♯7
経営学の講義と言っても、最初から難しいことを勉強するわけじゃない。
まずは東京綾瀬グループの組織体系。アヤセ・トレーディングカンパニー、東京綾瀬銀行、あやせ食品、東綾電機――これらがグループを支える4本の柱。
それぞれのトップと幹部たちの名前・写真が、組織図の中に示されている。知っている人ばかりだ。
隣の和馬は熱心に講義資料を見ていた。
また別の時には、それぞれの企業の取引相手一覧が配られた。
自分たちの会社だけで経営が成り立っているわけでなく、原料を仕入れ我々のところに卸してくれる業者、できあがった物を販売してくれる店などの協力があって、製造・流通がうまく行っているのだと教えてくれた。
特に食品であれば気候の影響、電気製品(鉱物使用)にしても世界情勢の影響を受け、価格高騰が起こる可能性がある。常に世の中のことに気を配るよう、念を押された。
次回からはマクロ経済学――大きな視点でのお金の流れを学ぶ。
「やっぱりすごいな。綾瀬家の子どもになると、これだけ高い教育を受けられるのか。経済学なんて大学でやることだぞ」
感心している和馬に共感することができない。僕には重荷でしかないからだ、求められることが。
(支店、子会社含め数万人の生活に責任を持つなんて。僕が判断を誤れば、路頭に迷う人が大勢出る)
やってやろう! なんて、気概は僕にはなかった。恐怖しかない。
「……やせ」
呼ばれた気がして振り返った。
教室後方、掃除道具入れの前で、同級生数人が集まっている。
今後ろの戸口から入ってきて、彼らのところへ急ぐのは早瀬くんという。外部の小学校からの編入生で、この前のテストでも上位者リストに名前が載っていた、優秀な生徒だ。
テレビの話で盛り上がる。それを聞きながら、僕は黒板の方を向いて、読みかけの本に再び目を落とした。
「綾瀬のやつ、こっち見てたぜ」
「また聞き間違えたんだろ。授業中もそうじゃん、早瀬って言ってんのに自分が返事して大ひんしゅく」
そこで嘲笑が起きた。
「誰もおまえに用なんかねーっつの。透明人間なんだからさ」
「おい鮎川、今ので将来の就職先、四つ失ったぞ。大丈夫か」
「あっ……」
「今さら謝っても許してくれねーぞ」
また笑い声。
夜、自室で勉強していた。簡単な計算問題なのに、何度も書き間違えてノートの上が消しゴムのカスだらけだ。
――透明人間なんだからさ
その言葉が頭から離れない。これまでだって悪口を言われたことなど何度もあったのに。
気にしなくていいのに、気にせずにいられない。
「くそっ」
僕はガウンを羽織り、屋敷を出た。
管理人の吉沢さんを起こし、午後の十時に観覧車を稼働してもらう。何てわがままだと思うけど、どうしても乗りたかった。
「隆夫くーん」
宿舎の方から、誰かが駆けてくるのが見えた。
ゴンドラに乗り込もうとしていた僕は、ちょっとだけ待ってもらうことにする。
ゆっくりと上昇していく観覧車の小部屋。
敷地内には所々外灯が立っているので、窓の外は真っ暗闇ではなかった。
テニスコート、プールやジムの入っている建物、劇場、図書館、従業員宿舎。バーベキューができる広場と休憩所、薬草の畑、葉桜の並木に、松茸のなる林。
見ていると落ち着くんだ。僕は家が好きなんだと思う。
「何かあった?」
向かいの礼央が、静かな声でたずねた。
「ちょっと……」
説明しようとは思わない。自分が情けないから。
「あのさ、礼央。僕はいつか父さんに話さないといけないことがあるんだ」
「それってぼくが、今聞いてもいいこと?」
僕は黙って頷いた。
「父さんの後を継ぐのは、僕じゃない方がいいと思ってる。自分じゃ能力不足だし、他にいっぱい適格者がいるの知ってるから」
「隆夫くん……」
そっち行っていい? と僕が聞くと、礼央は片側に詰めて座った。僕は空いた隙間に腰を下ろす。
「礼央」
僕が見つめると、礼央は察したようで目を閉じた。僕はその唇に自分のを重ねる。
目を開いたとき、どうしてキスしたのと礼央は聞かなかった。聞かれたら困る。
「隆夫くん。今までで一番やさしい顔してる」
バイオリンをやめたときみたいに、学校へ行くのやめますと言えたらどんなに楽だろうと思った。
実際あの後、チェロに転向したから、バイオリンをやめたこと自体とがめられることはなかった。
「上手になったわね」
グランドピアノの前で、母が言う。
僕と母はエルガーの『愛のあいさつ』を合奏したところだった。
「お母さんの伴奏のお陰。弾きやすいんだ」
「隆夫ちゃんにはこちらの方が合っていたみたいね」
僕は椅子から立ち上がって、大きな楽器を片付け始める。
(転校したいと言ったら、驚くかな。まだ次のところは見つけてないけど)
僕が“見える人間”になれる学校が、この世にあるだろうか。




