2 悪魔と自称勇者
日が沈み辺りが暗くなると、男は活動を再開する。
睡眠時間およそ十六時間、活動時間八時間という非常に燃費の悪い一日がはじまると、まずは賞味期限切れの菓子パンや駄菓子で遅すぎる朝食を摂った。
それからパソコンの前でだらだらと微睡みながらスマホを弄り、暇を持て余してからようやくガレージへと足を運ぶ。
そしてガレージへとやって来て唖然とした。
「……なんだこれは」
本の山や燭台が倒れ、棚からは工具箱や段ボールなどが落下して散乱していた。
寝ている間に地震でもあったのかと不審に思いながら、消えかかった魔方陣に視線を落としていると、その隙を突いて背後から大きな影が襲いかかろうとした。
だが、男は右手で顔を覆うと不敵に笑い出す。
「フフッ、ハッハッハッ! ……居るのはわかってるぞ!」
この発言に影は驚いたように急旋回し、物陰へと隠れた。
さらに男は親指と人差し指の間から片目を覗かせ、声を張り上げる。
「すべてを見通す、我が神眼を欺くことなどできない! 隠れても無駄だ、おとなしく出てこい!」
静まりかえるガレージ内。
その静けさに耐えかねたかのように彼は相好を崩すと、「なんてね」と一人芝居を終えて燭台を立て直す。
「いい年してなにしてるんだろうな……死にたくなってくるよ……」
冷静になって自分のしていることの痛々しさに虚しさを覚えているときだった。
「んっ?」
なにやら背後に気配を感じて振り返ると、大きな影がさっと棚の方へと横切っていった。
「なんだいまのは……もしかして、本当になにかいるのか……?」
男は身構えると、燭台を武器にして及び腰になりながらガレージの奥へと足を進める。
すると――
一匹のまん丸く太った黒猫が棚の陰から姿を現した。
「ね、猫?」
ふてぶてしい黒猫は床に転がって背伸びした。まるで自分の方が家主だと言わんばかりに。
「シャッターを開けたときに入り込んだのかな……」
ガレージ内を暴れ回り、散らかした犯人はこの猫だろう。きっとシャッターを開けたときに忍び込んで息を潜めていたのだ。
シャッターを少しだけ開け、出るように促す。
「ほら、出ていけ、小さき魔物よ! 神聖な領域を穢すとはなにごとだ! しっしっ!」
威嚇するように手で払いながら、出るように促していると、
『ワシシの存在に気づくとは、只者ではないようじゃな。ヒッヒッヒッ』
愉悦を滲ませて嗤う声がどこからともなくした。
飛び跳ねるように翔琉はガーレジ内を見回すが、どこにも人の姿はなかった。
「だだだ、だれだ!? 姿を現せ! 警察を呼びますよ!」
『姿なら見せておるだろうが』
猫が悠然とした足取りで翔琉の足下へとやって来て見上げた。
「ね、猫が喋ってるのか……!?」
こんな漫画みたいなことが起きるはずがないと頭ではわかっているが、どう考えても猫から声がする。
『そやつではない。こやつは依り代であり従僕。ワシシの本体は影じゃ』
黒猫の弱々しい小さな影が肥大していき、二本の角のようなものが生えた平べったい影が、壁へと大きく映し出された。
「なななななっ、なんだ!? どうなってんだ!?」
非現実的なことが起き、腰を抜かす。
影絵のような原理かとも思ったが、ガレージ内には自分以外に人はいない。投影するような物もなく、つまりは影単体で動いている。
『どうした? お主はワシシのことを見抜いておったのではなかったのか?』
「それは……」
冗談のつもりで幼稚な一人芝居をしていたら、本当に野良猫と人ならざる異形の者が侵入していた。動揺するのは当然だ。
だがこれでは相手の術中に嵌まってしまうと、男は咳払いをして平静を取り繕い、さらには虚勢を張った。
「もちろんだ……む、むしろ、貴様がここに来ることは想定済みさ」
『なんじゃと!?』
「そろそろ気づいてもいいんじゃないのか、これが巧妙に仕掛けられた罠であったと!」
すべてがはったりではあるのだが、影は鵜呑みにしてくれた。
『ぐぬぬっ! やはりこれは罠であったか……。お主、一体何者だ!?』
待ってました言わんばかりに翔琉はまたしても顔に手を覆い、格好をつけながら声を張り上げた。
「異界の救済者であり、混沌の闇を払う光の勇者! 我が名は井沼翔琉!」
『勇者じゃと……』
実際は無職の引きこもりだが、翔流は清々しいまでに平然と身分を偽った。
「それでキミは……信じがたいことだが、悪霊かなにかか?」
『悪霊などと言う下賤な輩とは一緒にするな。ワシシはダークシャドーと言って冷酷無比な悪魔じゃ。人間は魔物と一括りにするがな』
「マモノ……それってあの魔物?」
『正確には悪魔じゃ』
「悪魔って……嘘だろ」
『嘘などではない! 正真正銘の悪魔じゃ! 恐れおののくがよい!』
威嚇するように悪魔は影を大きく膨らませるが、この男は恐れ戦くどころか、嬉しそうな笑みを浮かべていた。
「なら、取りあえずは成功したってことなのか……そうか……マジか……ハハッ、ハハハッ!」
ようやく苦労が報われた。恥ずかしげもなくひとりで異世界転移の儀式をする毎日が、ようやく実を結んだのだ。
『な、なんなんじゃ……悪魔に遭遇して笑っている人間を見たのは初めてじゃぞ……』
魔物と対峙したとなれば脅えるのが常だが、翔流は神々しいものをみつめるようなキラキラとした輝いた瞳で悪魔を見つめていた。
「そうだろうね」
『ワシシら悪魔はな、人を惑わして魂を喰らっておるのじゃぞ!』
「まあ、悪魔なんだから、そうじゃないとね」
危険性を知ってもなお、飄々としている翔流に悪魔が気味悪がる。
『お主……怖くはないのか?』
「なにを言ってるんだ、歓迎するよ。ボクの元にやってきてくれて、ありがとう」
恋い焦がれていた異界へと通じる魔物。やっと悲願が成就しようとしているのだから、人を欺き魂を喰らう悪魔であろうと、この世界に顕現したことに喜ばずにはいられない。キスのひとつでもしてあげたいくらいだ。
一方、人間に歓待されたことのないダークシャドーは困惑していた。
『なぜじゃ……悪魔に遭遇したら憑依をされて殺される恐れもあるのだぞ……なぜそうも平気でいられる……』
「キミがボクを倒すことなんてできるわけないだろ」
『なぜそう言い切れる!』
「そんなの、ボクが遙かに強いからに決まってるじゃないか」
己を特別な人間だと錯覚した者のなせる、根拠もない自信だ。
だが、この救いようのない思い違いのおかげで翔流は救われた。
平和ボケをした世界の人間を知らぬダークシャドーは、下手な手出しはしない方が身のためかもしれないと慎重な判断を取ったからだ。
『その剛胆さ……真の勇者だからなせるのか……。では、やはりお主がワシシを召喚したのだな?』
翔流は魔方陣に視線を落とす。
謎は残るが、どうやら昨夜に執り行った儀式が成功していたのだろう。召喚される、あるいは転移するつもりだったのが、悪魔を召喚してしまった。これは失敗ではあるが成功への大きな一歩でもある。
「そうみたいだね。だからこれからはボクのことを〝マスター〟と呼んでくれ」
『な、なんじゃと?』
「本当ならサキュバスとか可愛い女の子が良かったけど、この際だから受け入れるよ。さあ、呼んでごらん。マスターって」
『……断る』
「恥ずかしがり屋さんだな〝ダクシャン〟は」
『待て……だれがダクシャンじゃ?』
「キミだよ。ダークシャドーだからダクシャン」
『勝手に愛称をつけるでない!』
「悪くはないと思うけど、気に入らなかったかな?」
ダークシャドーは弾むゴムまりのように伸縮しながら抗議する。
『そうか……そうやってワシシを隷属させようというのだな。そして従わぬようなら消すつもりなのであろう!』
「それは、そっちの態度次第かな」
『ぐぬぬっ……』
そんなことができるかはわからないが、翔流はあくまでも上から目線だ。
悪魔を手懐けて使役する。そんな展開も悪くはないと考えはじめていた。
「それじゃ、準備するから待ってて」
『なんのじゃ?』
翔琉は急いでガレージを出ていくと、なにやらその準備をしはじめた。