2話
「良かったのですか?」
居間にて武吉はある男と対面していた。
周囲に人はおらず、二人きりで何やら話している。
「叔父上、ご不満ですか?」
その相手は村上隆重。
武吉の叔父に当たり、先の家督争いでは武吉の後見人となった男であった。
「……正直、未だ病弱なのではないかと」
率直に隆重は疑念を漏らした。
おそらくそれは家中の皆が抱いている疑問であった。
見事に酒を呷ってみせた船丸だが、翌日はひどい頭痛に悩まされたりなど、病弱を克服したわけではない。
「それに船丸様はアレをなさっておりませぬ」
「あぁ、そうか」
隆重の言葉に武吉は同意した。
そして立ち上がると、隆重に向かってニヤリと笑った。
「初陣前の男子を集めよ。久方ぶりの祭りじゃ」
武吉の言葉に隆重もまた笑って平伏した。
「船丸! 祭りじゃ祭りじゃ!!」
昼頃、船丸が貞時と共に木刀を打ち合っているとドタバタと武吉がやってきた。
「祭りとはなんのことにございまするか?」
兄が突然はなった言葉に船丸は困惑しながら尋ねる。
すると武吉は少し驚いたような顔をしてから「そうか、知らぬのか」とすこし悲しげに呟いた。
そして、少し間をおいてから祭りの詳細を語り始めた。
祭りの詳細は案外単純なものであった。
現代でいうところのレースだ。
ここ、村上家の居城である能島城は周囲を海に囲まれた島にある。
また、隣には鯛崎島という出丸的役割を果たす小さな島がある。
この周囲約1キロメートルをどれだけ早く回ることができるか、というのを競うものであった。
使う船は小早という20人乗りの小さな船。
しかし村上家ではこの小早が最も多用されており、この船を扱えぬということは船が扱えぬのと同一視されている。
「やれるか?」
すべての説明を終えた武吉は船丸を試すかのように尋ねた。
無論、それに応じぬ船丸ではない。
「もちろん。逃げるとお思いで?」
挑むような顔つきで武吉に言った。
それに慌てたのは貞時であった。
仮に兄弟といえど、武吉は主君で船丸はその家臣。
このような挑戦的な態度を取って許される相手ではない。
「初陣の前支度じゃ! 派手に行け!」
そう豪快に笑いながら武吉は去っていった。
「相変わらず、嵐のようなお人だ」
去っていった武吉を見つめながら、船丸はそうつぶやいた。
「やるぞ、貞時。やるからには頂点だ」
船丸は視線を動かさずにそう宣言した。
貞時は船丸をみて「かわってしまった」と寂しく思うと同時に、どこか頼もしさも感じていた。
「今すぐにでも海に出られますか?」
貞時の問に船丸は胸を張り、声を張り上げて答える。
「応!!」
「随分張り切っていたなぁ!」
「兄上の顔に泥を塗る訳にも行きますまい」
「カッカッカ。そうか、そうか。殊勝だな」
海から戻った船丸を出迎えたのは武吉だった。
弟の言葉を聞いて彼は満面の笑みを浮かべると船丸の背中をバシバシと叩く。
「時に、他にはどの家の者が出られるのですか?」
船丸と武吉が縁側に座ってくつろいでいると船丸はそう尋ねた。
「多くが元服前の男衆だ。総じて5名」
「その5名で同時に競い合うのですか……」
5名と聞くと少なく思うかもしれないが実際はもっと多い、指揮者が5名ということは小早が5艘。
水夫を合わせれば総じて100名ほどがこれに参加することとなる。
「お主が最も幼い。だが、当主の弟でもある。後れを取ることは許さぬ」
厳しい口調で船丸にそう言った武吉。
船丸はそれにひるむことなく不敵に笑った。
「わたくしにお任せください」
そう言った船丸の顔には自信にあふれていた。
船丸の表情を見た武吉はフッと笑うと「楽しみにしている」と言い、突然その場を去っていった。
それから3ヶ月のこと。
「船丸様、いよいよでございまするな」
出港を前にして貞時は船丸と言葉を交わしていた。
各桟橋には各家から来た若者が傅役たちと言葉を交わしている。
「ご無理はなさいませぬように」
そう表情を引き締めていった貞時に船丸は「心配するな」と笑った。
彼の秘策、それは無理難題というものであった。
もしもそれが可能であるのならば、この城そのものの意義が揺らぐかもしれないような試みであった。
だがそれを船丸は為そうとしていた。
「必ず勝つ。兄上のために」
そう言った船丸の視線の先には本丸があった。
本丸の中では重臣たちと武吉がこの一部始終を見守っている。
船丸は振り返ると背後に控える水夫たちに向き直った。
この時まで、長かった。
だが誰一人として欠けることなく訓練についてきてくれた。
その水夫たちを船丸は信頼していた。
故に彼は右手を振り上げ、ただこう叫んだのであった。
「出陣じゃ!!」
村上船丸。
彼の歴史が始まろうとしていた。
船丸が船出をしようという時、別の桟橋に嶋貞時の孫、嶋貞道の姿があった。
彼に傅役はついておらず、桟橋には父である嶋貞義が自ら立っていた。
嶋家は村上水軍一族の中でも重臣にあたり、その親子にも大きな期待が寄せられている。
「嶋家最高の操船者」と呼ばれた貞義が自ら育て上げた貞道は、同年代の者たちでは相手にならないだろう。
というのが多くの見立てであった。
「貞道よ、遠慮はいらぬ。お主の力、見せつけてこい」
貞義はそう言って息子の肩を押した。
息子の貞道は心配するかなどと言うように笑うと、配下の者たちを小早に乗り込ませた。
「総員用意!」
この祭りは操船術のすべてを競う。
文字通り出港から入港まで。
各桟橋に付けられた小早は太鼓の合図とともに出港すると、能島と鯛先島を回り戻ってくる。
そして再び桟橋に着けるまでの速さを競うのだ。
当然、貞道はそのすべてに自信があった。
今か今かと太鼓の合図を待つ。
彼のほかの者たちも小早の船尾に立ち、号令を待っている。
その中には当主の弟、船丸もいる。
「船丸様。どれほどのものか」
貞道はつぶやく。
そして、太鼓が打ち鳴らされた。
「行け!」
貞道はそう命じると自らは船尾にある舵に手を添えた。
漕ぎ手たちが全力で漕ぎ、貞道は舵で左右に操る。
素早く出港した貞道は当然のように先頭を切っていく。
「力の限り漕げ!」
落ち着いて貞道はそう命じた。
(勝てる)
そう確信した。
この競技、船を操る技能を競うと謳ってはいるが、何か大きなことがなければほとんど逆転は起こらない。
ここまで潮を見事に乗りこなし、速度を減じることなく進んできた。
これならば勝利間違いなし。
貞道はそう油断してしまった。
彼が余裕をもって後ろを見た時、信じられないものを目にした。
自分の遥か後方を進む3艘の小早。
そして、もう1艘は――
貞道の斜め後ろにピタリと張り付いていた。