♯2
母とはときどき合奏をする。母がピアノを弾き、僕はバイオリンを奏でる。
僕の腕前はまだ初歩レベルなので、合奏と言っても簡単な練習曲に母が付き合ってくれる形だ。
いつか『愛のあいさつ』ぐらい弾けるようになりたい。
「上手になったわね、隆夫ちゃん」
母はティーポットから、二人分のカップにお茶を注ぐ。
「そうかな。自分じゃ分からないけど」
「将来、バイオリニストになれるわよ」
僕はそれを聞いて微笑むんだけど、本気にしちゃダメなやつだと分かっていた。
コンクールでは参加賞みたいなのしかもらったことがないし、同い年の子たちの中でも本当にうまい子は別格だった。
「学校はどう? そろそろクラスに馴染んだ頃かしら」
今は六月。初等部に上がって3か月が過ぎようとしている。
「幼稚舎から持ち上がりの子がほとんどだし、他の幼稚園からの子もいるけど……。馴染んでると言えば馴染んでるかな」
相変わらず友達は一人もいない。教室の中の雰囲気に慣れたという意味で、馴染んだと答えた。
「そう、よかったわ。私立だから深刻ないじめもないでしょうし」
僕は、いじめられているわけではない。でもそれは、父の肩書きに守られているだけであって、決していじめられないタイプというわけじゃないと思う。
「うん、いい学校だよ」
母が淹れてくれたお茶は、この前五条が持ってきてくれたのと同じ味だった。
しゃべれないことを心配してか、父は僕に日記をつけるよう言った。
書くことが何もない。平日は学校へ行って、授業を受けて帰ってくる。その後習い事。学校で起こることは僕には関係のないことで、たぶん日々教室の中では事件が起きているんだけど、僕は知らないんだ。
五条に相談すると、天気のことや庭の植物のことを書けばいいと教えてくれた。毎日何かしら変化があるからと。
そういうわけで日曜の朝、僕は散歩に出かけることにした。
天気は晴れ。梅雨が近いらしいけど、まだ空気にじとっとした感じはない。
玄関ポーチから門までは、真っ直ぐ続く一本道。この左側(東)には、ロータリーや駐車場がある。僕の家は来客が多い。
右側(西)には、松林、桜並木、休憩所、母の茶畑、四季の花壇がある。木や花の手入れは庭師がしてくれるので、僕たちは伸びた枝を切ったり水やりをしたりする必要はない。
僕は庭を歩くのが好きだ。草木の吐いた息のにおいが好き。
「あっ、てんとう虫」
赤い体に黒い点のついた生き物は、僕の前を羽ばたいていった。
ふと足元を見ると、土の上を黒い楕円形の虫がたくさんの足で這っている。丸めたくなる衝動を抑えて、踏んでしまわないよう気をつけて歩いた。
「あれ、この花は」
花壇じゃないところに間違って生えている、小さな青い花。
「何だろう」
僕は、首から提げたポラロイドカメラで写真を撮った。
分からないことは本で調べる。僕は図書館の建物に入り、管理室にいる司書さんに声をかけて、二重扉を順番に開けていった。
吹き抜けの広い空間。二階、三階の壁際にも、本棚が並んでいる。
僕の家は古くは江戸時代からだけど、ここにある蔵書は明治以降のものらしい。ひらがなでなくカタカナで書いてあったり、漢字が今とは違っていたり。昔の本も少しだけめくってみたことがある。
僕は奥の方の、児童書コーナーに向かった。物語や伝記は、いつもここのを借りて学校へ持っていっている。
「誰っ」
子どもの声が大きな空間に響いた。
「きみこそ」
幼児向けの低い書棚の前、ライトグリーンのじゅうたんの上に、男の子が座っていた。手には絵本を持って。
「隆夫、様」
相手の方が先に、僕が誰かを理解した。
ここは綾瀬家の図書館。分家の子どもが利用することもあるけど、僕はこの子を知らなかった。
「きみのお父さんかお母さんが、うちで働いてるの?」
父は従業員にも、敷地内の施設利用を許可している。
「お父さんはいない、死んじゃった。お母さんは、みんなのお洗濯をしてる」
この子の母親は家政婦なのか。
僕はしゃがんでたずねた。「きみの名前は? いくつ?」
大きな丸い目が僕を見つめる。
「谷口礼央。五歳」
「一つ違いか」
僕はまだ誕生日を迎えていない。
「名前を聞いてどうするの? 誰かに言いつける? 入口の人がいいって言ったから、ぼくここにいるんだけど」
礼央は少し警戒しているようだった。
「言いつけたりしないよ。何も悪いことはしていないじゃないか」
「ただ単に聞いただけ?」
「うん……」
僕は、こんなに年の近い子どもが敷地内にいることを知らなかった。和馬より大きい子どもが何人かいるのは知っていたけど。
「友達になってくれない?」
口から突然出てきたことば。ほとんど思いつき。
「友達はだめだよ、わきまえないと」
「わきまえる?」
誰か大人にそう言われているのだろうか。
「隆夫様は会長さんの子どもでしょ。ぼくは、従業員の子ども。同じじゃない」
礼央は真顔で言った。
「……様はいらない」
「じゃあ隆夫くん?」
「それでいいよ」
立場の違いはよく理解しているけど、柔軟性も持ち合わせているようだった。
「隆夫くんは何しにここへ来たの?」
「植物のことを調べに、図鑑を見に来たんだよ。あっちの棚にある」
「図鑑でお勉強、えらいね」
「きみはこのシリーズが好き?」
礼央が手に持っているのは、僕も前読破した絵本だった。かなりの冊数刊行されていて、本棚の一段を占領してしまうほど。
「うん。この主役のねこが気に入ってる」
野生の猫どうしの戦いの物語だ。
「きみが読み終わったら、その話をしない?」
僕は立ち上がり、目的の棚へと歩き始めた。靴音さえ響く。
「いいよ!」
月曜は剣術、火曜は英会話、水曜・柔術、木曜・バイオリン、金曜・水泳。土日だけは習い事がない。
和馬が用事があると言って来なかった日曜の午後、僕は礼央をプールに誘った。
一番端のレーンで、水に飛び込む。クロールで二十五メートル。慣れているとは言え、泳ぎ切ると少し疲れた。
「隆夫くんはすごいねぇ。お魚みたいにスイスイ泳ぐね」
サイドに立っている礼央。手を貸してくれる。
「礼央も泳げばいいのに。水着持ってきただろ」
「ぼくはいい。深いの怖いから」
確かに大人用のプールなので、僕も床に足はつかないけど、浮かぶのは得意なので怖くなかった。壁際には足場もある。
揺れる水面を眺めながら、僕たち二人は丸いテーブルで、グラスに入ったデザートをつついた。
「おいしい、このアイス」
「クリームソーダというんだよ」
「ソーダって炭酸? 大人の味」
誰かがそういう言い方をしたのだろうか。同じ宿舎で暮らす年上の子ども、あるいはナーサリー(敷地内にある従業員用託児所)にいるもっと小さい子たち。
「隆夫くんは、どうしてぼくに親切にしてくれるの?」
友達になりたいからと答えるのはやめた。わきまえないと、とこの前礼央が言っていた。
「一緒にいて緊張しない。落ち着くから、かな」
「ふーん」
礼央は浮かんだバニラを食べ終え、グラスに直接口をつけてソーダを飲む。
「しゅわしゅわする!」
何これ、まずっ、とでも言いそうな顔をしていた。五歳には早かったかな。
「無理して飲まなくても。メインはアイスクリームだし」
「飲むの、残したらもったいない」
ひどい顔をしながら、礼央はがんばって全部飲み干した。最後に長いげっぷ。
「うー、気持ち悪いよー」
「無理するからだよ」
僕は家族以外といて、初めて笑った。