4話
「漕げ! 漕げぇ!」
船丸はこれまでにない必死さで叫んだ。
どれだけ漕がせても徐々に後ろの二人がその距離を狭めてくるのだ。
「右舷櫂止め!!」
船丸の命令と同時に右舷の水夫たちは櫂を水中で制止させる。
その瞬間、船はミシミシとうめき声を上げる。
能島は上から見ると頂点を下に向けた三角形のような形をしている。
今はその左上の角。
ゴールは右上の角を超えた辺に桟橋がある。
船丸はこの角で櫂の利点を生かそうと内角を取るために右舷の櫂を停止させ回頭速度を速めようとした。
だが、そう甘くはなかった。
(たとえ武吉様の弟だとしても負けるわけにはいかぬ!!)
貞道はそう心の中で雄叫びを上げた。
船丸は必ず櫂を止めるか、後進させて船を回そうとするはず。
「前へ漕ぎ続けろ!!」
櫓であっても面舵を切るときは右舷の櫓を止めさせ、左舷だけ前に漕がせる。
だが、貞道はそうしなかった。
両舷の櫓を前進させたまま舵の力だけで回頭しようとしたのだ。
回頭半径が大きくなる半面、速度は減じずに済む。
そのためには随分と早くから舵を切る胆力が必要とされる。
(ここで出来ずしてなにが嶋家の嫡男か!)
前方に見える船丸が回頭するよりもはやく、貞道は舵を切ったのであった。
松之助は勝負に打って出た貞道を見てほくそ笑んだ。
貞道の判断が数舜遅かったのは松之助の位置から見ると明らかであった。
(これでは外側に大きく膨らみすぎる)
松之助はその瞬間、貞道がこの争いから脱落したことを確信した。
「右舷止め!」
松之助は回頭速度を重視。
船丸はすでに回頭を終えているが、右舷の前進惰力を失い、未だ速度は上がっていない。
(ここで一気に抜き去る!)
松之助はそう決断すると一気に舵を大きく切った。
そして、回頭を終える直前、松之助は右手を振り上げる。
「両舷! 前へ!」
彼の雄たけびと共に水夫たちはいっせいに櫓を漕ぎだした。
「全力をだせェィ!」
これにより、順位が一挙にして転じる。
松之助が先頭に躍りでる。
後続には船丸、そして貞道が続く形となった。
「松之助ェ! やりおったわ!」
松之助の父、堀田紀久はわき目もはばからずそう叫んだ。
嶋貞義は苦虫をかみつぶしながらも、松之助に感心していた。
この時誰もが松之助の勝利を確信していた。
船丸は無理に早く回頭させようとしたせいで速度を減じさせた。
逆に貞道は速度を減じることを嫌い、回頭が遅くなってしまい外に大きく広がってしまった。
今も松之助はその差を広げようと全力で前進している。
勝負は誰の目にも明らかであった。
「げに面白きものであったな」
安舎は満足げに言った。
松之助と道貞の血肉沸き立つ競い合い。
そして中盤から参戦した船丸。
終盤での松之助の大逆転。
これらは安舎を満足させるには十分なものであった。
「お待ちくだされ」
その場を去ろうとした安舎を呼び止めたのは武吉であった。
「まだ勝敗は決まっておりませぬ」
武吉はただひたすらに海を見つめていった。
彼の瞳はまだ何か起きると確信していた。
「さぁ、みせてくれ。船丸」
武吉は重臣たちの視線を一身に受けながらそう呟いた。
(やられた!)
船丸は心の中でそう悔いた。
態度に出してはいけない。
まだ自分は勝てると偽りであってもその態度を見せなければ士気が持たない。
「両弦前へ! こぎ続けろ!」
船丸はそう命令を発する。
とにかく今は相手の後ろに続くのだ。
次追い越せるとすれば回頭時と着岸。
他の二人が着眼で手間取るとは思えない。
だとすれば、回頭時に何か起きるしかない。
何か、何か良い策は――。
その瞬間、船丸は一つの策を思いついた。
「クソッ! 松之助めやりよる!!」
貞道はそう悔しそうに叫んだ。
だが、彼はまだ勝利をあきらめてはいない。
彼の小早はその場にいた誰よりも速度を維持して回頭することに成功している。
次の回頭で間違わなければ必ずや先頭に躍り出られる。
貞道はそう自分に言い聞かせる。
「まだいけるな!」
貞道の問い。
水夫たちはそれに精一杯の力を振りしぼり「応!」と力強く答えた。
「漕げ! 漕ぐのだ!」
半面、松之助は焦っていた。
自分が先頭にありながら背後の二人からは未だ熱気を感じる。
水夫たちは限界に近い。
このままの速度を維持して桟橋に行くのが限界。
松之助はそう判断した。
(逃げ切る! このまま!)
松之助はそう判断を下した。
それが、命取りになる。
「両舷! 櫂上げ!」
最初に動いたのは船丸だった。
左上の角の直前で櫂を水面から上げるように命じたのだ。
水夫たちはその命令に戸惑いながらも漕ぐのをやめ、水面から櫂を上げた。
直後、後方から猛追してきた貞道に追い越される。
水夫たちがそれを見て不安そうな表情を船丸に向ける。
「かまわぬ! 無視せよ!」
だが彼はそう叫んだ。
そして貞道が完全に追い抜いたことを確認すると再度漕ぐように命じた。
彼の嗅覚はあることを告げていた。
(何をしている?!)
貞道は突如漕ぐのを辞めた船丸に驚愕した。
だが、これは好機だった。
何故かは知らないが
船丸が後方についた。
そして松之助が射程圏内に迫っている。
「すべて出し切れ!」
松之助のすぐ後ろに迫ると貞道は勝負を仕掛けた。
全力で漕ぐように命じると同時に、彼は舵を大きく切る。
(先ほどは失敗したが要領は得た!)
次は成功する自信を持っていた。
松之助は驚いたような顔をして貞道に一瞬気を取られる。
それが原因で松之助は舵を切るのが一瞬遅れた。
「勝った!」
貞道はそう叫んだ。
「負けるものか!」
突如後方から貞道が声を上げ気を取られた松之助だが、すぐに気を取り直した。
「右舷止め!」
先ほどと同じように右舷の水夫たちが漕ぎ手を止める。
回頭を着実に進める松之助。
そして速度を維持しながらも少しずつ回頭する貞道。
彼らは船体を斜めにした状態で岬を超えようとしていた。
その瞬間、猛烈な潮が彼らを襲った。
二人を襲った猛烈な潮は小早を押し流すには十分な力があった。
そして船丸は遅れていたことによりその場で強烈な潮が流れていることを把握した。
「両舷! 前へ! 死力を尽くせ!」
船丸はそれを知ってなお、全力での前進を命じた。
これにより即座に船丸の小早が速度を得る。
そして岬の先端に差し掛かったころ、船丸は新たな命令を下令した。
「右舷後へ!」
強風で船が潮下に流されるなら、船首を潮上に向けてから潮を受ければいい。
そのためには速い速度で早く船首を曲げれば良い。
船丸の号令を聞いた右舷の水夫たちが後方へと漕ぐと、船丸は右舷へと舵を切った。
そして、船丸の小早はドリフトするように岬を躱し、先頭へと躍り出た。
「両舷前へ! 漕げ! 漕げ!」
船丸は全力でそう雄たけびを上げた。
ここで一気に突き放す。
後ろの松之助と貞道は未だに体勢を立て直せずにいる。
たった一瞬の油断が命取りになる。
その無残な現実を突きつけられた瞬間であった。
「負けるものかぁぁぁッ!!!」
松之助はそう叫んだ。
それに感化された水夫たちも「オォッ!」と応じる。
「漕げ! こげぇぇぇぃ!!」
松之助は必死になってそう叫んだ。
まだ、まだ挽回できる。
松之助はそう心の中で叫んだ。
(もう、負けだ)
対して貞道はそう諦めていた。
先ほどの岬で大きく外に膨らみ、今度の岬では風に弄ばれた。
「……もうよい」
貞道は天を仰いだ。
水夫たちはもう限界だ。
松之助の小早は立て直そうとしているが船丸との差は明白。
もはや、追いつくことなど――
「両舷! 前へッ!!」
突然、水夫の一人がそう叫んだ。
それに貞道は呆気に取られた。
「我等を拾ってくださった嶋様の恩に報いるのだ!」
そう雄たけびを上げる水夫にほかの水夫たちも続く。
「ささ、貞道様! お頼み申す!!」
必死に漕ぎながら水夫は貞道にそう言った。
気が付けば貞道の目元には涙があふれていた。
彼はそれをぬぐうと舵に手を添えた。
「両舷! 前へッ!!」
貞道はそう声を張り上げた。