魔界研修、開始。そして飼い主、初日で心折れる
満月の夜。
空に浮かぶ月は、いつもより赤かった。
飼い主は、魔界研修案内書を握りしめて玄関に立っていた。
「……耐熱靴、よし。精神安定剤、よし。覚悟……どこだよ、覚悟」
モカが隣で首をかしげた。
「覚悟は、持ち物じゃなくて“状態”だ。お前はまだ“覚悟してない”」
「じゃあ行けねぇじゃん!!」
そのとき、空間が裂けた。
玄関の前に、黒い渦が現れ、そこから視察団の一人が顔を出した。
煙の顔の悪魔だった。
「お迎えに参りました。魔界研修、いざ開始です」
飼い主は、深呼吸して渦に飛び込んだ。
その瞬間、視界がぐにゃりと歪み、重力が逆転した。
「うわああああああああああああああああああああ!!」
着地したのは、赤黒い大地。
空には三つの月が浮かび、風が逆方向に吹いていた。
地面は脈打っており、時々「ドクン」と鳴った。
「……ここが魔界か。思ったより生き物っぽいな」
モカは、第二形態のまま隣に立っていた。
「ここは“第六次元の谷”。魔界でも比較的安全な研修地だ。ただし、空気を吸いすぎると幻覚を見るから注意しろ」
「それ、もう安全じゃねぇよ!!」
研修所は、巨大な骨でできた建物だった。
受付には、目が6つある悪魔が座っていた。
「新規研修者ですね。人間は久しぶりです。では、初日のカリキュラムを説明します」
【魔界研修・初日】
① 魔界礼儀作法(挨拶は逆立ちしながら)
② 魔界生物との接触訓練(触れると記憶が改ざんされる)
③ 魔界料理実習(食材は動いている)
④ モカ様との絆確認テスト(失敗すると空間に飲まれる)
「……俺、帰っていい?」
モカは、静かに言った。
「お前がここまで来たのは、あたしのためだろ?」
飼い主は、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……そうだな。俺が飼い主だ。お前がどんな姿でも、俺が守る」
その瞬間、空間が光った。
― 絆確認テスト、合格。 ―
受付の悪魔が驚いた顔をした。
「……人間が初日で合格するとは。これは記録的です」
「俺、ただ犬飼ってるだけなんだけどな……」
その夜、飼い主は魔界の寝袋に包まりながら、モカに言った。
「なあ、モカ。お前、俺に何を見せたいんだ?」
モカは、空に浮かぶ三つの月を見ながら答えた。
「“異質”は、拒絶される。でも、受け入れられたとき、世界が変わる。あたしは、それをお前に見せたい」
飼い主は、そっと笑った。
「……じゃあ、もうちょっとだけ頑張ってみるか」