3話
「なかなかやるな」
本丸で武吉はそう呟いた。
彼の視線は嶋家嫡男の貞道に注がれていた。
近くにいた者たちも貞道の操船には驚き、称賛を厭わなかった。
「ほう、船丸は櫂か」
武吉は貞道から視線を外し、彼の背後にピタリとくっつく船丸の船に視線を向けた。
この時代、船を動かすのは櫓という板を左右に振ってその力を前進に変える物であった。
これは少ない力で長く漕ぐのに向いており、村上家でも多用されている。
しかしながら後進をすることは難しく、機動性はいささか落ちる。
対して櫂というのは現代で言うオールであり、それは前から後ろに漕ぐだけの簡単なものであった。
櫓に対して櫂は機動性に優れている。
前から後ろへと漕ぐ向きを逆にすればたちまち後進の推力を得られる。
「どちらが勝つとお思いで?」
武吉の隣に座る隆重は武吉に尋ねた。
それに武吉は眉間にしわを寄せて応えた。
「速度では櫂が有利だが持久力がない。貞道が勝つ」
心の底では弟の勝利を渇望していながらも事実をそう冷静に判断した。
「だが、戦では何があるかわからぬ」
武吉の呟きに家臣は驚き、そして固唾をのんでこの戦いの行方を見守った。
「こげ! こげぇぃ!」
その戦い、焦っていたのは貞道のほうであった。
この催し最年少の船丸が自身の背後にピタリと着いてきていればそれも当然だ。
能島城は上空から見れば頂点を下に向けた三角形のような形をしている。
その頂点の先には鯛先島が浮かぶ。
しかしその間は潮流が速く、尚且つ狭い。
いくら小早と言えど、この間をすり抜けることは難しい。
「貞道ぃ! 少しばかり遅れをとったがもう負けぬ!」
突如、そんな大声が響いた。
バッと後ろを振り向くと大柄な少年が指揮を執る小早が視界に入った。
「松之助ではないか! 小癪な!」
貞道はそう叫ぶと水夫たちに増速を命じた。
その大柄の少年は堀田松之助。
決して家格は高くないが、貞道と一つ違いということもあり上下の差を超えて親友と呼べるような仲であった。
「負けるものか!」
「こちらこそ!!」
船尾で二人は怒鳴りあいながら、死力を尽くす。
彼らの視界にもはや船丸の姿はなかった。
「おぉ!」
本丸の一同が沸き立った。
出港が遅れ、随分と後方にいた堀田松之助が突然貞道に並んだのだ。
「堀田の者たちは図体が大きく力があるのもそうだが、存外手先も器用だからな」
武吉は感心するようにつぶやいた。
その間にも二人は鯛先島の先端にたどり着こうとしていた。
褒められた堀田松之助の父、堀田紀久は恥ずかしそうに照れていた。
「今年は一段と速うござるなぁ」
本丸でそう呑気な声を上げたのは大祝安舎。
彼は能島城の北西、大三島にある大山祇神社の神主一家の主。
彼が当主を務める大祝家は数年ほど前から大内家と戦を繰り返している。
村上家は分家である来島村上家と共に大祝家と協力し、戦を繰り返してきた。
対等な協力者でありつつも、家格としては大祝家の方が一段上だろうか。
「……うむ? 1艘だけ妙な動きをしておるな」
安舎がそう言ったのは能島と鯛先島の間で止まっている1艘の小早であった。
他の小早たちはすでに鯛先島の先端を周り、姿が見え始めている。
安舎の言葉に武吉は口角を吊り上げ答えた。
「あれが我が弟、船丸でござる」
「こい松之助ェ!」
並走して鯛先島の先端を回った貞道と松之助であったが、その技術の差で貞道が1艇身分先を行っていた。
「まだまだぁ! さぁ、漕げ! 漕げ!!」
挑発する貞道とそれに応じる松之助。
二人の表情は幼く、やる気に満ち溢れていた。
それは彼らの元で櫓を漕ぐ水夫たちも同じであり何とか我が主を勝たせようと必死であった。
「まだいけるか?!」
松之助はそう水夫たちに尋ねると彼らは必死になりながら「応!」と答えた。
だが、彼らの額には汗が流れ、とても余裕そうには見えない。
(残り1度か)
松之助はそう冷静に分析した。
彼らの様子では勝負を仕掛けられるのはあと1度だけ。
それ以上は彼らが壊れてしまう。
「そのまま! 現状を維持するのだ!」
松之助は舵を握り締めるとそう叫んだ。
貞道はその言葉を聞いて歯ぎしりした。
ここで松之助が無理にでも勝負を仕掛けてくれば一気に突き放すことも出来た。
だが、松之助は図体に見合わず冷静に勝負所を見極めにきた。
「焦るな。焦るな」
貞道はそう自分に言い聞かせて冷静になるように努めた。
そうやって落ち着きを保とうとしていた貞道。
だが、彼の平静な心は一瞬にして崩れ去ることとなる。
「村上船丸! 推して参る!」
突然、彼らの目の前に船丸が指揮する小早が現れたのだ。
「船丸様! 未だ行かぬのでございまするか!」
少しほど時は遡る。
貞道と松之助の小早が鯛先島の先端に差し掛かった頃合い。
船丸は鯛先島と能島の海域で時を待っていた。
「潮はもうじき止まる! その時が勝負ぞ!」
船丸は水夫を諫めるようにそう叫んだ。
今、鯛先島と能島の間に流れる潮の流れは速く、とてもじゃないが通れたものではない。
(必ず来る! 来てもらわねば。困る)
船丸はそう心の中で叫び、その海峡を見つめた。
そして、次の瞬間。
潮の流れが完全に止まった。
「両舷! 前用意!!」
すかさず船丸が雄たけびを上げる。
水夫たちはそれを待ちかねたと言わんばかりに櫂を突き出す。
「前へ!!」
船丸の声に呼応し20名の水夫が前へと漕ぎ出す。
それはどの家中の小早よりも整った櫂捌きであった。
しかし直後、舳先の真正面に大きな岩が姿を現した。
「ッ! 右舷、櫂止め!」
即座に船丸がそう叫ぶと右舷の櫂先が海中へと没し、左舷側だけがこぎ続ける。
急速に船首が右側へと振れる。
「右舷前へ!」
船丸はそれを確認すると即座に新たな命令を伝える。
すると今度はまっすぐ進み始める。
「者どもォ! 油断するでないぞ!!」
船丸は船尾に立ち、そう叫んだ。
「そうだ、船丸。お主はそうであれ」
本丸で武吉はそう呟いた。
「それより先はいばらの道。だが、お主はそれを切り開け」
武吉の言葉に答えるように船丸は次々と岩を乗り越えていく。
固唾をのんで重臣たちはそれを見守る。
「まさか通り抜けるとは! 小早では誰も成したことがないのでは?!」
その中で傅役である貞時は叫んだ。
能島と鯛先島の間を船で通ることは古来より難事とされていた。
だが、それを船丸が成し遂げた。
これは偉大なことであった。
「さぁ。ここからが本領の見せ所だ」
船丸がその海峡を抜けたころ。
貞道と松之助が迫っていた。
「行くぞ! 全力で漕げ!」
船丸はそう叫んだ。
能島と鯛先島の間を抜けることで随分と早く回ることができたが、それでも潮止まりを待ったロスというのは大きく、貞道と松之助との差はわずかに10メートルほど。
「これだけあれば十分! 漕げ!」
船丸はこの優位を維持しようと漕ぎ続けさせる。
彼の表情は必死そのものであった。
「とにかく! とにかく後ろに付けろ!」
松之助も必死であった。
とにかく今は船丸の後方に位置をとることに集中した。
彼の中で船丸は未だ病弱なりという位置づけであり、いずれ巻き返す機会は来ると侮っていた。
だが、船丸は見事に小早を操り、最短距離を進んでいく。
水夫たちの息は絶え絶えになっており、長くはもたない。
貞道も厳しい状況にあった。
突然船丸が出現したことにより動揺。
真後ろに続いていた松之助に追い抜かされ3番手に甘んじていた。
「まだまだ行けるか?!」
貞道が水夫たちにそう尋ねると「お、応!」と息切れの混じった返答が返ってきた。
(((勝負は次の岬で決まる)))
船丸、貞道、松之助。
三人の思惑が一致した瞬間であった。