくり、侯爵の口から、今までの本当のことを知りたいと思っている。どこから噂で、二人の関係は今どうなのか?」


お前は家に帰れと、父はセルビオを目で制そうとするが、ミレーはぐっと堪えるような顔つきになり、無言でかばっと頭を下げる。


「ミレー、やめて」


私はあわてて止める。


だが、空気を読まないセルビオは、軽蔑の目でミレーを見た。



「ほら、アディール様、頭なんて下げて、やましいことがある証拠だ」


セルビオは、一方的に捲し立てる。


私は、頭を抱えた。


やっぱり、嫌な予感がした通り――


「セルビオ、あなた言い方に誤解を招くからやめてちょうだい。」


私は、セルビオのいつもの悪癖だとわかっていた。


「お父様、二人のことを知らなかったってなんですか?私は、こいつの女癖の悪さのせいで、いつも領内の女の子たちから一方的に軽蔑されたり恨まれたりして大変だったんです」


「えっ?セルビオが?」


父は、驚きのあまり話が違うと呟くのでわたしは頷く。



「本当です。しかも、その子たちと切る理由に私と結婚することが決まっているから君とは別れなければならないんだみたいな言い訳をして歩くんですから」


その瞬間、ミレーの顔も、えっ!という顔に変わる。


「ち、違う。僕は、真剣に君に結婚するなら私にしないかと何度も提案してきたはずだ」


セルビオは、動揺したように手を振って、違う違うとアピールする。


「ええ、極貧貴族と結婚できるのは、この状況を知っている俺だけだと……確かに、こんな領地ですからね。もし、お父様が縁組を考えるなら、同じ領内の貴族男性で適齢期となったらセルビオしかいないわ。

私は何度貴方が好きじゃないと伝えても話が通じないし、もし、お父様から縁組されたらどうしようと怯えていたのよ」


思った以上に、父が決めた話は絶対というものが自分の中に染み付いていたようだ。


良くも悪くも借金だらけで娘の結婚に目が入っていなくて助かっていたのだ。


ミレーから、自分で決めていいと言われてから、今までの行動を振り返ると、逆らえなかった自分や環境など色んなことが気持ち悪くなってくる。


私はわなわな震えて、半分涙目になりながら、お父様に訴える。



「セルビオは、本当に女癖が悪いんです。セルビオが死んだと思った時に、この人の彼女と言う人が何人私に、本当は私のことを彼は愛しているのよと告げたことか?」


「じゃあ、セルビオが亡くなった時に、みんなを慰めてまわっていたのは?」


父は、目を丸くしてセルビオが亡くなって落ち込んできたんじゃなかったのかと問いかける。


私は、ぶんぶんと首を振った。


「みんなが本当の貴方の彼女だと私のところにやってきて、その彼女同士が修羅場になったからに決まってるわ。だからみんなを慰めていただけ!」


私は、セルビオに指を突きつけて言った。


「さあ、言ってみなさい。貴方のことだから、どうせ落石があって行き来できない間に辺境の地で何人かと女性トラブルを起こしているわよね?」


「……トラブルじゃない。少し君から心が動いただけで……」


セルビオの目が泳ぎ始める。


ミレーも呆れたように、あの落石除去の短期間で他の女性とも関係を?と、唖然としている。


父に至っては、何が真実なんだ?とパニック状態だ。


「おそらく落石工事が終わるまでにあちらで女性を引っ掛けた。そして、いよいよ遊びを切るために、私という結婚相手がいると言って逃げようとしたら、もう私は結婚していなかったというパターンで慌てたというところじゃないかしら?」


「いや、本命は君だけだ。僕は……」


セルビオは慌てる。


「セルビオ、私言ってたわよね。あなたからの誘いはきちんといつもお断りしていたし、お父様に言われたらそれまでだけど、今、うちはそれどころじゃない。借金でもう首が回らない。あなたは、ありもしない結婚話を盾にして遊び回ってるけど、私は、借金のかたに売られてもおかしくないって」


私は両手を腰に当てて、それでもまだ言うかと睨みつける。


「で、君は売られたわけだ。」


はんっと軽く笑い声のように、セルビオが言い放つと、今度は父の目が泳ぎ始めた。


「売られていない。もちろん、わたしは伯爵に今まであった話をしなければならない。だが、私にとって妻は……パトリシアは愛する女性だ。」


ミレーは、そう言って怒りに震える私をかるく支えた。


「それで、愛人を連れ回してパトリシアだと周囲には言いまわったってな。噂になったから愛人を別の住まいに住まわせたらしいが、相当な支援をしたということじゃないか」


「それは、お別れした時に彼女が困らないようにと……」


私は、そのあたりのことを詳しく聞いていないので、思わず言い淀む。


「お前は子供だな。愛人と別れるのに、普通そんな待遇しないんだよ。未練たらたらじゃねえか」


セルビオは私を煽るように下品な笑いを見せた。

わたしは、瞬間、グッと言い返せなくなる。


「子供はお前だ。妻が好きなら、素直に好きだと言っていればまだチャンスはあっただろうに……そんなまどろっこしい嫌がらせをするな。ましてや自分のケツを自分で拭けないような女遊びをするんじゃない。私も人のことは言えないが、最高の待遇をすることで二度とパトリシアに関わらないように線を引いただけだ」


ミレーは、セルビオを睨んだ。


「お前だって、女遊びをしてたじゃねえか!パトリシアじゃ満足もできなかったんだろ!」


そうセルビオがミレーに言うのを聞き、頭がすーっと冷えて、真っ白になる。


「あんたね……」


私はプルプルと腕を震わせる。


「一緒にしないで!ミレーはね、不器用なくらい一人をちゃんと愛せる人なの。この人は遊んでない!愛人だってちゃんと愛してた。だからといって、わたしを蔑ろにしていたわけじゃないの。ちゃんと私を愛せない理由を私に伝えた。二股もかけてない。」


「それは……騙しているのと同じだ。私はお前が幸せに暮らしていると思っていたから……そんなの支援金をちらつかせた脅しだ」


父が、どういうことだとミレーを睨みつける。


「違う。騙してないし、脅されていない。私は、ちゃんと侯爵家でミレーに選択肢を与えてもらった。私にとって大切だった領地やみんなを守りたいと思ったから、私はその話に乗った。それだけだわ」


「それが脅しみたいなものだ。私はそれを耳にした時、どう思ったか?ここはだいぶ復興した。また借金になるが、支援されたお金は返すから娘を返して欲しい」


父は、ミレーに冷たく告げた。


「お義父上、言い逃れをする気はありません。娘さんを騙したと言われたらそうだし、お金を盾に脅したと言われても仕方ありません」


ミレーはそのまま頭を下げ続ける。


「違う!脅されてない!この人は私を一度も脅したことなんてない。お父様だって、私を支援金のために差し出したじゃない。ミレーの噂を聞いたからって、離縁しろなんて言わなかったじゃない。ミレーには、お付き合いしていた人はいた。でも誠実に対応していたし、私のことも……」


そう伝えていると、セルビオはふんと鼻で笑う。


「誠実にねえ、その結果、結婚してすぐに、愛人にお前をあてがったんだってな。聞いたことないぜ、本妻に愛人のお世話をさせるって」


「なんでそれを……あれは、私がやりたいといってやらせてもらったの。お金だけもらって何もしないで、ただ妻の看板代をもらうのはおかしいって思ったから頼んで使用人になったの」


私は、自分がやりたいことをやったのだと告げた。


だが――


「もういい!どちらにしても、使用人にするつもりで、お前を嫁に出したんじゃない。支援はありがたかった。それで食べていくことが出来たし、なんとか立て直しも出来そうだ。でも、これは不貞です。それもかなり悪質な……」


父が、ミレーに対して怒りを最大限にする。


母は、揉めに揉めた状態を見て、弟と妹に部屋に入るように言う。


そして、私にも声をかけた。


「パトリシア、あなたは家のために頑張ってくれたわ。お父様も感謝している。でも、あなたは私の可愛い娘よ。そんな目に遭わせるために嫁に出したんじゃないわ。お父様の言われる通り、後はお父様とミレー様で話してもらって、貴方は戻ってらっしゃい」


母は、以前より顔色も良くなった。見慣れない服だし、少し服なども買い直せるほどのゆとりは作れるようになったのだろう。


「私は、ミレーと一緒にいる。ミレーを愛しているの。彼は、不誠実じゃない。ちゃんと私を大切にしてくれる人なの。誰かの意見じゃなくて、私がどうしたいのかをちゃんと優先してくれる人よ。お願い、私は夫がミレーのままがいい」


私は、ミレーに駆け寄った。


ミレーは、その場に膝をつき父母に向かって土下座した。


「パトリシアを……妻を私に。私も彼女を愛しています。今までの行動で褒められない事があったことは認めます。それでも、お願いします。パトリシアを私にください」


私も、そのまま一緒に膝をつく。


「お願い、お父様!私はミレーといたい」


父母もセルビオも、そのまま呆然と立ち尽くす。

私とミレーは、お互いその場で抱き合い、離れたくないと涙した。


「なんだよ!俺は?俺とお前はどうなるんだよ!」


その空気を読めないセルビオは一人わなわな震えて、私を怒鳴りつけようとする。

私はキッとセルビオを睨みつけた。


「どうもこうもしないわよ!私が好きなのはミレー以外いないの!あんたは、引っ掛けた女たちにこうやって土下座して謝り倒しなさい」


私は、ミレーに抱きつきながら、いいかげん、私が好きなのはセルビオではないことを理解しろと怒鳴った。





帰りの馬車で、私とミレーはホッと一息ついていた。


「一緒に帰れてよかった」


ミレーは、ぐったりして私に寄りかかった。


「ミレー、重いです。はぁ、私も今回ばかりは、お父様とお母様の視野の狭さにびっくりしてしまいました。思い込み激しいし、勝手に自分を酷い父親だと思い込んでるし、私は不幸な娘になってるし……」


私も、ミレーに寄りかかってため息をつく。


「なかなか……セルビオ殿は個性的だったね。正直、理由はなんであれ子爵の息子が侯爵に、あそこまでの態度を取るのはなかなかないもんなんだが……」


ミレーも、今回は目を瞑るけどねと苦笑いした。


「彼も社交界どころではなかったですし、伯爵家のうちともこんな軽い関係でしょう?子爵様も、領地が落ち着いたら教育しないとそのうちトラブルになると思うわ。そうじゃなくても女関係がろくでもないのに……」


私は、眉間に皺を寄せて、あれは酷いでしょう?と同意を求めようとするが、ふふっとミレーは笑っている。


「そうだね。お子様な態度だったから、何とか私に分があったけど、もう少し紳士なら危うかったかな……」


ミレーは、あれは、多分君が好きだったんだと思うよ。と呟くが、私は勘弁してくれと首を横に振った。


「伯爵も、私たちの仲を認めてくださったし、いよいよ灌漑事業も本格化したら、次に来る時はここも緑あふれる畑に変わるかな。ガラス事業も、評判が良さそうだし……」


そう言って、ミレーは少し視線を外の景色に向ける。


「ここまで復興したのは、ミレーのおかげだと思っているわ。この後は帰ったら、無事に私たちの関係を認めてもらった祝杯をあげましょうよ。ジュースのお酒と、エールは飲んだわ。葡萄のお酒もあるのよね?」


わたしは嬉しそうに、手を叩く。


だが――


「ダメ。今日は祝杯しない。君は、飲んだら大変なんだからね。まず記憶をなくすし、嘔吐するし……」


「そこまで一気に飲まないわ」


今、祝杯をあげなくていつあげるのだ?


私は不満気に、むーっと唸る。


それを見て、ミレーはツンとして私に言う。


「ダメ!今日は、初夜のやり直しがしたい……記憶は、無くしてほしくない。いいよね?」


「……」


確かにミレーが好きだと宣言はしたけど……


「……い、痛いっていってたわ。もっと後にしたらどうかしら?」


「そうだね。後にしても痛いと思うよ……」


私は、カーッと真っ赤になる。


「私の意見を尊重してくれると言ったわ」


「嫌なの?」


「嫌……じゃないけど……」


嫌じゃないし、好きだと自覚したし、結婚もしたし、妻は私だし、全くダメでも嫌な要素もない……


「お、お任せしても……いいですか?」


「もちろん」


ミレーは、そっと、私の身体を引き寄せて、顔を近づける。


「だ、ダメです。本当にここはみんな見てますから!」


私は、近づくミレー押し返そうとする。


「キスを見せたいんだけど……計算高い夫は、可愛い妻が自分に夢中なのだと。他の人が入る隙はないし、君は夫に愛されていると見せつけたいんだ。都合が悪いことはある?」


ミレーは意地悪そうにニヤリと笑った。


「ないですけど、見せつける必要は……」


そう言う間もなく、ミレーの唇は、私の唇にふれる。


「鼻で息をするんだよ。舌と舌のせめぎ合いなんだからね」


そう、笑って再び深く長くキスが降り注いだ。


馬車の窓からは、爽やかな風と静かに揺れる麦の穂が、二人の窒息という名の共同作業を見つめていた。


《完》















評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ