♯16【終】
※村西の事情のところで、精神的に相当きつい部分があります。
お読みになる方は、ご承知おきください。
アンテナのついた黒い携帯電話を、五条は僕にくれた。外出先でもどこででも話せるので、急に必要になったとき、公衆電話に走らなくてよいと。
僕がバイトで買い物を頼まれたとき、本当にこの品でいいか迷ったのに、聞かずに買って戻り、失敗したことを知っているからだ。
「私も一台持っていますのでね。何かお困りのときは、かけてきてくださって構いません」
「ありがとう、五条」
「それではお元気で」
初老の紳士は、来たときと同じスーツケースを引いて、アパートの門を出ていく。
僕も外の通りに出た。
「たくさん教えてくれてありがとう。五条も体に気をつけて!」
駅に向かう途中の道で、振り返る執事。
「お帰りをお待ちしておりますよ」
自由科から南へ、おかず屋などの商店が並ぶ通りを抜けた先に、秋ノ川の土手がある。
夕方。輝く水面を前にして、僕らは草の上で、さっき買った粗挽きソーセージを食べていた。
「親の転勤が決まって、ついていくことにしたんだ」
村西くんの両親は、近隣の市に住んでいる。村西くんだけ、今はこのまちに下宿しているそう。
「遠いの?」
食べ終わった僕は、串を袋に片付けた。
「関西方面らしい。詳しいことは聞いてないけど、近くはないな」
「……」
僕は、目の前にある枯れたクローバーを見つめる。
「ここへ来たのはよかったよ。勉強を続けられたし、心のリハビリもできた。バイトでだいぶ稼げたしな」
村西くんは、缶に入った大人の飲み物に口をつける。僕はまだ紅茶しか飲めない。
「リハビリ、効果あったんだ」
「最初来たときは死んでたからな、心が」
村西くんが普通の学校をやめた事情は知らない。でも何かあったんだろうと思う。
「転勤族でさ、小さい頃からしょっちゅう引っ越し。行く先々でとりあえず仲間に入れてもらう、嫌われないようにって常に気ぃ遣いながらな。けど、時期が来たらさよならだ。もういっか、って、みんなと仲良くするのを放棄することにしたんだ――中二のとき」
僕は黙って、彼の話を聞いた。
「クラスでいじめられてるやつがいた。いじめを通して、クラスがまとまってる感じ。あれは思い出しても最悪だな」
想像できる。僕だって学校を知らないわけじゃないから。
「おれはそういうのに加わりたくなかったし、そいつのことも別に嫌いじゃなかった。席が隣で、親切にしてくれたしな。話してるうちに好きなマンガや音楽が同じだと分かって、仲良くしたかったんだ、そいつと」
「うん」
「でもあいつらは、それがおもしろくなかった。いじめる側におれを引き入れようとしてさ。キツいこと言って断ったんだ、そしたらおれがターゲットになった」
「……」
人が多いとそういうことがある。いろんなやつがいる。汚いやつも。
「教科書隠されたり、帰るとき靴が泥まみれになってたり。そういうの鬱陶しかったけど、おれはそんなんでへこたれたりしないしな。屈服はしなかった――給食に毎日ごみ入れられて、食えなくて午後はいつも腹すかしてたけど」
先生はきっと、気付いてて何もしなかったんだろう。怖いものを目の前にして、足がすくむのは大人だって同じ。
そういう人間に、なる自信が僕はあった。だから人の上に立つ仕事なんてしちゃいけない。
「あるとき川に連れてこられて」
村西くんは、水の流れに目をやった。
「橋から突き落とされた」
「えっ」
僕は慌てて村西くんを見る。
「助かったけどな。通りかかった大人が、気付いて川に飛び込んで、助けてくれた。だいぶ水飲んでたし、しばらく入院は必要だったけど」
「助かってよかった」
ほっとする。今、村西くんが隣にいることに。
「でもあいつは――おれを突き落とせと命じられたやつは、おれが水の中でもがいてるのを見て、死ぬと思ったんだろう。流れが急で、深いところだったし。罪の意識もあったのか、気が動転して、そのまま走り出して」
瞬間、僕は耳をふさいだから、村西くんの言葉を最後までは聞かなかった。
予想できる、その先のこと。
しばらくしてから、僕は手を下ろした。
「……ごめん」
僕にとっては聞きたくないことでも、村西くんにとっては、実際に起きたこと――心が破壊された原因。
「いや、こっちこそ」
村西くんは太陽の方に顔を向けた。
「おれらの年代ってさ、箸が落ちても怒りたくなるほどイライラしたり……大人の更年期みたいな、何かの病気かもしれないけど。この時期、集団でいる怖さって確かにあるんだよ。だから、一人になりたかった。一人じゃなくても、人数少ないとこに」
それから村西くんは、少しぬるくなっただろう缶コーヒーを、ゆっくり味わった。長い息を吐く。
「あいつの家に線香上げに行くとか、今はまだできそうにない。向こうの親も拒絶するかもしれないし。正直、心の整理なんてついてないんだ。一生無理かもしれない。それでも、元の世界に戻らないと――このやさしい世界から」
「村西くん……」
卒業するんだ、彼は。それは僕もいつかの目標にしないといけないこと。
「綾瀬」
先輩っぽい、先に行く人みたいな表情。
「おれ気が弱いからさ。次行くとこがカオスじゃないよう、祈っててくれよ」
「うん!」
公園で、一人ぼっちで食べる昼ごはんには慣れた。
村西くんがすげーと言ってくれた照り焼きチキンサンドを、今日も作って持ってきた。
紅茶を飲み、傍らに置いた本を取って開く。
――がんばって、隆夫くん
そう書かれた、ツユクサのしおり。
春に摘んだのを、時間をかけて押し花にし、郵便で送ってくれた。昨日届いたんだ。




