第一話 手帳を持ち帰る
手帳には日記なのか、物語なのか、その枠組みすら僕にはよく理解できないものが記されていた。
言語は理解できるけれど、内容が全く理解できないものだった。理解できないのは僕があらゆることにおいて幼く未熟な人間だからだろうか? 理解しようとする、歩み寄りが足りないないのが原因だろうか? それとも始めから理解など求めていない代物なのかもしれない。
手帳に記されている話は、ただ並ぶ数字が読めるだけというもの。それだけの意味しかない。数字は読めるが並んだ数字の意味までは解らない。
どうしてそんな物を手に入れたのかというと、特別喉から手が出るほどでもなく、ただ、なんとなく持ち帰ってしまっただけだった。なぜ? 聞かれるとお互い困ってしまう。自分でもよく解らない。感覚的に説明するなら、アスファルトのひびから生える雑草を蹴るみたいな感じだと思う。特に考えもなく、そうしてしまったというだけのことだ。
とにかく、僕には解らない。この手帳の中の話は誰かに読ませる為に書かれたのか、それとも自分の為に書かれたのか、判別することは一生かかってもできないだろう。
まず、どのようにして手帳を入手したのかというと、アルバイト先が店終いをしたからだった。不景気の煽りを受けたわけではない。資金繰りに失敗したわけでもない。単純に経営者の生気が失せてしまったからだった。
町の中華料理店で週5日のアルバイトをしていた。従業員はアルバイトの僕と厨房担当のオーナー、その奥さんの3人だけだった。仕事の内容はありふれたもので、特別難しくも楽でも無かった。服が汚れるのを我慢すればまずまずと言ったところ。なによりも、仕事終わりに賄いを奥さんが作ってくれるのが貧乏学生には有り難かった。
オーナー夫妻の仲はいいのか悪いのか、目では判断できないでいた。結果から辿ると、お互いの気持ちは、すれ違っていたということになる。アルバイトを始めた頃に聞いた話では、店を開けた年に入籍したそうで、かれこれ30年連れ添い、還暦を過ぎたばかりだと2人が言っていたような記憶がある。
普段は気さくなオーナーだが、仕事終りに賄いを食べていると、奥さんに対して当て擦るようなことがしばしばあった。
「本当はお前なんかと一緒になるはずでは無かった、今更どうしろという訳ではないけどよ、どうしてこうなったのか、思わないかお前も?」
オーナーがこの話を始めると僕は急いで賄いを食べる。「ごめんなさいね」奥さんが空いたグラスに水を注いでくれる。駄々をこねる子供に手を焼く母親のように奥さんはオーナーを見やる。賄いを食べ終えてから、食器を洗って駆け足で店を出る。これに似たことが多々あった。
その日も僕は奥さんに作ってもらった塩焼きそば急いで食べて店を出た。
次の日から店は僕とオーナーの2人だけになった。オーナー曰く、妻は家出したそうだ。
探しに行かないのかと訊ねると、そのうち帰ってくるだろうと返答された。
僕とオーナー二人では奥さんの抜けた穴を埋めることができなかった。1週間経ち、2週間が過ぎた。それでも奥さんは姿を眩ましたままで、帰ってこなかった。痺れを切らしたオーナーが知り合いを当たってアルバイトの女性を一人雇った。
雇われた女性はテキパキと仕事をこなして僕の倍以上の働きをしてくれる。性格も穏和であり、人当たりもいい。接客業に必要なものを全て兼ね備えているようだった。自然とオーナーも松本さんのことを気に入って「あいつは一生帰ってこなくても安泰だな」などと僕と松本さんに言って、お互い気に揉む表情にさせられた。
奥さんが家出をしてから3ヶ月ほど経った日、店にエアメールが届いた。それを松本さんがオーナーに告げると、中を確認して欲しいと言われて封を切った。中には写真が一枚だけ同封されていた。写真には外国らしき街並みと腕を組んだ二人が写っていた。奥さんともう一人はいつも水曜日に来ていた常連客だった。仕込みを中断してオーナーが松本さんの手にしている写真を見た。片方の目尻に深く皺を寄せて小さく頷いた。そしてカウンターに置いてある割り箸の入ったケースを床に叩きつけた。僕と松本さんは身を固くした。オーナーは僕達に今日の営業は取りやめると言ったが、僕達は返事できずにエプロンを畳んで店を出た。
僕と松本さんは喫茶店に入って今後のことを話した。松本さんは急に仕事がなくなると困ると話した。女手一つで子供を育てるのも大変だと相槌を打つ。
松本さんはオーナーの様子から写真の男女は誰なのかと疑問を口にした。僕は片方は奥さんで間違いない、もう一人は奥さんが居なくなってから来なくなった常連客だと教えた。松本さんは興奮気味に空のグラスに水を注いでくれた。「それって、駆け落ちってことかしら?」僕はグラスの水を飲んで聞こえない振りをした。
駆け落ちという表現が正しいのだろうか。
「でもどうして写真なんか送ってきたのでしょうか?」
松本さんは皿に残った、付け合わせのパセリを指で弾いて僕を見る。
「見ればわかるでしょ。とオーナーに告げたのよ。この先の覚悟も含めて」
「この先の覚悟?」
「そう、残りの人生」
松本さんの言葉に僕は手に持った卵サンドを皿に戻した。もし本当に二人が駆け落ちしたのなら、わざわざ写真を送る必要もないし、相手の素性を明かす必要もない。本人達にしか分からないけれど、浮気相手との写真を公にする危険性は無視できない。
「気晴らしに二人で旅行にでも行ってますって報告ではないかな?」
「そんなはずないでしょ? オーナーの取り乱し様見たでしょ?」
松本さんの見立ては正しいように思えた。特別に奥さんと水曜日の常連が親しかった風にはみえなかったが。オーナーや僕にバレないように水面下で計画された逃避行だったのかもしれない。
オーナーが制裁の為に常連と奥さんを訴えても2人がどこにいるか検討もつかない。離婚しようにも連絡がつかない。離婚届けなんて紙切れだ。出そうが出さまいが二人の世界には支障がない。ましてや海外で暮らすなら。二人で全てが完結されてしまう。付け入る隙がない。
残されたオーナーは仮に再婚したくても籍を抜くことができない。この先、次のパートナーを見つける気があるのか知らないけれど。
オーナーの行き場のない感情はどこに向かうのだろうか。ともに過ごした三十年という決して短くない時が否定されて、もし僕がオーナーの立場ならどうにかなってしまうだろう。
「とりあえず明日はどうしますか?」
「店には顔を出した方がいいでしょうね、オーナーのことも心配だし」
僕達は明日もいつも通りに店に出勤すると決めて話し合いは終わった。
別れ際に「大丈夫よね?」と松本さんが自転車を押しながら言った。僕は「さぁ?」と返事をした。
翌日、店に着くともう松本さんは先に出勤していた。オーナーと談笑しながら僕を手で招いた。オーナーが僕に封筒を手渡してきた。
「こんなことになってしまって悪いな。急過ぎるけれど、店じまいだ」
渡された封筒には給料一ヶ月分以上の現金が入っていた。オーナーの決断は迅速だった。経営者に求められる要素の一つ。オーナーは三十年も店を存続させられたのだから、経営者として素質があったのだろう。勿論、奥さんの協力あってのものと理解した上での店終い。
こうなることが分かった上で、奥さんは行動を起こしたのだろうか? 奥さんと常連客の年齢的にも肉体的繋がりというよりは、精神的繋がりの方が強いのではないかと僕は考えた。それはオーナーを打ちのめすには十分だったに違いない。残酷だが気の迷いという逃げ口上が通用しない。
「とりあえず、店の片付けだけ二人にお願いしたい」
オーナーは僕達にそう告げた。僕と松本さんは元気よく返事をした。
店内にある物はほとんどが不用物になる。僕達は引き取り業者が持ち帰りやすいようにまとめていく。オーナーは店内をくまなく磨いていた。いつも以上に丁寧に。この店に明日は来ないのに。
「これどうしたらいいのかしら?」
松本さんがダンボール箱の中を見せながら言った。
「それ、お客さんの忘れ物ですよね」
ダンボールの中には客が店で忘れていった小物が収められていた。ジッポライターやサングラス、ボールペンに小銭入れ。大した物は入っていない。だから引き取りに来ないだろう。
「捨てましょうよ」
「そうね、高価な物も無いようだし、じゃあお願い」
松本さんは忘れ物のサングラスを掛けてから僕にダンボールを手渡した。
「昔の俳優みたいですね」
松本さんは僕の一言に笑いながら片付けに戻って行った。
この行き場を失った物達の中に手帳が入っていたのだった。
僕は手帳を手にしてパラパラとめくってから尻のポケットにしまった。
少しだけ内容に興味が惹かれたからだった。
最初に、デパートの屋上から魚の切り身が大量に降ってきた。とそこには綴られていた。
目を通して頂き有難う御座います。このような話が後七話続いて完結します。
不条理って不条理ですよね。ではでは。




