♯1
【注】
主人公の隆夫は、昭和の終わり頃に子ども時代を過ごしました。そのため作中に出てくる遊び道具などは、当時の物を使っています。
僕は、小さい頃から話すのが苦手だった。緊張するとことばが出てこなくなる。相手のことを怖いと感じているとき、特に。
「行こうぜ」
「……、うん」
一瞬振り返ってこちらを見る、後ろめたそうな目。
彼は父の知り合いの息子で、僕と仲良くするよう親に言われていた。
二人は園庭を突っ切り、ジャングルジムまで駆けていく。
彼らの背中を、僕は黙って見ていた。追いかけて、僕も仲間に入れてと言うこともできず。
他の子が砂場やブランコで遊び、元気よく駆け回る中、僕は園舎の戸口で立ち尽くす。
休み時間は苦手だった。
初等部に上がると、教室に自分の机が与えられ、授業と授業の合間はそこで過ごすことができた。僕は家から持ってきた本を開き、時間を潰す。
「あいつ、誰ともしゃべらないよな。しゃべれないのか」
「いいから放っとこ。無視無視」
誰がどんなことを言ったとしても、僕は気にしないようにした。
友達を作れないさびしさは、幼稚舎の頃克服したのだ。僕は一人でも平気――そう思っていたのに。
「隆夫、ガールフレンドの竹中留美ちゃんだ。仲良くするといい」
父はあるとき、家に女の子を連れてきた。
夜会のときほどじゃないけど、お姫様みたいな格好。髪は両側でツイストパンのようにひねっていて、服は裾の広がったワンピース。
「留美です。父があなたのお父様に、いつもお世話になってるの。よろしくね」
にっこり微笑む留美ちゃんは、かわいくてまぶしくて僕には不釣り合いだった。
「気に入ったらお嫁さんにしてもいい」
父がこそっと耳打ちする。冗談じゃないと思った。こんなに怖くてたまらないのに。
部屋に二人きりにされ、僕は体を硬直させる。ことばなんか出てくるわけもない。
「隆夫くん、何して遊ぶ? あたしはトランプがいいと思うけど」
僕たちが着いているテーブルのそばには、カードゲームやボードゲームを並べたワゴンが置かれていた。
僕は椅子を降りて、今言われた物をテーブルへ運んだ。
「ありがとう。七並べにする? それともババ抜き?」
「ババ抜き」
七並べはやり方を知らなかった。
「分かったわ。あたしが切るわね」
それが留美ちゃんの笑顔を見た最後だった。
トランプ、ウノ、オセロ、クインテット、人生ゲーム。用意してくれたもので一通り遊び、夕方になった。
外で車の音がする。留美ちゃんは立ち上がり、窓の向こうを見てほっとした顔をする。
僕は執事の五条とともに、玄関まで留美ちゃんを見送った。
迎えにきたお母さんに留美ちゃんは、「隆夫くんてつまんない」と言ったんだ。小声だったけどはっきり聞こえた。
「お疲れになりましたか?」
二人を乗せた車が遠い門に向かっていく中、隣の五条が僕にたずねた。
「緊張した」
それから留美ちゃんとのお見合いは、毎週続いた。
土曜の午後という貴重な時間、友達と遊びたいかもしれないのにわざわざ通ってきていたのは、留美ちゃんのお父さんが僕の父の会社の専務だから。断れなかったのだと思う。
本当ならおもしろいはずのゲームも、勝とうが負けようが僕が全く無反応なので、盛り上がるわけがない。
僕も何かことばを出そうとするんだけど、頭の中にはぼやっとしたイメージしかなく、それも恐怖にかき消されて結局ことばにならない。僕が口をぱくぱくさせているのを見て、留美ちゃんは呆れた顔をしていた。
「それで、隆夫はどうするつもりなんだい?」
パチンと白いコマを緑の盤に置く和馬。黒を一つひっくり返す。
「どうするって……?」
日曜の午後、僕は三つ違いの兄とオセロゲームをしていた。和馬はどういうわけか別の家で暮らしていて、ここには週に一回しか現れない。
「留美ちゃんと、これからも毎週会い続けるのか、それともお断りするのか」
「お断りするのはないでしょ。だってお父さんが頼んで来てもらってるわけだし。……断るのは失礼」
最後の方は小声で言った。僕は和馬の白を二枚、黒に変える。
「確かに、こちらから頼んでおいて断るのは、礼儀に反する。でもせっかく来てもらってるのに、全然楽しませないで帰すのもどうかな」
「おいしいケーキと紅茶なら、用意してるよ。厨房の人に頼んで、いつもとびきりのを作ってもらってる」
「隆夫自身は? 留美ちゃんのために何かしてることがある?」
「……」
ただ、やらないといけないことみたいにゲームを続け、それで時間が来るのを待っているだけ。僕は留美ちゃんのためにしていることなど何もなかった。
「ちゃんと向き合わないとだめだよ、引き留めておくのなら」
「向き合う?」
何をすれはいいか分からなかった。
「相手に興味を持つこと。身につけている物を観察するのでもいい。たとえば『このブローチすてきだね』とか、ほめてあげるだけでもこちらの印象が変わる。ちょっとでも好きになってもらった方がいいだろう?」
「好きに……」
僕自身は留美ちゃんのことを、好き以前に怖いと思っていた。
「隆夫は将来、たくさんの部下を率いることになるんだよ。人の気持ちを自分に向かせる――そのための努力は惜しんじゃいけない」
「あ」
和馬が白を一つ置くと、その右も上も斜めも、真っ白になってしまった。盤面に残った黒はわずか。こうやって、僕はいつも負ける。
「ずるいよ。何かコツを知ってるんじゃないの?」
小学四年の兄は笑うだけで、何も教えてくれなかった。
向き合うってどういうことなのか、自分なりに考えた。
和馬は『身につけている物を観察するのでもいい』と言っていた。留美ちゃんは、ドレスみたいな服をいつも着ている。それから髪には、大きいリボン。
(さすがに服をプレゼントするのはおかしいけど、頭につけるリボンぐらいなら……)
僕は五条に言ってカタログを持ってきてもらい、彼女に似合いそうなものを一緒に探してもらった。
「これなどはいかがでしょう。少し大人っぽいですが、喜ばれると思いますよ」
ストライプの青いリボン型髪留め。中心には宝石めいたガラスの玉がついている。
「じゃあ、それにする」
女の子の好きな物はよく分からない。でも、これは僕もいいと思う。頭の中で留美ちゃんを想像した。
そして土曜の午後。僕たち二人が向かい合っているテーブルには、プレゼント用に包装した箱が一つ。中身は、五条と一緒に選んだ物。
「何、これ」
一瞬で分かる、不快という顔。これが何かを知りたい表情ではなかった。
「る、る、留美ちゃんに贈りも――」
「やめてよね、こういうの」
僕のことばは途中で遮られた。
「隆夫くんから物をもらう理由なんてないの。欲しい物があったらパパとママに言うわ。あなたにこんなこと望んでない!」
留美ちゃんの声には、はっきりとした怒りが表れていた。
「……」
僕はまたしゃべれなくなる。
「分かってるんだけど……パパの立場が悪くなるってことは。でももう限界。あたし、隆夫くんのことがキライ。気持ち悪いと思うの、あなたみたいな人。どうしてしゃべれないの? いつも金魚みたいに口をぱくぱくさせて、ばかみたい! お願いだからあたしを解放して!」
僕は、今涙を流してはいけないと思った。
僕の父は東京綾瀬グループ会長。その下に、留美ちゃんのお父さん、竹中専務がいる。
留美ちゃんの立場も考えるなら、僕がここで被害者になるわけにいかなかった。
「分かったよ、僕が……、お父さんに言っておく。僕がきみを気に入らなかったことにする」
お断りのことばだけは、うまく言えた。
「そうしてちょうだい」
その日の夕方。僕は自室の机に着いて、窓から夕日を眺めていた。空がとてもきれいだったんだ。
「隆夫様」
ノックの音がして、五条が室内に入ってくる。
「お茶をお持ちしました。どうぞ」
僕は喉が渇いたとも、飲み物を持ってきてくれとも言っていない。
「ありがとう」
机の上に置かれたそれを口へ運び、味わう。知らないお茶だった。
「プレゼントは、渡し忘れてしまったのですね」
五条は、僕が置いたティーカップのそばにある、開けられていない箱に気付いたようだった。
「……うん」