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♯8

 透明人間と言われた後の週明け、朝目覚めると、体が石のように固かった。そう感じたのは、手や足を動かそうという意思はあるのに、全く動かなかったからだ。

 最初僕がふざけていると思った谷口さん(礼央の母親)は、「起こして」と言った僕の体にふれた途端、悲鳴を上げた。

「奥様、旦那様!」

 扉も閉めずに部屋を去った彼女は、すぐに五条と母を連れてきた。

「隆夫様?」

「起き上がれない。体が言うことを聞かないんだ」

 五条はベッドに近付き、僕の腕を持ち上げようとした。その重みに、異変を感じたようだった。

「谷口さんのおっしゃった通りですね」

 五条は後ろにいる母を振り返る。

「すぐに辻先生を呼んでちょうだい」


 辻正人先生は、我が家に勤める医師だ。僕が小さい頃から世話になっている。呼べばすぐに来てくれるんだ、何時でも。

 触診のみで、詳しい検査はしていない。それでも先生には分かったようだった、どういう病気なのか。

「この薬を飲んで効き目がなければ、呼んでください」


 服薬して一時間が経った頃、僕の体は正常に動き出した。さっきまでが嘘のように、手も足も軽い、自由に動かせる。

「よかったわ、隆夫ちゃん」

 ずっとそばにいてくれた母は、涙を拭った。


 こういうことが何日も続いた。朝だけ、体が動かなくなる。でも昼前には治まるし、他にはどこも具合の悪いところはない。特に発熱もない。

 もらった薬の成分を調べようと思い、図書館とは別の、屋敷内にある父の書斎に入った。家庭医学の本や、薬の辞典が置いてあるんだ。

 棚から一冊抜き、索引で飲んでいる薬の名前を探す。該当ページを開いて読んでみると、神経系の病気の治療に使われるビタミン剤とのこと。

(治るか治らないかは書いていない)



「ストレス性の病気?」

 僕と礼央は初夏の庭を歩いていた。日曜日の午前。

「うん。安静にしていれば治るって、辻先生が」

 僕は青い小さな花の前に座り込んだ。ツユクサ。礼央と出会うきっかけになった花だ。今群れをなしているのは、あれの子孫。

(少しもらって、部屋に飾ろう)

 僕は持ってきたはさみで、根元に近い部分を切る。礼央も欲しい? と聞こうとした。

「心当たりはあるの」

 礼央の問いに、僕は返事を保留にする。


「おいしい? 隆夫ちゃん」

 母の好きなカモミールのお茶。薬草は庭から採ってきたもの。洗って乾かした後、お湯を注ぐといい香りの飲み物になる。

「うん、とっても」

 平日の昼間。普通の子どもは学校へ行って勉強している。僕は窓からの風に吹かれながら、母のティールームで過ごしていた。

「お勉強の方は大丈夫? 家庭教師の先生を呼んでもいいのよ」

「……」

 僕はお茶菓子のフィナンシェに口をつけながら、返事をするまでの時間を稼いだ。

「大丈夫です。一人でやれます。どうしても困ったときは、五条や和馬が教えてくれますし」

「そう」

 残念そうな顔をする母。僕のことを心配してくれているんだ。もうずいぶんと、授業から遅れてしまっている。

「でも、一人では限界があるので、必要になったらお願いするかもしれません」

「そう、分かったわ」

 今度は明るい笑顔。なるべく傷つけたくない、本当のことを言って。

 今は一人でいたいんだ、誰にも会わず。

「学校のことなんですが」

「ええ」

 母はソーサにカップを置いた。

「まだ本調子じゃないので、もう少し休みをいただいて構いませんか」

 実際、近頃は朝から体が動くようになっていた。全快していると言っていい状態。先生の診察は受けているけど。

「そうね。無理をしてぶり返したら困るもの。大事をとりましょう」


 はっきり言ってしまえばいいのに、もう行きたくないと。

 弱い自分をさらけ出すのは恥ずかしくても、いつまでも仮病は続けられない。

 僕の体が動かなくなったのは、学校へ行かなくて済むよう、体が判断したこと。無意識だったとしても、僕の意思……強い意志だ。

(卑怯者)

 飲んだことにしたビタミン剤は、トイレに流した。



 青々と生い茂っていた桜の葉は、色を変え、地面に落ちるようになった。

 並木道に腰を下ろし、画板にはさんだ画用紙に、絵筆を走らせる。

 中等部の美術では、ポスターカラーで絵を描いていたけど、やっぱり僕は水彩絵の具の方が好きだ。柔らかさが出せる。

「うまいもんだな。絵心があるのか」

「アキ」

 ハ歳の従妹は、学校帰りにここへ寄ってくれたらしい。ベレー帽に、藍色の上着、丸襟のブラウス、白いリボンが上品だ。

「絵心なんてない。一時期習ってたことがあるから、技術を少し知ってるだけだよ」

「ふーん」

 アキはその辺に落ちている一枚を拾い、じっと見ていた。

「具合はどうだ」

「良好」

 健康なら登校すればいいのに。そう言われるんじゃないかと思ったけど。

「それはよかった」

 アキは深いところにナイフを差し込んでくるような真似はしない。

 葉の軸部分を指でくるくると回した後、飽きたのかはらりとそれを落とす。

「和馬も心配してたぞ。部活の試合があるとかで、見舞いには来られないらしい」

「ああ、知ってる」

 経営学の講義も休みがちだ。もう僕は参加してないから、どこまで進んだかは分からない。

「あいつと話したんだが。私たちはおまえに、負担をかけすぎているな」

 アキは、僕の隣に座った。

「負担?」

「おまえが一番、責任が重いだろ」

 つぶらな瞳が僕を見つめている。

「……仕方ない、会長の長男として生まれてきたんだから」

 僕は筆を水で洗い、パレットの絵の具につける。

「私は那都芽なつめの会社を継ぐことになっている。条件として、日本語以外に二か国語使えるようにならなきゃいけないらしい、キツいけどな」

「おまえならできるよ」

 アキはたぶん、僕より強くて優秀。

「代わってやろうか」

 何を、とは聞かなかった。明らかだし、とぼけた振りもできなかった。

「そういうことは、話す相手の順番があるだろう」

 まずは僕が父にちゃんと言わなければならない。後継を辞退すると。

「ん、そうだな」

 立ち上がったアキは、白いスカートについた土を払った。

「出過ぎた真似をした。すまない」


 アキに言われる前から、何度か父に話そうとした。

 父の部屋の扉の手前で、僕は握った拳を止めるんだ。いつも、打ちつけるところまで行かない。静かにその腕を下ろす。

(辞退すると言ってしまえば、楽になる。と同時に、僕がこの家にいる意味もなくなってしまうんだ)

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