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ポロロッカ哀愁 ~アマゾン川でサーフィンしちゃった~

作者: 近藤良英
掲載日:2025/11/12

成田から地球の裏側へ――。

アマゾンの大河をさかのぼる“逆流の波・ポロロッカ”に挑んだ三人の日本人青年。

熱気と湿気、笑いと恐怖、そして友情。

夢を追う彼らが見つけたのは、波の果ての栄光ではなく、

一瞬のきらめきと心の自由だった。

青春の痛みと希望を南米の風に乗せて描く、

異国青春サーフ・ロード小説。


〈主要登場人物紹介〉

小田島 光一(21歳)・・・

神奈川県出身の大学生。幼いころ父が見せたNHKのドキュメンタリー「ポロロッカ」に憧れ、

“親父の代わりに波に挑む”ことを夢として育つ。仲間思いで冷静だが、心の奥には強い情熱を秘める。


三島 春彦(22歳)・・・

光一の幼なじみで秋彦の兄。陽気でお調子者だが、弟と仲間を守るためには誰よりも熱くなる。

口癖は「なんとかなるさ」。旅先のトラブルメーカーでもある。


三島 秋彦(20歳)・・・

春彦の弟。身長が高く穏やかな性格。兄の無茶に巻き込まれながらも、行動力と優しさを兼ね備える。

ピラニアや霊現象に最も敏感で、無垢な心を持つ。


ヤマガタ・トキエ(26歳)・・・

全日本サーフィン選手権ガールズクラスの優勝者。大会準優勝者として登場し、

秋彦を救う。静かで芯の強い女性。カピン川の伝説「カピンの霊」を知る語り部でもある。


ホテルの女主人(60代)・・・

日系ブラジル人。亡き夫の遺した古いホテルを切り盛りしている。

陽気でおしゃべりだが、村に伝わる“川の霊”の存在を信じている。

________________________________________


〈ものがたり〉

第1章 成田からの旅立ち

「来た来た来た、ついにやって来ました!」

 成田空港のロビーで、小田島光一はサーフボードのケースを肩にかけながら叫んだ。

 その隣では、三島春彦が深いため息をつき、弟の秋彦が笑いをこらえていた。

「成田から二日近くもかかっちゃって。大会前にすっかり疲れたぞ」

「まあまあ兄貴、まだ飛んでないって」

 三人は神奈川県の大学に通う学生。幼いころから湘南の波で育ったサーファー仲間だ。

 光一(二十一歳)、春彦(二十二歳)、秋彦(二十歳)。幼なじみで、兄弟みたいな三人組である。

 目的地は――南米ブラジルの奥地、アマゾン川の支流カピン川。

 その河口で年に一度だけ開催される「ポロロッカ・サーフィン大会」への出場が、三人の夢だった。

 光一がその夢を抱いたのは、父の影響だった。

 小学生のころ、父が古いビデオで見せてくれたNHKのドキュメンタリー――「アマゾンの逆流現象・ポロロッカ」。

 茶色く濁った大河を、逆流の波がうねりながらさかのぼっていく。

 その波に乗るサーファーたちの姿に、幼い光一は息をのんだ。

 「いつか俺も、あの波に乗ってみたい」と、あのとき心の奥でつぶやいた。

 それから十数年。

 皿洗いやコンビニ、サーフショップのバイトで金をため、ようやくその夢が現実になる時が来たのだ。

「ほんとに行くんだな、ブラジル……」

 春彦がつぶやく。目を細めるその表情には、期待と不安が入り混じっていた。

「おう。アマゾンの波に乗るぞ。親父の代わりに」

 光一の声には、どこか使命感のような響きがあった。

「兄貴、日焼け止め忘れんなよ。こっちの太陽とは比べものになんねーらしいぞ」

「秋彦、おまえは虫よけな。ピラニアより蚊のほうが怖いってさ」

 三人は笑いあった。

 搭乗手続きが始まると、三人は巨大なボードケースを引きずりながらカウンターへ向かった。

 チャンネルアイランド、パイゼル、ジェイエスインダストリー――それぞれの愛機は十万円を超える自慢の板だ。

 磨きこまれた白い表面には、夕陽のようにオレンジの照明が反射していた。

 毎晩、寝る前にワックスを塗り、指先で撫でるように光沢を確かめていた。

「重っ……でも、これがなきゃ始まらねえ」

「三辺の合計三百センチ以内だから無料のはずだろ?」

「たぶんな。超えてたら光一が払えよ」

「なんで俺!」

 笑いながら荷物を預ける三人。

 しかし、その胸の奥では、初めての長旅に対する緊張が静かに膨らんでいた。

 片道三十九時間、成田からドバイ、サンパウロを経由して、アマゾンの入口ベレンへ――。

 出発ロビーに響くアナウンス。

 光一がボードケースに手を置いてつぶやいた。

「行くぞ、俺たちのポロロッカへ」

 ドバイ行きのエミレーツ航空のジェットが夜空に舞い上がる。

 成田の街の灯がみるみる遠ざかっていく。

 光一の胸には、父の笑顔と、海辺の家の波音がよみがえっていた。

 機内では三人ともほとんど眠れなかった。

 映画を見たり、トランプをしたり、何度も「あと何時間?」と時計を確かめた。

 ドバイの空港では、まぶしいライトと香辛料の匂いに迎えられ、見たことのない民族の人々が行き交っていた。

 「ここ、もう別の惑星みたいだな」と秋彦。

 「まだ途中だよ、弟くん」と春彦が苦笑した。

 サンパウロの空港に着くころには、すでに身体の芯まで重く、時差のせいで頭がぼんやりしていた。

 しかし、ベレン行きの便がアナウンスされると、光一の胸にまた熱が戻ってくる。

「もうすぐだぞ。アマゾンだ」

 飛行機が夜の闇を突き抜け、ベレン空港に着陸したのは、現地時間の午前一時十五分。

 成田を発ってから三十九時間――ようやく、夢の地に立ったのだ。

 空港のドアを開けると、もわっとした熱気が全身を包んだ。

 まるで蒸し風呂のような湿気。

 息を吸うたびに、肺の中まで温かくなる。

「うわっ、空気がぬるい……」

「熱帯ってこういうことか……」

 汗が首筋を伝い、Tシャツが肌に張りつく。

 光一は手のひらを広げ、夜空を見上げた。

 星が近い。数えきれないほどの星々が、南十字星を中心に瞬いている。

「なんか……地球の裏側に来たって感じだな」

 三人はタクシーを拾い、ホテルのあるサン・ドミンゴス・ド・カピン村へ向かった。

 車は白いパジェロ。運転手は陽気な初老の男性で、白い開襟シャツに青い格子の半ズボン。

「ニッポン? ニッポンから?」

 片言の英語で話しかけてくる。

「そう! 日本からサーフィンしに!」と春彦が答えると、運転手は笑顔で親指を立てた。

 道路の両脇にはオレンジ色のマンゴーの街路樹が続き、夜明け前の国道をパジェロは時速八十キロで走り抜ける。

 車窓から見える村の影、川のきらめき、夜風の匂い。

 光一はぼんやりと思った。

 ――この旅の終わりに、自分は何を見ているだろう。

 彼の胸の奥で、アマゾンの風が、もう静かに吹き始めていた。

________________________________________


第2章 アマゾンの熱風


 夜の闇を切り裂いて走るパジェロのエンジン音が、まるで心臓の鼓動みたいに響いていた。

 窓を少し開けると、むっとするような熱気が流れ込んでくる。湿った風に、マンゴーとガソリンのにおいが混じっている。

「すげえな……。夜なのに、蒸し風呂じゃん」

 助手席の春彦が、汗をぬぐいながらぼやく。

「エアコンつけてくれって言えよ」

 後部座席の秋彦が、肩で笑う。

「いや、窓開けたほうが“南米に来た”って感じがするじゃん」

「兄貴、そういうのは最初の三分だけだって」

 秋彦のツッコミに、運転席の老人がにやりと笑い、片言の英語で言った。

「ニホンボーイ、アマゾン、ハイ、ヒート!」

 車内は笑いに包まれた。異国の空気と、言葉の通じない可笑しさが、少しの緊張をほぐしてくれる。

 ベレンの街を離れて二時間半、舗装された道がやがて土の赤茶けた道に変わっていく。

 タイヤが跳ねるたび、車体が大きく揺れた。窓の外にはヤシの林が続き、ところどころに錆びたトタン屋根の家がぽつんと建っている。

 空がわずかに白みはじめたころ、カピン川沿いに小さな村の灯りが見えてきた。

「ここが……サン・ドミンゴス・ド・カピンか」

 光一がつぶやく。

 運転手は頷きながら、前方の古びた教会を指さした。白い尖塔が、朝霧の向こうにぼんやりと浮かび上がっている。

 ホテルと呼ばれた建物は、白壁の木造二階建ての洋館だった。

 門の上に古い看板が掲げられている。「CASA DO RIO(川の家)」――百年前、ポルトガル人が別荘として建てたものらしい。

 川のほとりに立つその姿は、まるで時間から取り残されたようだった。

 玄関で出迎えたのは、丸い体をした日系ブラジル人の女性だった。

 白いエプロンの下から、陽気な声が弾ける。

「オハヨー、ジャパニーズ? ヨク来タネ!」

「はい、日本からサーフィンしに来ました」

 光一があいさつすると、おばちゃんは目を細めて笑った。

「カピン、イマ、アツイヨ。大会、二日後ネ。アナタ、運、アル!」

 部屋は三人同室。白い天井の一部には古いシミがあり、床は木が軋んで鳴った。

 ベッドの上には花柄のシーツ、扇風機が一台、そして窓の外には、カピン川の濁流がゆったりと流れていた。

 夜明けの川面は赤銅色に光り、朝の靄の中で静かにうねっている。

「うわ……でっけえな」

 秋彦が窓に顔を近づける。

 川幅はゆうに五百メートル。支流とは思えないほどのスケールだ。

 遠くの対岸に、椰子の木の影がゆらゆらと揺れていた。

「まるで海みたいだな」

 春彦がつぶやくと、光一は無言で川を見つめた。

 その瞳には、あの日、テレビで見たポロロッカの波が重なっていた。

 ――ここが、あの場所か。

 チェックインを終え、荷物を置いてロビーに戻ると、春彦が青ざめた顔で立ち尽くしていた。

「スーツケースが……ない」

「え?」

 フロントの隅に置いていたはずの春彦のスーツケースが、忽然と消えていた。

 慌ててロビーを探すが見当たらない。

「ちょ、ちょっと待て、鍵閉めたよな?」

「閉めたよ。俺のパンツまで盗んでどうすんだよ!」

 春彦が頭を抱えると、フロントのおばちゃんが申し訳なさそうに眉を下げた。

「ゴメンネ……大会ノ時、悪イ人モ来ル。フダンハ静カナ村ダケド」

 幸い、パスポートと財布は手荷物に入れていたので無事だった。

 だが、衣服や洗面具はすべて消えた。

「パンツとTシャツは貸してやるよ」

 秋彦が笑いながら自分の荷物を開ける。

「ありがとう……弟よ……」

 春彦は、半泣きで礼を言った。

 三人はそのままベッドに倒れこみ、夕方まで爆睡した。

 窓の外では、アマゾンの太陽が真上にのぼり、赤道直下の熱気が地面を焼いている。

 鳴き止まない鳥の声と、遠くのエンジン音、そして川を渡る風の低いうなり。

 まるで世界そのものが呼吸しているようだった。

 夕暮れ時、三人は腹をすかせて外へ出た。

 通りはオレンジ色の灯に照らされ、屋台が並んでいる。炭火の煙が漂い、スパイスと肉のにおいが鼻を刺激した。

「フェイジョアーダ、ウマイヨ!」と声をかけてくる男の屋台に立ち寄る。

 豆と肉を煮込んだブラジルの家庭料理。豚の耳や足、牛肉、干し肉、ベーコン――黒い鍋の中でぐつぐつと煮え立っている。

 紙のカップに盛られた料理を受け取ると、湯気が立ちのぼった。

「うまっ……これ、日本の煮込みみたいだ」

「ちょっとクセあるけど、酒が欲しくなる味だな」

 春彦が笑いながら食べる。

 そんなとき、通りの向こうから、ビキニ姿の金髪の女の子二人が通り過ぎた。

 春彦の目がまん丸になる。

「お、おい、あの子たち……やばくね?」

「兄貴、やめとけよ」

「ちょっと話しかけるだけだって!」

 春彦はフェイジョアーダを片手に走り出した。

 しかし数分後、悲鳴が上がった。

 細い路地に駆けつけると、泥だらけの春彦が地面に転がっている。

「春彦!」

 顔に殴られた痕、手にはしっかりとパスポートが握られていた。

「財布……取られた……」

「大丈夫か!?」

 警察に訴えても、この程度では相手にされないらしい。

「思った以上にやばいところだな……」

 春彦がつぶやく。

 光一は黙ってその肩をたたいた。

「でもまあ、命があっただけマシだ」

 その夜、三人はホテルの部屋で、コンビニのような雑貨屋で買った黒豚のソーセージと地元のビールを広げた。

 カシャッサという蒸留酒も試してみる。

「度数五十度って書いてあるけど……」

「飲みすぎるなよ、秋彦」

「へへ、兄貴のほうが顔真っ赤じゃん」

 笑いながら飲む三人の背後で、天井からガサゴソと音がした。

「……なあ、今、聞こえた?」

 春彦が顔を上げる。

 光一がボードの先で天井をつついた瞬間――。

 ドサァッ。

 天井板が割れ、何かが落ちてきた。

 黄色と黒の斑模様。

 「ぎゃああっ!」

 三人が飛び退いた。

 床をくねる太い影――アナコンダだった。

 フロントに駆け込むと、おばちゃんは落ち着いた声で言った。

「アナコンダ、ダイジョブ。毒ナイ。コノホテルノ守リ神ヨ」

 壁に飾られた犬の写真を指して、

「メウちゃん、二年前、食ベラレタ……」

 春彦は凍りついた顔でつぶやく。

「……守り神、怖すぎだろ」

 結局、三人は一階の部屋に変えてもらった。

 テレビをつけても砂嵐ばかり。

 「もう寝よう……」と光一が言うと、春彦が寝ぼけながら笑った。

「なあ光一。これ、ほんとに旅行か? サバイバルだろ」

「いいじゃん。生きてる実感あるだろ」

 窓の外では、アマゾンの闇の向こうで、蛙の鳴き声がいつまでも続いていた。

________________________________________


第3章 盗まれたスーツケースと蛇の夜

 夜が明けた。

 窓の外から、遠くの鳥の鳴き声と川の流れる音が混ざり合って聞こえてくる。

 光一は、額にべったり張りついた汗をぬぐってゆっくりと上体を起こした。

 部屋の中は、蒸気のような湿気に包まれている。扇風機がかすかに唸りを上げているが、風はぬるい。

「……夢じゃなかったんだな」

 光一は天井を見上げた。

 昨日、そこから落ちてきた大蛇の穴は、まだふさがれていない。

 木の板の裂け目から、わずかに光が差し込み、粉じんがきらきら舞っていた。

「兄貴、起きた?」

 ベッドの向こうで、秋彦が欠伸をしながら体を起こす。

「……ああ。蛇の夢、見なかったか?」

「うん。夢っていうか、まだ上にいそうで怖い」

 二人がそんな話をしていると、隣のベッドで布団を頭までかぶっていた春彦がむくりと起きた。

「……なんか俺、変な夢見た。でっかい蛇が俺のパンツくわえて逃げてった」

「それ現実だよ」と秋彦。

 春彦は頭をかきながらため息をついた。

「スーツケースも戻ってこねえし……パンツまで呪われてる気がする」

 やがてノックの音。

 ドアを開けると、掃除のおばさんが立っていた。

 丸っこい顔にしわが寄り、片手に鍵束を持っている。

「オハヨー。掃除、スルヨ」

「おい、ちょっと、今着替え中!」

 春彦が慌てて股間を押さえた。

 おばさんはちらっと見ただけで、鼻で笑った。

「チッチャイ」

 その一言で、部屋が爆発したように笑いに包まれた。

「言葉の壁、超えてるよな……」と光一が腹を抱えた。

 朝食は、フロント横の小さな食堂だった。

 ポン・フランセースという丸いフランスパン、薄切りのハムとチーズ、南国フルーツ、そして濃いコーヒー。

 光一は一口飲んで顔をしかめた。

「にっが……! これ、原液じゃん」

 春彦は砂糖を山盛り入れて、やっと飲みやすくした。

「でも、体に染みるな。寝不足には効く」

「まるで薬だな」

 朝食を終えた三人は、川へ向かうことにした。

 おばちゃんに地図を描いてもらい、ボードを抱えて外に出る。

 太陽は容赦なく照りつけ、地面がジリジリと焼けている。

 肌にまとわりつく空気は、まるで湯気のように重たかった。

「暑い……溶けそう」

「サングラスしてても目が痛いな」

 汗が流れ、ウェットスーツの内側にこもる熱気が逃げない。

 通りには、サーフボードを抱えた若者たちが行き交っていた。

 白人も黒人も混ざり、色とりどりのウェットスーツが太陽に反射して眩しい。

 屋台からは焼いた肉のにおい、サトウキビジュースの甘い香り、どこからともなく流れてくるボサノバの音。

 春彦が立ち止まり、目を輝かせた。

「なんか、映画のワンシーンみたいだな」

「ここ、完全に観光地化してるな。秘境って感じじゃない」

 光一が苦笑した。

 やがて三人はカピン川の岸に立った。

 茶色く濁った水が、ゆったりと流れている。

 川幅は信じられないほど広く、風が吹くたびに小さな波紋が立った。

「これが、アマゾンの支流か……」

 光一の声には、少し震えがあった。

 その背中を見て、春彦が笑う。

「なにビビってんだよ。いざとなったらピラニアのエサだぞ」

「笑えねぇよ」

 三人はボードを浮かべ、ゆっくりと川に入った。

 水はぬるく、泥のように重かった。

 腹ばいになってパドリングをすると、腕がすぐにだるくなる。

 岸辺では子どもたちが遊び、裸足で魚を追いかけている。

「なあ、見てみろよ。あの子ら、笑ってる」

「……なんか、いいな」

 光一の心に、ほんの少し安らぎが差した。

 しかし、その静けさは長く続かなかった。

「おい、秋彦! 足見ろ!」

「え?」

 右足の指先から血がにじんでいた。

 秋彦の顔が青ざめる。

「な、なんだこれ!? 痛っ……!」

 三人は慌てて救護テントに駆け込んだ。

 看護師の金髪の女性が傷口を見るなり、短く言った。

「ピラニアね」

「ピ、ピラニア!?」

「心配いらない。かすり傷」

 消毒液の匂いとともに、アルコールのしみる痛みが走る。

「これがアマゾンだ……」と秋彦はつぶやいた。

 その夜、村の中心では前夜祭が始まった。

 昼間の熱気が冷めやらぬまま、広場は人でごった返していた。

 ボサノバのリズムに合わせて踊る人々。

 カラフルな照明、ガラナジュースの甘い香り、そしてビールの泡。

 光一たちもその輪の中に加わった。

 しかし、そこにも危険は潜んでいた。

 群衆の中で叫び声が上がり、サーファーたちが誰かを取り押さえている。

 警察官が現れ、暴れる男を引きずっていった。

「……あいつだ!」

 春彦が指を差す。

 昨日、自分を襲った男だった。

「俺の財布返せぇ!」

 だが、叫びは虚しく、男たちは連行されていった。

 警察署で確認しても、「戻ってこないね」と冷たく言われただけだった。

 広場に戻ると、夜空の下で音楽が続いていた。

 波のように寄せては返すリズム。

 だが光一の心には、どこか不安が残っていた。

 ――この村には、なにか“目に見えない力”がある。

 それが彼の直感だった。

 夜も更け、三人は再びホテルへ戻った。

 廊下は薄暗く、ランプの灯が壁に揺れている。

 部屋に入ると、どこからか風が入り、カーテンがひらりと動いた。

 窓の外では、月の光を受けた川が銀色に光っていた。

「……なあ、今日もなんか音しない?」

 春彦の声に、光一と秋彦が耳をすます。

 ――ガサッ。

 再び、天井から聞こえてきた。

「うそだろ、またかよ……」

 光一はゆっくりと天井を見上げた。

 あの穴の奥で、何かが動いている。

 その瞬間、冷たい風が吹き込んできた。

 誰かが見ている――そんな気がした。

 光一は、心の奥でぞくりとした。

________________________________________


第4章 ピラニアの川

 翌朝、陽が昇ると同時に、村の空気はざわめきで満たされていた。

 広場では露店が次々と開き、金属の鍋が叩かれる音、笑い声、バイクのエンジン音が入り交じる。

 そのすべての音が、赤道直下の太陽の下でぎらぎらと輝いていた。

 ホテルの前に出ると、空はすでに真っ白にかすみ、遠くで川の水面がまぶしく光っていた。

 光一は手のひらで額をかばいながら言った。

「今日も地獄みたいな暑さだな」

「この熱気、体にまとわりつく感じがすげえな……」

 春彦が背中に手を当てると、汗が指のあいだから滴り落ちた。

「でも、これがアマゾンって感じだよ」

 秋彦は目を細め、白い歯を見せて笑った。

 三人はウェットスーツを肩にかけ、サーフボードを抱えて川へ向かう。

 足元の赤土が、汗で濡れたサンダルにまとわりつき、歩くたびにぬるりとした音がする。

 道の両側には屋台が並び、客引きの声が飛び交っていた。

「ニホン、ニホン! オマケ、アリヨ!」

 土産物屋の少年が声を張り上げ、三人の前に飛び出した。

 店先には、サンゴの置物や、木彫りの魚、そしてなぜか侍の面まで並んでいる。

 プリキュアのマスクがぶら下がっているのを見て、秋彦が笑った。

「なんでプリキュアがアマゾンに?」

「世界征服だな」

 春彦の軽口に、少年はきょとんとした顔で笑った。

 通りの先では、子どもたちがプラスチックの板を使って水遊びをしていた。

 川の手前の砂地では、すでに多くのサーファーたちがボードを磨き、体を慣らしている。

 光一たちもその列に加わった。

 川は今日も濁っていた。

 水面の色は、まるでミルクコーヒーをこぼしたような粘土色で、流れの底が見えない。

 それでも、その中に確かな“力”がある。

 明日の午後、この川をさかのぼって、ポロロッカの波がやってくる。

「いよいよ、明日だな」

 光一の声は静かだった。

 父の笑顔がふと脳裏によぎる。

 サーフィンを始めた日の海、波にのまれて泣いた日のこと、

 そして、父に肩車をされながら見た湘南の夕陽。

 あの記憶が、遠い波の音とともによみがえっていた。

「兄貴?」

 秋彦の声に我に返る。

「……なんでもない。行くぞ」

 三人は川に入った。

 足を踏み入れた瞬間、ぬるりとした泥の感触が足裏に伝わる。

 川は生きている――そんな錯覚を覚える。

 ゆっくりとパドリングを始めると、腕の筋肉がすぐに張ってくる。

 それでも三人は無言のまま、対岸を目指して漕ぎ続けた。

「おい、見ろ!」

 秋彦が指を差す。

 近くで水面がばしゃばしゃとはねた。

 無数の小魚が銀色の光を放ちながら跳ねている。

「ピラニア……だな」

 春彦が顔をしかめる。

「本当にいるんだ」

 光一は苦笑した。

 恐怖よりも、ただその“現実感”に胸が高鳴っていた。

 しばらく漕いでいくと、太陽の光が川面をまぶしく照らし、視界が白くかすんだ。

 パドルの音だけが響く。

 川の流れは穏やかで、しかし確実に押し戻してくる。

 体力を奪う重い水圧が腕に食い込む。

 ふと、秋彦が声を上げた。

「いてっ!」

 右足を引き上げると、つま先から血が流れていた。

「おい、かまれたのか!?」

「マジかよ、ピラニア!?」

 三人は慌てて救護所へ戻った。

 救護テントでは、金髪の看護師がのんびりとした口調で言った。

「ピラニアね。でも小さい。キズ、浅い」

 彼女の指先から漂う香水の匂いと、アルコールの匂いが混じる。

 消毒液を塗られた瞬間、秋彦は顔をしかめた。

「うっ……しみる……」

「カッコイイね、アマゾンの戦士」

 看護師がにっこり笑うと、春彦が茶化した。

「モテてるじゃん、秋彦」

「うるせぇよ兄貴」

 笑いが戻った。

 午後、川辺の仮設ステージでは前夜祭の準備が始まった。

 屋台の列が広場へ続き、ステージにはスピーカーとドラムセットが並べられている。

 日が落ちるころ、三人はまたその喧騒の中へ足を踏み入れた。

 空気は熱を含み、空には無数の星が輝いていた。

 ボサノバのリズムが夜風に乗って流れてくる。

 女性ボーカルの柔らかな声が広場を包み、人々が踊りだした。

 子どもたちは手をつないで走り回り、ビールを持った男たちは肩を組んで歌っている。

 まるで祭りというより“生きるエネルギー”そのものだった。

「すげぇな……地球の裏側って感じだ」

 光一がつぶやく。

「ほんと。日本の祭りとは全然ちがうな」

 春彦が頬を赤らめながら笑った。

「おい秋彦、もう飲んでんのか?」

「ちょっとだけ!」

「ちょっとで真っ赤になってるぞ」

 そのとき、広場の真ん中で騒ぎが起こった。

 サーファーと地元の若者が揉み合っている。

 警察官が駆けつけ、怒鳴り声が響いた。

 春彦がその男たちを見て息をのんだ。

「……あいつらだ。俺の財布を盗ったやつら」

 男たちは警察に連行されていった。

 だが、財布は戻らなかった。

 春彦は苦笑いを浮かべた。

「まあいいさ。ここまで来たら、金より波だ」

「おまえらしいな」

 光一と秋彦が笑い、三人の肩がぶつかる。

 夜が更けるころ、空気が少しだけ涼しくなってきた。

 遠くから風が吹き抜け、川の水面を揺らす。

 光一はその風を頬に感じながら、ふと空を見上げた。

 南十字星が、はっきりと輝いている。

 ――あの星の下で、父もかつて同じ夢を見ていたのだろうか。

 春彦が声をかけた。

「おい、そろそろホテル戻るぞ。明日、本番だ」

「……ああ」

 三人は酔いと熱気に包まれながら、ゆっくりとホテルへ戻った。

 木の床がきしみ、外からは蛙の声が絶え間なく聞こえる。

 ベッドに倒れ込むと、すぐに眠気が襲ってきた。

 瞼の裏に、濁流と光が交錯する。

 ――明日、あの波に乗る。

 光一はそう心の中でつぶやいた。

 遠くで川の流れる音が、夢の中にまで響いていた。

________________________________________


第5章 前夜祭の混沌

 夕暮れの空が、茜から群青へと変わる。

 村の空気がざわつき始めた。

 広場の中央には、大きなステージが組まれ、ライトが点灯されていく。

 音響チェックのドラムが「ドン、ドン」と響き、スピーカーから短くボサノバのフレーズが流れる。

 明日はいよいよポロロッカの大会。

 村中が一年でいちばん沸き立つ夜だった。

 屋台には、肉を焼く煙が立ちこめ、甘いトウモロコシとスパイスの香りが混ざっている。

 光一たちも、昼間の疲れを忘れるように、広場の雑踏に足を踏み入れた。

「人、多っ……! 昨日の倍はいるんじゃない?」

 春彦が人波をかき分けながら叫ぶ。

「たぶんな。見てみろよ、あの観光客」

 秋彦が指さす先には、欧米からのサーファーたちがカメラを構え、陽気に踊っていた。

 色とりどりのシャツ、ビキニ、ドレッドヘア。光と音が混ざり合って、まるで夢の中のようだ。

 ステージにバンドが登場した。

 ピアノとサックス、ギター、ドラム。

 軽快なボサノバのリズムに合わせて、女性ボーカルが唄いはじめる。

 「イパネマの娘」。

 ブラジルの夕暮れを象徴する名曲が流れた瞬間、観客たちは一斉に手拍子を打った。

 光一は瓶ビールを片手に、しばらくその音に耳を傾けていた。

 波の音とは違う。

 それでも、このリズムには同じ“うねり”がある。

 ゆっくりと高まり、静かに落ちる。

 まるでポロロッカの前兆のようだった。

「光一、なんか真面目な顔してんじゃん」

 春彦が笑いながら肩を叩く。

「いや……こういう夜があるから、波にも乗れる気がする」

「詩人かよ」

 秋彦が笑い、三人の笑い声が熱気に溶けていった。

 ビールが進み、三人の頬が赤くなっていく。

 通りでは露天商たちが声を張り上げ、警察官が交通を整理している。

 だが、祭りの興奮は、すでに誰にも制御できないほど膨れ上がっていた。

 そのとき、群衆の中で突然悲鳴が上がった。

 「泥棒だ!」

 叫び声の先では、二人の男がサーファーたちに取り押さえられていた。

 春彦が駆け寄り、顔をのぞき込む。

 「……あっ!」

 昨日、自分を襲ったあの二人だった。

 泥にまみれた顔を見た瞬間、春彦の胸が沸騰した。

 「俺の財布返せぇ!」

 だが、男たちはとぼけた顔で首を振るばかり。

 警察官がやってきて、男たちは無言のまま連行された。

「……まったく。こっちが被害者なのにスッキリしねぇな」

「まあ、財布より命が残ってるだけマシだろ」

 光一がなだめると、春彦は深いため息をついた。

「そうだな……でもさ、なんか、変な村だな」

「何が?」

「空気がざわざわしてるっていうか……」

 春彦の言葉に、光一はふと川の方を振り返った。

 夜の闇の中、カピン川が音もなく流れている。

 まるで、巨大な獣が眠っているようだった。

 祭りは夜中まで続いた。

 ステージでは踊りが続き、人々が手をつないで笑っている。

 酒の匂い、汗の匂い、香辛料の煙が混ざり、熱気が渦を巻いていた。

 光一たちもその輪の中で踊り、歌い、知らない国の人たちと笑い合った。

 言葉が通じなくても、音楽と笑顔がすべてをつないでくれる。

 ――まるで、世界が一つになった夜だった。

 しかし、その幸福感の裏側で、光一の心の奥には小さなざらつきが残っていた。

 空を見上げると、星々のあいだから黒い雲がゆっくりと流れてくる。

 空気が重くなった気がした。

 風が止み、音が吸い込まれる。

 遠くで、カピン川の流れがごうっと鳴った。

 「……来るな」

 光一は無意識にそうつぶやいた。

「何が?」と春彦。

「いや、なんでもない」

 光一は笑ってみせたが、胸の奥で小さな不安が渦を巻いていた。

 夜が深まり、三人は泥のように酔ってホテルへ戻った。

 廊下のランプが淡く光り、外では犬の遠吠えが響いている。

 部屋に入ると、窓から風が吹き込み、カーテンがひらりと揺れた。

 月明かりが床を照らしている。

「ふぅ……明日か」

 光一は天井を見上げた。

 春彦はベッドに倒れ込むなり、「優勝して十万ドルだ!」と叫んでそのまま眠り込んだ。

 秋彦は笑いながら、椅子に掛けたウェットスーツを丁寧に畳んでいる。

「兄貴、ちゃんと寝ろよ。明日寝坊したら置いてくからな」

「だいじょうぶだ、夢の中でも波に乗ってる」

 春彦の寝言に、秋彦が苦笑した。

 外では、遠くの広場からまだ音楽が流れていた。

 その旋律は次第にゆっくりと、静かなリズムに変わっていく。

 まるで、明日の嵐の前の静けさのように――。

 光一はベランダに出た。

 夜風が頬をなで、汗を冷やしていく。

 眼下には、闇の中で静かに光る川があった。

 その表面を、月明かりが銀色に染めている。

 不思議と、胸が締めつけられるような感覚に包まれた。

 波はまだ遠い。

 だが、すでに彼の心の中では、その轟音が鳴り始めていた。

「親父……俺、明日、行くよ」

 小さくつぶやく。

 答えるように、風が吹いた。

 川面の光が一瞬だけ揺れた。

 光一はそのまま目を閉じた。

 熱風と湿気と、かすかなコーヒーの香りの中で、眠りに落ちた。

________________________________________


第6章 ポロロッカの波

 翌朝。

 太陽が川面を白く照らし出すころ、村はすでに興奮の渦の中にあった。

 スピーカーからブラジル国歌が流れ、ステージの上では司会者が大声で何かを叫んでいる。

 屋台の煙と湿った風が混じり合い、まるで熱気の生き物の中にいるようだった。

 光一たちはホテルの前で最後の準備をしていた。

 ボードにワックスを塗り、手で感触を確かめる。

 白いワックスが、陽光を反射してまぶしく光る。

「これでよし……」

 光一が小さくつぶやくと、春彦がいつもの笑顔で言った。

「なあ、光一。優勝したら、ブラジル美女に囲まれて踊ろうぜ」

「おまえ、まだそれ言うかよ」

「いいじゃん、夢くらい見ても」

 秋彦が笑い、三人の肩がぶつかった。

 会場へ向かうと、川岸にはすでに千人を超えるサーファーが集まっていた。

 それぞれがボードを肩に担ぎ、真剣な目で川を見つめている。

 川風が湿った空気を運び、ざわざわと波の気配を伝えてきた。

 午後三時。

 日差しは容赦なく肌を焼き、空は澄み切って青い。

 どこか遠くで、太鼓の音が鳴り響いた。

 その瞬間、会場全体が静まり返る。

 ごごごごご――。

 大地が震えるような低い音が、地平線の彼方から近づいてくる。

 空気が震え、水面がざわめいた。

 鳥たちが一斉に飛び立つ。

「来るぞ……!」

 誰かがつぶやいた。

 光一の心臓が、どくん、と跳ねた。

 遠くの川の向こうで、水が盛り上がる。

 最初は白い筋だった。

 だが、それはみるみるうちに巨大な壁へと姿を変える。

 濁流を逆流させながら、うねりが村へと迫ってくる。

 ――ポロロッカだ。

 轟音が鼓膜を貫いた。

 川全体が震え、足元の地面までもが揺れている。

 水飛沫が空高く舞い、太陽の光を受けて虹色に輝いた。

 それは美しく、同時に恐ろしい。

「兄貴、いよいよだ!」

「行くぞ、秋彦!」

「おう!」

 笛が鳴る。

 おおおおおっ――!

 サーファーたちが一斉に川へ飛び込んだ。

 パドルの音が重なり合い、白い泡があがる。

 光一も、全身の力を込めてボードを漕ぎ出した。

 波の前に出るために、ただ必死に腕を動かす。

 水が跳ね、視界が一瞬真っ白になる。

 荒れ狂う流れの中で、互いの姿を見失いそうになりながらも、三人は声を掛け合った。

「春彦、右だ! もう少し右へ!」

「わかってる!」

「秋彦、遅れるな!」

「平気だ、兄貴こそ落ちんなよ!」

 どばあああああっ――。

 世界が傾いたような衝撃。

 巨大な波が、目の前で牙をむいた。

 水の壁が頭上を覆い尽くし、川全体が逆流する。

 光一は叫び声を上げながら、ボードに足を乗せた。

 テイクオフ――波をつかんだ瞬間、時間が止まったように感じた。

 風が顔を切り裂き、体が宙に浮く。

 水面が生き物のようにうねり、轟音が足もとを突き上げる。

 立った。

 波に乗ったのだ。

 巨大なアマゾンの濁流の上で、光一はまっすぐ前を見据えた。

 左には春彦、右には秋彦。

 三人は一直線に並び、まるで一枚の絵のように波を駆け抜けた。

 風が唸り、音楽のような轟音が全身を包む。

 「ワルキューレの騎行」の勇ましい旋律がスピーカーから流れ、

 両岸では観客たちが歓声を上げていた。

 上空では十機のドローンが並び、カメラが彼らを追う。

 光一は波の斜面を上下に走り、重心を移動させる。

 水飛沫が光の矢のように飛び散った。

 恐怖も痛みも、今はなかった。

 ただ、波とひとつになっている感覚だけがあった。

 しかし、その完璧な瞬間にも限りがある。

 波は次第に形を変え、荒れ、そして崩れ始めた。

 「光一、左だ!」

 春彦の声が風にかき消される。

 秋彦が体勢を崩し、ボードが跳ねた。

 彼の姿が一瞬、水しぶきの向こうに消えた。

「秋彦っ!」

 光一が叫ぶ。

 振り返るが、もう見えない。

 波はさらに荒れ、濁流がすべてを飲み込む。

 光一も、もう立っていられなかった。

 体が宙に浮き、次の瞬間には冷たい水の中に叩きつけられた。

 水中で、時間の感覚が消える。

 音も光もない世界。

 ただ、心臓の鼓動だけが自分の存在を教えてくれる。

 ――まだだ。まだ終われない。

 必死に水をかき分け、顔を出す。

 息を吸い込むと、肺が焼けるように痛い。

 岸の方向がわからない。

 目に入ったのは、遠くに浮かぶ春彦の姿だった。

「春彦ーっ!」

「光一っ! こっちだ!」

 二人は波に流されながらも、なんとか再会した。

 岸辺では救護ボートが何艘も出ており、ライフセーバーたちが叫んでいる。

 波がゆっくりと小さくなり、川が再び穏やかさを取り戻し始めていた。

 そのころ、空には夕陽が差し込み、オレンジ色の光が川面を照らしていた。

 結局、光一たちは二十四分で脱落した。

 限界だった。

 優勝者はニュージーランドのダニエル選手、記録三十二分。

 準優勝は日本の女性サーファー、ヤマガタ・トキエ。

 光一は岸辺で息を整えながら、その名前を聞いた瞬間、思わず顔を上げた。

 陽の光の中、トキエが濡れた髪をかき上げて笑っている。

 その笑顔は、どんな波よりもまぶしかった。

「俺たち……やり切ったな」

 春彦が息を切らしながら言った。

「うん。優勝は逃したけど、悔いはない」

 光一は、濁った川を見つめながら答えた。

 秋彦も岸に引き上げられ、全身びしょぬれのまま笑っていた。

「兄貴、俺、生きてる!」

「そりゃよかった!」

 三人は笑い合った。

 その笑い声を、カピン川の風がやさしく運んでいった。

 波はもう去った。

 だが、その音は、彼らの胸の奥でいつまでも鳴り響いていた。

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第7章 夜風とカピンの霊

 大会の興奮が去り、夜の村には不思議な静けさが広がっていた。

 あれほど熱気に満ちていた川辺も、今は人の気配がまばらで、風の音と遠くの太鼓の残響だけが残っている。

 光一たちは、ホテルの二階のベランダに腰を下ろしていた。

 テーブルの上には、瓶ビールが三本。

 乾いたラベルが夜風にひらりとめくれる。

「結局、俺たち二十四分だったな」

 春彦が瓶の口を軽く鳴らした。

「でも、あの波に乗れただけで十分だろ。俺、まだ足が震えてるよ」

 秋彦が笑いながら言った。

 その足の指には、昨日のピラニアの傷跡がまだ赤く残っている。

 川のほうから、涼しい風が吹き抜けてきた。

 昼間の熱気が嘘のように冷えている。

 その風は、どこか懐かしい匂いを運んでいた。湿った木の香り、焦げた砂の匂い、そして遠くで燃える焚火の煙。

「……この風、好きだな」

 光一がぽつりとつぶやく。

「なんか、全部がどうでもよくなる感じがする」

「そうそう。優勝とか、金とか、もうどうでもいい」

 春彦が笑って、ベランダの手すりに足を投げ出した。

「明日、日本に帰るんだよな」

「うん。でも、正直、帰りたくねえな」

「わかる。なんか、まだこの川に呼ばれてる気がする」

 三人はしばらく黙ったまま、川のほうを見つめた。

 月の光がカピン川の表面に銀の筋を描いている。

 波はもうないのに、川面がわずかに揺れていた。

 それはまるで、まだポロロッカの余韻が息づいているようだった。

「……なあ、秋彦、どこ行くんだ?」

 光一が振り向いたときには、秋彦の姿がなかった。

「トイレか? さっきまでいたのに」

「まさか、また飲みに行ったんじゃねーだろうな」

 春彦が笑いながら立ち上がる。

 だが、窓の外をのぞいた瞬間、二人は息をのんだ。

 川岸へ向かう小道を、秋彦がサーフボードを抱えて歩いていたのだ。

 足取りはゆっくりで、どこか夢遊病者のようだった。

「おい、秋彦!」

 光一が叫んだが、彼は振り返らない。

 「やばい、行こう!」

 二人は階段を駆け降り、外へ飛び出した。

 川のほとりには、まだ数人のサーファーが焚火を囲んでいた。

 その火の明かりの向こうで、秋彦の姿が見えた。

 彼はサーフボードを水に浮かべ、ゆっくりと足を踏み入れていく。

「秋彦! やめろ!」

 春彦が叫ぶ。

 だが、その瞬間――。

 秋彦が水の中で何かに驚いたように立ち止まった。

 月明かりの中で、彼の顔が青ざめている。

「助けて……!」

 かすかな声。

 次の瞬間、秋彦の姿が流れに飲まれた。

 光一と春彦は迷わず水に飛び込んだ。

 だが、夜の川は昼間とは比べものにならないほど冷たく、流れが速かった。

 光一が息を呑みながら水をかく。

 目の前に、ひとりの影がさっと横切った。

 その影は、月明かりの中で光っていた。

 白いワンピースをまとった少女のようだった。

 声が聞こえる――。

 「かえして……」

 澄んだ、幼い声。

 秋彦がその声を追うように手を伸ばしていた。

 「秋彦!」

 光一が叫んだ。

 その瞬間、ひとりの影が波間を駆け抜けた。

 力強いパドリング。月光を反射する濡れた髪。

 ――あの大会で準優勝したヤマガタ・トキエだった。

 彼女は迷いなく秋彦に近づき、リーシュコードをつかんで引っ張り上げた。

 まるで流れと一体化しているような動きだった。

 数分後、二人は岸に引き上げられた。

 「秋彦! 大丈夫か!?」

 春彦が弟にすがりつく。

 秋彦は激しく咳き込みながら、ようやく目を開けた。

「……子どもの声が……聞こえたんだ」

「子ども?」

「うん……“呼んでた”……波の向こうから」

 トキエが濡れた髪を払いながら静かに言った。

「カピンの霊よ」

「霊……?」

「昔、この川の氾濫で、たくさんの子どもたちが流されたの。

 それ以来、ポロロッカの夜になると、川の子どもたちが仲間を呼びに来るって。

 “戻っておいで”ってね」

 彼女の声は、夜風に溶けるように静かだった。

 三人は言葉を失った。

 トキエは微笑みを残して、静かに去っていった。

 その背中を、春彦は呆然と見つめたまま動けなかった。

 胸の奥で何かが弾けるような感覚がした。

「……トキエさん……」

 その名を呼んだ声は、夜風にさらわれて消えた。

 ホテルへ戻ると、フロント前に見慣れぬスーツケースが置かれていた。

 黒い革製、あちこち傷だらけで、鍵穴が壊れている。

「これ……春彦のじゃないか?」

 光一が指さす。

 春彦は顔をこわばらせた。

 タグには確かに「H. MISHIMA」と書かれていた。

 フロントのおばちゃんが顔を出し、にこにこしながら言った。

「ヨカッタネ。見ツカッタ。カピンノ霊、見ツケテクレタ」

 春彦は、苦笑いを浮かべてスーツケースを開けた。

 中身はほとんど無事だった。

 だが――。

「……あれがない」

「何が?」と光一。

「母さんの写真。いつも入れてたのに……」

 春彦は目を伏せた。

 夜風がそっと吹いた。

 その風の中に、かすかな子どもの笑い声がまじっていた気がした。

 翌朝、出発の時間。

 三人はホテルの前でおばちゃんに別れを告げた。

「マタ来ルヨ。カピン、待ッテル」

 おばちゃんは涙ぐみながら手を振った。

 車寄せに、あのパジェロが止まっていた。

 運転手は、来たときと同じ初老の男性。

 だが春彦はその姿を見て、思わず目を丸くした。

「おい……あの半ズボン」

 運転手の履いている赤い格子柄の短パン――それは、春彦の盗まれた衣服だった。

 光一と秋彦は顔を見合わせた。

「ま、いいか。似合ってるし」

「そうそう、きっと気に入ったんだよ」

 三人は吹き出した。

 パジェロがエンジンを唸らせ、マンゴーの並木道を走り出す。

 空は抜けるように青く、遠くでカピン川が光っている。

「パジェロ、いいね。ニホンシャ、サイコー!」

 運転手が叫び、三人が笑った。

 窓から吹き込む熱風が、彼らの髪を乱す。

 その風の中に、まだ波の匂いが残っていた。

「また来ようぜ、いつか」

 光一の言葉に、二人がうなずく。

 赤道直下の太陽が、ゆっくりと彼らの背中を照らしていた。

 ――カピン川は今日も流れている。

 あの日の波の記憶を、静かに、永遠に抱きながら。

 <了>



アマゾンの大河をさかのぼる“ポロロッカ”という自然現象を知ったとき、

その波に挑む若者たちの姿を想像しました。

彼らの旅は、単なる冒険ではなく、失われかけた“夢を見る力”を取り戻す旅でもあります。

波はいつか消えても、その瞬間に感じた風と光は心に残り続ける――。

本作が、あなたの胸にも小さな風を吹かせることを願っています。


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