8 無茶苦茶な弟子
日の光を遮断するように閉め切られたカーテン。換気のされていない部屋の空気はよどみ、行き場のない埃は雪のように床や棚の上に積もっていく。
休日のどこか陽気な朝も、この家では関係がなかった。
外界と乖離したようにこの大きな家は、若い家主と共に長い間、時間が停止してしまっていた。
だが、いまは少しばかり変化しようとしている。
おかしな同居人が増えたことで、また秒針がゆっくりと時を刻もうとしていた。
『緊急事態じゃ! 目を覚ませ!』
ダークシャドーは翔琉の周りで身をくねらせて訴える。
「……ダメだって……こんなとこで――」
『寝ぼけておる場合ではない! 起きろ! 起きるのじゃああああ! ――ええい、下僕よ! お主も寝ておらんで主人を手伝わぬか!』
足下で寝ていた猫は億劫そうに起きると、翔琉の顔に身体をこすりつけた。
「大胆だな、ホントに……ふふっ」
そんなことも気にせず翔琉は抱き枕に顔を埋め、気持ちよさそうに惰眠を貪っていると、家の呼び鈴が鳴り響いた。
ピンポーン。
『あやつじゃ! あやつが襲来したのだ! 起きろと言うとろうがああああ!』
「……あやつ?」
どうにか翔流が寝ぼけ眼で顔を上げると、呼び鈴を鳴らすボタンが連打され、リズムを刻むように呼び鈴が鳴り響いた。
ピンポン、ピンポン、ピンポーン。ピピピピ、ピンポーン。
「な、なんだ……?」
この家に訪ねてくるのは宅配業者くらいだ。こんな乱暴な来訪の仕方はしないし、荷物は宅配ボックスに置いていってくれる。
近所の住人がゴミの分別や騒音かなんかで怒鳴り込んできたんじゃないかと怖れ、このまま居留守を使ってやり過ごそうと息を潜めていると、
「ごめんくださーい。……変ね。居ないのかな?」
玄関前で聞き覚えのある女の声がして、翔流は緩慢な動作で起き上り、玄関へと足を向けた。
そしてそっとドアを開けると、あの晩に出会った花凜という名の女子高生が居た。
「……なんのようだ」
警戒するようにドアの隙間から顔の半分だけを覗かせると、花凜はにっこりと笑う。
「約束したわよね、魔法を教えてくれるって」
「なんか語弊があるから訂正するが、魔法に関する知識を教えるってことだ」
「でも、あんたは魔法は使えるのよね?」
「多少は……」
異世界に行ってからになるが、大魔法使いをもしのぐ強力な魔法を使う万能な勇者になる予定だ。それに召喚魔法は一応ではあるが成功したんだ、嘘ではない。
「だったら教えて」
「だが、キミも忘れるな、協力するという約束を」
「もちろんよ。異世界についての研究をお手伝いすればいいのよね?」
「そんなところだ」
奇妙な女子高生だ。
魔法について深い関心を抱き、さらには翔流の語る異世界についても不信を抱きながらも協力しようとしている。
「では、いまは取り込んでるので、また日を改めて来てくれ。それでは――」
睡眠を優先してドアを閉めようとするが、花凜は体を押し込んで無理やりこじ開けようとる。
「弟子がせっかく訪ねてきたんだから、家に上げなさいよ!」
「で、弟子になど取った覚えはない!」
「教えるってことは同じことよ、師匠」
「だれが師匠だ!?」
「あんたに決まってるでしょうが!」
「だったら口の利き方に気をつけ――だはっ!」
ドアの押し引きをして小競り合いをしていると、非力な翔流の方が力負けして尻餅をついた。
花凜は勝ち誇ったように見下ろすと、家の中へと侵入した。
「さあ、はじめましょうか、師匠」
弟子としての姿勢がなっていない横暴な花凜は靴を脱いで中へと上がると、リビングへと足を運ぶ。
そして散らかり放題の惨状に「うげっ……」と顔を顰めて鼻をつまんだ。
「まるでゴミ屋敷ね……」
「勝手に上がり込んできて、なんなんだその言いぐさは! 一人暮らしの男の家ってのはね、こんなもんなんだよ!」
「せっかく立派な一軒家に暮らしていてこれだと、家主が可哀想よ」
「いま住んでるのはボクだけなんだから、勝手だろ……」
「だとしたら、元の家主がみたら悲しむわね」
そこを突かれると痛い。
この家を管理するにはあまりにも広く、さらには維持していくのにはお金がかかるため、祖父が他界してからは実家の支援なしでは維持できないでいる。
「そう言うなら、まずはキミに掃除をしてもらおうか」
「はあぁ? なんでわたしがそんなことしないといけないわけ」
「まずは修行の一環として、弟子が掃除をするのは定番だろ」
「しらないわよ、そんなこと」
なんと傍若無人な弟子なのだろうか。寛容な師匠でなければ即刻破門だ。
困惑する男を慰めるようにいつの間にか黒猫はやって来ると、翔琉の足下に身体をこすりつけた。
「猫じゃないの!? しかも黒猫! やだぁ、かわいい」
花凜は黒猫を抱き上げると頬をこすりつけた。
「やっぱり猫と言ったら黒猫よね。カラスは飼ってないの?」
「飼ってるわけないだろ……」
頭の中が魔法で毒されてしまっているから、魔女などが使役していそうな黒猫とカラスに反応を示すようだ。
「ねえ、この子の名前は?」
「ないよ、名前なんて」
「ひどっ……最低な飼い主ね」
「飼い主じゃない。その猫は野良猫で、悪魔の下僕だ。ボクの管轄じゃない」
「なにその独特な言い回し。いいから呼び名くらい付けて上げなさいよ」
便宜上住まわせているだけで飼ってるつもりはないのだが、これに主人であるダークシャドーが反応した。
『名か。今後、眷属が増えるとも限らんし名は必要かもしれんな。翔琉よ、なにか良き名はないか? 特別に命名権をくれてやる』
「そんなの……黒いんだからクロでいいだろ」
「うわっ、安直な名前。愛情のかけらも感じられない」
「うるさいな!」
名前なんて付けたくもないし、愛着も持ちたくない。自分の生活ですら満足に出来ていないのに、生き物のお世話をするなんて不可能だ。
『お主の名はクロじゃ。どうじゃ気に入ったか?』
黒猫はまるで喜んでいるかのように「ニャー」と鳴いて、喉をゴロゴロと鳴らした。
『おお、そうか気に入ったか』
なんだか責任がのしかかってくるようで気が滅入ってしまった。
「っていうか、キミさ。普通、こんな怪しい男の家にまで上がりこんで来るなんて、気は確かか?」
「へえ、怪しいって自覚はあるんだ」
「少しは……」
もちろんある。僅かな常識を持つ自分と異世界好きの自分がいまも葛藤している。
だからこの家に閉じこもり、異世界へ行くことだけを夢見て集中した。だれにも邪魔されず、社会へと振り返らないためにも。
「だったら、麗しい女子高生が家に訪ねて来てくれたことを光栄に思いなさい」
「ふっ……なるほど……キミのようなピッチが異性の家に上がり込むことなど、慣れたことというわけか……」
「勝手にピッチ扱いするな! わたしはただ……魔法を使えるようになりたいの! だからあんたみたいな奴に、仕方なく頼み込んでるんじゃない!」
魔法が使いたい。アホらしくも聞こえるが実に純粋な言葉だ。嫌いじゃない。
「そんなに魔法が好きなのか?」
「そうよ……悪い!?」
「悪いわけないだろ。いまもそう思えることは、すてきだと思うよ」
情熱だけは本物のようだ。
そして同じような価値観を持つ者に巡り会えたことに、感慨深いものがある。
翔流が対面にある椅子の上を片付けて座ると、肯定された彼女は恥ずかしそうに視線をそらした。
「……あんただって、あるわけもない異世界のことを追いかけてるじゃない」
「異世界はある。そして魔法もね」
「どうしてそう言い切れるの?」
彼女になら伝えてもいいのかもしれない。
根本的部分を培ったあの出来事を。
すべてがはじまったあの日のことを。
「それはボクがね、異世界に行った経験があるからなんだ」
いまから十三年前に起きた不思議な体験。
それがすべてのはじまりだった。