5 ここは暗黒街
翔流にとって外出するということは、一般人にとっては旅行に出るのと同義である。
深夜のそれもご近所にあるコンビニくらいしか足を運ぶことがない引き籠もりの男には、ちょっとした勇気が必要だ。
そんなこともあり、黒いパーカーのフードを目深にかぶった翔流は、帰宅途中のサラリーマンやOLとすれ違うたびに猜疑心を強めていった。
『なにをそんなに脅えておるのだ?』
ダークシャトーを連れた翔流は動悸がはやくなり、息苦しそうに胸に手を当てる。
「この先は駅前で人が多い……つまり、ボクの領域外で……とても危険なんだ……」
正確には生活圏外のことだ。交差点を渡れば商店街へとあたり、そこからは駅前だ。繁華街もあり、人でごった返してる時間だ。
『しかし、なにかを得るには危険が伴うこと。それに、あちらからはもの凄い騒音がするぞ。ワシシは気になって仕方がない』
電車の走行音や駅前の繁華街の喧噪だろう。ダークシャドーにとってこの世界はあまりにも未知な物に溢れていて、いちいちすべての物や人に驚嘆している。
「そういえば召喚したのは昨夜だったよね? どうして昼間に出歩かなかったんだい?」
『ワシシは闇に生きし悪魔じゃからな、日が昇っているうちは生き物などの影に潜むことでしか動けんのじゃ』
「それで猫に寄生していたわけか」
『うむ。恐ろしく暇であった』
「だったら教えておくけど、ここから先は欲望渦巻く暗黒街だ。余所者が迂闊に足を踏み入れたとなれば、暗躍の餌食にされる。ここは一旦戻り、計画と準備を整えてから後日――」
口から出てくるのは偏見によって曲解した夜の街。それだけ外に出たくないという強い思いが内包していた。
だがこれが、悪魔の興味をかきたてる結果となってしまう。
『それは――それは非常に興味が出てしまうではないか! ちょっとみてくる!』
「だから、待てってば!」
好奇心旺盛なダークシャドーは忠告も聞かず駅へと向かって行き、翔流もまた歩道の隅を俯き加減で歩き、渋々とその後を追っていった。
そして駅前に着くと、ダークシャドーは途方に暮れたように立ち止まった。
『この世界は実に興味深い。馬も引かずに箱が走り、夜の街は火を灯すことなく明かりを灯し、まるで昼間のように明るい。魔物の姿はなく、人々は異様な生活様式を築き、独自の文明を開花させておる。ワシシはいま、猛烈に感動しておるぞ!』
感嘆とするダークシャドーは人々の顔をのぞき見たり、勝手に店内を見て回ったりと大暴れだ。どうやら一般人は悪魔の姿を視認することができないようで、翔流は声を潜めて会話を続けた。
「キミの気持ちは汲んであげたいんだけど、おとなしくしてもらえないかな」
『なんなんじゃコソコソとしおって。勇者ならもっと堂々とせぬか。ほれ、愚劣な民衆共よ、勇者のお通りじゃぞ、称えよ』
「ボクは……人混みが苦手なんだよ」
『なんじゃ、悪魔を怖れぬくせに同じ人間を怖れるとは、面白いやつじゃな』
「……だろうね」
人の視線が怖い。だれもみていないはずなのに、自分が変なのではないか、この世界で異物なのではないかと自己嫌悪に陥っていく。さらには同じ年頃の社会人や学生をみて強烈な劣情にさいなまれていった。
翔流にとっては外は戦場であり、人間は魔物よりも恐ろしい生き物である。つまり駅前はまさに魔物の巣窟に等しかった。
「それよりも、本来の目的を忘れてないか?」
『わ、忘れてはおらんぞ! ――おっ! なにかここら辺から魔力らしき力を感じるような、感じないような……』
「ここにあるということなんだね!?」
『ん、ああ……たぶんではあるが……なんか近いような、近くないような……』
人目もはばからずとまではいかないが、勇気を振り絞って翔流は周辺を探索する。
店と店との隙間や電柱の陰に街路樹、ゴミ箱の中に自動販売機の下、通行人に不審者をみるような目を向けられながらも探し回った。
「どれだ……なにかないか……軍手、まさかこれが聖なる……いや、違うな」
けれど、この暗黒街で働く清掃員と市民のモラルの高さからかゴミも少なく、石ころ一つ転がっていない清潔な街を保っていた。
『翔流よ。言いにくいことなのだがな……ワシシの勘違いだったのやも――』
懸命に異世界を求める男の姿に、ダークシャドーがわずかばかりの罪悪感から、真実を伝えようとしていると、スマホを片手にカラオケ店から出てきた長身痩躯の若者と翔流は接触してしまう。
「――ッ!」
さらに若者の持つスマホがアスファルトに落下し、運悪く追い打ちをかけるかのように翔流は踏みつけてしまった。
気まずい空気が流れ、翔流は拾い上げて手渡し「ごめん……それじゃ」と、その場を後にしようとするのだが、人見知りの態度が高慢な態度と捉えられ、若者は激高する。
「おい! なんだよ、その態度! 舐めてんのか!?」
「べつに……壊れてないようだけど……」
「そういう問題じゃねえんだよ! まずは謝罪だろうが!」
「でも、ぶつかってきたのはそっちからで……」
「ああぁ!? おまえの方からだろ! おい、弁償しろ。弁償して詫びろ!」
さらに若者が恫喝するように弁償請求までしてくると、仲間と思しき私服を着た男性二人と女子高生三人が「なに? どうしたの?」「なにかあったのか?」と遅れてカラオケ店から出てきた。
翔流にとって、まさに人間という魔物が仲間を呼び集めたような状況だ。非常にまずい。
「こいつがいきなりぶつかってきたんだよ!」
「だから、それはキミが……」
「しかも、おれのスマホを壊しやがってよ!」
話しが誇張された上で完全に敵と見なされ、弁解することもできずにいると、ダークシャドーが間に立ち、翔流を擁護する。
『余所見をして、ぶつかってきたのはそっちではないか! ワシシの目は誤魔化せんぞ!』
弁護してくれるダークシャドーに同調したいのは山々だが、この悪魔の声は他者へと届くことはない。
「てめえ、聞いてんのか!?」
血気盛んな若者はダークシャドーを透きとおり、翔琉に詰め寄って来ると、胸ぐらを掴んで締め上げてきた。
だれか警察を、と助けを請うように通行人へと目を向けるが、薄情なことに素通りしていくだけだ。さすがは冷酷な暗黒街。人の心までもが闇に閉ざされてしまっている。
『我慢がならぬ! 翔流よ、この者たちを惨殺してやるがいい!』
見かねたダークシャドーがけしかけるが、翔流は首を振る。
「……ボクは一般市民に手を上げることはできない」
「あんっ!?」
いきなり脈絡もないことを話し出す翔流に若者が目を眇めた。
『己に制約を課しているというわけか……その慈愛の精神、さすがは勇者じゃ。だがな、守るべき者に傷を負わされては元も子もない。ここはちっとばかし、魔法ででも懲らしめてやってはどうじゃろう』
「……無理なんだ。そもそもボクの魔法はどれも強力で、ここら一帯を火の海に包むことになってしまう」
『なんと!? そうであったか……では、お主が手を煩わせることはない。ここはワシシがこやつらにお仕置きをしてくれよう』
翔流とダークシャドーのやりとりは傍目からでは独り言にしか映らず、若者たちは痛々しいものでも見るような目を向けていた。
「お、おい……そいつなにと喋ってんだ」
「やだ……キモい」
だけど、ひとり浮かない顔をして距離を取っていた、ショートボブの髪型をしたバンギャ風の女子高生が「魔法?」と呟いて、呆然としていた。
翔流は片方の眼を隠すように手で覆うと、意味深長に警告する。
「これ以上、ボクを怒らせない方がいい……。あまりに度か過ぎるようなら、異界より召喚されし闇の力が黙ってはいない」
「はあっ?」
大の大人が漫画やアニメに出てくるような台詞を吐き、格好をつける姿はあまりにも滑稽で、若者たちは唖然としていた。
「やばいクスリでもやってんじゃねぇの……」
「ちがうよ。これが中二病ってやつじゃない?」
嫌悪するような目から、憐憫を含んだ目へと変わっていく。
恐ろしかろう。残念ながらこれは中二病という次元の症状ではなくなっている。徹底して自己の世界観を堅持し続けている翔流は、年齢的にも中二病の先にある領域にまで達しようとしていた。
『では、苦しんでもらうとしよう』
翔流の目の前でダークシャドーは、蛇が蜷局を巻くように若者へと巻き付くと、彼の耳元で聞き取れない呪詛のような言葉と共に白い息を吹きかけた。
若者は何かを感じ取ったのか、ぶるぶると身震いすると、立ちくらみを起こしたように蹌踉めく。
そして――
「……もういいや。なんかこいつ相手してると気分が悪くなってきた……」
常識が通用しない相手なのだと諦め、翔流を解放すると踵を返した。
「大丈夫? 顔色が真っ青だよ」
「風邪かな……なんか寒気がする」
怒りで赤みがかっていた顔色が、いまは死人のように青白くなっている。
若者たちは体調悪化を訴える彼を労りながらこの場を後にするのだが、ただ一人、さきほどからこちらのことを気にしている様子だった、ショートボブの女子高生だけは、ちらちらとこちらを気にして何度も振り向いていた。
こうしてようやくことなきを得ると、ダークシャドーは翔流の元へと喜悦を滲ませながら戻ってきた。
「なにをやったんだい? 意外と地味なようだったけど」
『呪いとは、粛々とおこなうものなのじゃ』
炎や雷のど派手な魔法で若者達が恐れ戦くのを期待していたが、悪魔なだけに、やはり陰湿な術や魔法が得意なのだろう。
「それで、どんな呪いを?」
『死の呪いじゃ』
「えっ……」
『あやつは今晩にでも腹を下して、糞と吐瀉物にまみれながら無様にも息を引き取るであろうよ。グッヒヒヒッ』
「それはやり過ぎだ!」
なかなか親しみやすいから忘れていたが、ダークシャドーは狡猾な悪魔だ。人間に対して容赦がない。
『なぜじゃ?』
「殺人になるだろ」
『そんなことはどうでも良いではないか。それよりも、どうせだったらこのワシシの力を悪用してみようとは思わんか? お主の力とワシシの力を合わせれば、金も名誉も女も好きなだけ手にすることができるぞ』
「そうなの……?」
『ワシシの力を利用して、ある物乞いは豪商にまで成り上がり、そしてある大臣は王位を簒奪したこともある』
まるで王道ファンタジーじゃないか。実に興味深い。
『だからどうじゃ、ワシシと悪逆の限りを尽くしてはみぬか? そしてこの世界を手中に収めるのだ』
まさに悪魔のささやき。甘言によって欲望をかき立て、人を惑わそうとしている。
けれど生活水準の低い引き籠もりには、あまりにも想像しがたい野望だった。
「そんなことはしないよ」
『むっ、なにが気に入らぬ』
「そういう力は最後に悲惨な結末を迎えてしまうのがお決まりだしね」
人知を超越する力によってこの世界に革命を起こせようとも、翔流にとってはなんの興味もないことであり、望んだ展開ではなくなってしまう。
あくまでも異世界に行くことこそが、渇望してやまない夢だった。
『……堅実で慈悲深い勇者じゃのぉ』
「ボクは異世界に行ければそれでいいんだ。この世界の半分をもらっても嬉しくなんかない。ダクシャンだって異世界に還りたいんだろ?」
『もちろんじゃ』
「だったら、この世界に居る間は殺生はしないこと。いいね?」
『なぜそんなことまで、指図を受けねばならぬのだ!』
「いいかい、これは取引だ。もし断るようならボクを敵に回すことになる」
『……ワシシを消すことなど容易いということか……』
「約束を守ってくれればここでの生活は保証するよ」
なにをどうみてもダークシャドーの方が戦闘能力では遙かに上回っているが、この悪魔と自称勇者は互いの力量を大きく見誤っていた。
『うぐぐぐぐっ……わかった……不本意ではあるが従おう』
不承不承としてだが解呪することに納得し、どうにか若者の命は救われた。
こうして翔流とダークシャドーは利害関係を築き、共同生活が始まろうとしていたのだが、このやりとりを遠目から観察している者が居ることに、このときはまだ気づきもしなかった。