♯10 桜の下
桜の季節。もうすぐ僕は、この家を出て、知らない街で一人で暮らす。怖くないわけじゃない、でも挑戦したかった。
「わ……」
急に強い風が吹いて、ソメイヨシノの花びらが舞う。
(前が見えない……!)
吹雪が止んだ後、目を開けると、そこには愛犬を連れた父の姿があった。
「隆夫」
「父さん」
「ハーブを採りに行くのか?」
僕が手に持っている袋とはさみを見て、父は言った。
「はい。お母さんに頼まれて」
「あのお茶はおいしいな。ワシもたまに飲ませてもらう」
父とお茶の話をするのは初めてだった。
「カモミールはリラックス効果があるんだと、お母さんが言っていました」
「ああ。仕事で煮詰まったときにはちょうどいい。コーヒーばかりだと胃を壊すしな」
「煮詰まることなど、あるんですか?」
父は万能の人だと思っていた。
「それはあるよ。思い通りになることばかりではない、ビジネスは相手があってのものだからね」
「……」
口を閉じ、目線を落とした僕に、父は次の言葉をかける。
「ワシの後を継ぐのが怖いか?」
たぶんそれを、ずっと聞いてほしかったんだ。この人に。
「はい。僕には無理です。代々続いてきた会社を、僕の手で潰してしまうことになる。それは絶対に嫌なんです」
ゆがめた顔を父に見せている。これが僕の精一杯。
「答えを先延ばしにしてもよかったんだが。それだとおまえには負担か」
先に帰っていなさいと、父はゴールデンリトリーバーのリードを外す。賢いジョージは、ひとりで自分の居場所に戻っていった。
「隆夫」
父は、東京綾瀬グループ会長の顔になった。
「現時点をもって、おまえから次期会長最有力候補の任を解く」
それは魔法の呪文と同じだった。僕に対しても、関係者全員に対しても強い効力を持つ。
「いいか? おまえはもう、最有力候補としての権威も権限もないぞ。この意味は分かるな?」
「はい。自分の将来は、自分で作り出します」
きっとアキか和馬が、次の候補として待機している。綾瀬グループは大丈夫だ。
「もし、帰ってきたいと思ったら、一般社員として入社試験をくぐり抜けてこい」
父は、最後まで僕を見放さなかった。




