1話
伊予の北、能島という小さな島で一人の赤子が生を受けた。
生まれながらにして病弱、先は長くないと誰もが思っていた。
当然、当時起きていた家中での争いに参加することすら許されなかった。
しかし、幸いにもその争いの中で無価値とされた彼は、どの勢力にも身を狙われることなく齢10歳までその命を永らえた。
その間に家中での争いに終止符が打たれ、兄である村上武吉が家督を相続した。
久方ぶりに兄弟が顔を合わせ、外へと出かけていたとき事件は起きた。
弟が急に発熱し、その場で意識を失ったのであった。
当時の幼名は船丸。
「船丸様は未だ病弱なり」
嘲笑う声が家中に広がっていった。
船丸が目を覚ましたのはそれから3日後のことであった。
しかし、彼は夢の中で20余年もの年月を経験していた。
その夢の中で彼は未来の日本で航海士として世界の海を駆けていた。
そんな彼が一等航海士として任についた初の航海で事故は起きた。
若い三等航海士が見張りを怠り暗礁に乗り上げたのだった。
それからは生き地獄であった。
夜間であったこともあり、とにかく皆が必死だった。
救命艇に乗せられるだけの人間を乗せ、いよいよ船から離れようかという時に彼は自らの眼にある物を捉てしまった。
必死に生にしがみつこうと水面でもがく少女。
彼はその少女を見捨てることもできた。
だが、脳が決断を下すよりも早く体が動いていた。
荒波に揉まれながらも彼女のもとにたどり着いた彼は、すでに人で溢れかえっている救命艇にその少女を乗せた。
もう人が乗る余裕はない。
舷側に両手を付け、部下を見つめる。
小さくうなずくと、自身の運命を受け入れた。
「出せ」
彼は静かに部下であった男にそう静かに命じた。
エンジンが掛けられ、徐々に救命艇は離れていく。
「あの人はどうなるの!」
悲痛な少女の叫び声が彼の鼓膜を震わせる。
しかし、彼の体温は急速に奪われていき意識が遠のいていった。
「ここは……」
船丸が倒れてから3日後、彼は目を覚ました。
「船丸様がお目覚めになられた!」
未だ覚醒しきらない船丸の頭上からそんな言葉が浴びせられた。
「貞時か」
横になる船丸の傍らに座り、船丸(に声を浴びせたのは彼の傅役である嶋貞時であった。
「うるさい……」
思わずそう漏らした船丸。
この頃になると、ようやくいままで自分は夢を見ていたのだという実感を抱いた。
夢にしては些か現実的ではあったが、今となっては確認する余地も無い。
「ここは何処だ」
船丸は落ちついて貞時に尋ねる。
彼の冷静なふるまいに貞時は驚いて目を見開く。
「能島城でございまする」
そう答えた貞時に船丸は「そうか」と答えると目を瞑る。
(なにか、憑き物がとれたかのような)
貞時は率直にそんな感想を抱いていた。
感心する貞時をよそに、船丸はさらに問いを投げかけた。
「我が名は村上船丸。当主である村上武吉の弟である。相違ないか?」
「相違、ございませぬ」
貞時はそう平伏して答えた。
彼の目の前にはもうすでに病弱である弟君は影を潜め、あるべき武士としてのふるまいをする若武者の姿があった。
船丸の姿に貞時が感動すら覚えていると突如ドスドスと足音が響いてきた。
「船丸が目を覚ましたというのはほんとうか!」
若いながらも豪快な声が館に響く。
この声は──
「船丸! 大丈夫か!?」
バァン! と大きな音をたて襖を開けた少年が船丸の肩を掴み揺らす。
「兄上っ、頭が痛うございまする……」
「あっ……。すまん」
ハッと気がついたように手を話すその少年は船丸の兄、今はこの村上家の当主でもある、村上武吉であった。
申し訳なさそうにしていた武吉だが、ふと何かを思いついたようで急に声を発した。
「宴じゃ! 船丸の快復祝いじゃ!!」
突然そんなことを言い出した武吉を制止しようと船丸は手を伸ばす。
「宴! それは良うございまするな!」
その声を発するよりも早く、貞時が声を発した。
二人の声を聞いた者共がどこからともなく現れ、輝いた目をこちらに向けてきた。
「船丸どうじゃ?!」
爛々と瞳を輝かせた武吉と周りの者たちの期待の目線を一身に受けて毅然と断れる船丸ではなかった。
「楽しみにしておりまする」
ため息を大きくはいた船丸は渋々そう答えたのであった。
「飲めや歌えや! ほれドンドン持ってこい!」
最早、宴会場と化した評定の間で武吉は盃を呷りながらそう豪快に笑った。
家中の者共が乱れて酒を浴びながら裸踊りだのを繰り広げている。
もはやこれではなんのための宴会か分からない。
「ほれ! 船丸も酒を呑まぬか!」
武吉は隣に座る船丸にそう笑いながら盃に酒を注いだ。
そして船丸の耳元に口を近づけこう囁いた。
「船丸、男を魅せよ」
言わんとするところを理解した船丸は小さく頷く。
それを見た武吉は嬉しそうに笑い、大声を上げた。
「これより我が弟、船丸が男を魅せる! さあさあ皆の衆近うよれ!」
突然始まった余興に皆が盃を呷る手を止め、船丸を注視する。
皆の注目が集まったことを確認した船丸は盃を手に取り「兄上、酒が足りのうございまする」と笑顔で言った。
内心そんなことは思っていない、目の前の八分まで注がれた盃で十分だ。
だが、船丸は家臣から「病弱な幼子様」嘲られている事を知っていた。
故に彼らを見返すためにこんな事をしている。
武吉は船丸の意図を汲み取り、溢れんばかりに酒を盃に注いだ。
大の大人でもこれを一度に飲めば容易く酔えるだろう。
その事実に気がついた家臣たちはゴクリと息を呑む。
これを船丸が飲めばどうなるのか、皆の内心は穏やかではなかった。
「いざ!」
そんな家臣たちを尻目に船丸は声を上げ、一息に盃を呷った。
ゴクゴクゴク。
幼い船丸の喉に酒が流れ込んでいく。
そして、その音が止んだ。
「見事!」
横でその様子を見ていた武吉がそう声を上げた。
そして沸き立つ家臣たち。
この日を境に家臣たちの評価は一変した。