9 過去、現在、エンタメ、夢、現実
『ワシシはそんなこと聞いておらんぞ!?』
静観していたダークシャドーが声を上げる。
「まずはキミに伝えておくべきだったね」
「え?」
右斜め上を向いて話す翔流に、ダークシャドーを視認できない花凜は首をかしげた。
「子供の頃、ボクは姉さんとともに川で溺れて死にかけたんだ。ボクの不注意によって姉さんを巻き込む形になって、川の流れに抗う術もなく、沈んでいった。
そして気がついたら、ボクはもうひとつの世界、異世界に居たんだ」
「……そんなこと言われたって、信じられるわけないでしょ」
「だろうね。ボクも正確には答えられないけど、幽体離脱のように意識だけが行って、観測してたって言った方が正しいのかもしれない。しばらくして目覚めたら、病院のベッドの上だったんだ」
石造りの荘厳な街並み。異国情緒溢れる衣服をまとった彫りの深い顔立ちの人々。
まるで自分が大気にでもなったかのように様々な角度から異世界を見て回った。
そしてあの景色と経験が、いまもまだ深く脳裏に焼き付いている。
「それってただの夢なんじゃないの?」
「違うと断言できる。あれはまるで別の次元から観測してたみたいに干渉することは許されなかったけど、夢のような曖昧な感覚じゃない。しっかりと自我もあり、すべてが鮮明で時間の流れも明確に感じられていた」
「信憑性がないわね……」
この話をして信じてくれたのは亡くなった祖父くらいだったが、異世界を天国かなにかと捉えてしまっているようだった。
花凜も、この話を聞いてもまだ疑っているようだ。
「そういえば、お姉さんはどうなったの?」
翔流は目を伏せる。
「キョウちゃんは……姉さんは……いまもまだ行方不明のままだ」
「行方不明って……」
「亡くなったわけじゃない。遺体や遺品もなにひとつみつかってはいないんだから」
「それってもしかして……」
「ああ、姉さんは異世界で生きている」
神隠しのような水難事故だった。
皆は生存を諦めて死を受け入れてしまったが、鏡子という屈強な女は容易く死ぬような器の持ち主ではない。
それに姉弟という強い繋がりを持つ翔流にはわかっている。
異世界でいまもなお、鏡子が生きていることを。
「……異世界の研究をしているのって、お姉さんを捜索するため?」
「もちろんそれが大きい」
鏡子と合流し、〝約束〟を果たさねばならない。
そのことだけを一心に、いままで頑張ってきた。
「でもさ、異世界がどんなところかは知らないけど、危ないんじゃない?」
「そこは祝福を受けるはずだから問題ないよ」
「祝福ってのはなに?」
「いわゆるチート能力。異世界に招かれるということは宿命であり、そういう特殊能力的なものを与えられるんだ」
同情的だった視線から、蔑んだ目をして花凜は言葉を紡いでいく。
「でも……喚んでもいないのに自ら召喚されに行くのよね……それってちがうんじゃないかな……」
求められて召喚されるのではなく、自らの意志で異世界転移しようとしている。
つまりは需要がないのに供給しようとしているのだ。女神の恩寵によってチート的な能力を授かるかは怪しいところだ。
そこで翔流は立ち上がると、床に積み上げられていた本の山から数冊の文庫本を手に取って戻ってきた。
そしてその本をテーブルの上に並べていく。
「もちろん最悪な展開も憂慮して、リアル志向路線の〝異世界往来貿易学〟や〝現役自衛官が教える異世界でのサバイバル術〟〝経済ジャーナリストが提唱する異世界経済学〟などを読破済みだ」
シミュレーションはできている。もしもの時はなにをすべきであるか、どうしていくべきか、眠る前の妄想でしっかりと対策済みだ。抜かりはない。
「……それって漫画やライトノベルの話しよね?」
「バカにしてはいけない。この著者達は客観的な視点から専門的な知識で物事を捉え、価値観の違いまでをも考察して描いている。
なかでも、〝流浪のギターマン、異世界で歌う〟という本はだね、主人公が路上ライブ中にトラックにはねられ、異世界に飛ばされてしまう。そこからギター一本で現世にある著作物を流用して神にまでのし上がっていく話なんだ。もしものときはこれもまた使えると思うんだよ」
花凜は呆れたように眉間を押さえる。
「失礼なこと訊くかもしれないけど、師匠って歳はいくつ?」
得意な分野の話で饒舌になっていた翔流は言葉を詰まらせる。
「その……二十三だけど……」
「社会人?」
「……クリエイターっていうのかな……そんな感じのことを……」
「業務内容は?」
「サイトを作成してブログを書いたり、動画を作ったり……色々と……」
「収益は?」
「いまは……種まきの時期っていうか……芽吹くまでは時間がもう少し必要で……あ、でも根強いファンは居たんだよ。物資を送ってくれることもあったんだ」
広告収入をもくろんで作成したサイトの管理と動画投稿くらいだ。異世界や行方不明事件、それに怪事件などを扱ったオカルト系のサイトとして開設し、動画の方もごく一部の人達にはそこそこ好評だったのだが、ネタが尽きると趣味である漫画やアニメ、フィギュア、インスタント食品のレビューなどを扱うようになった。
するとなんのサイトだか方向性がわからなくなり、人が離れて廃れ、いまではもう何ヶ月も更新をしていない。
「それって無職ってことよね」
「はっきり言うね……まあ、どちらかといえば、そっちよりになっちゃうのかな……でも条件には合うんだ。異世界へ行く者としての資格としては……」
圧迫面接を受けているかのように息苦しく、劣情にさいなまれる。
久しぶりに窓を開け、空気を入れ換えたい気分だ。
「なんでこの世界で上手くいっていない人が、異世界でうまくやっていけるっていうの? 腕力もわたしに負けるくらい華奢だし、生活力があるようにも見えない。とても生き抜いていけるようには思えないんだけど」
さらに彼女は冷静な分析で、非情な現実を突きつけてくる。
「そこはなんとかなるんだよ……」
「言語の壁は? まさか異世界の人達が日本語を話すの?」
「……チート能力に含まれる場合もあるけど、たいていは通じるものなんだ」
「小さな島国でしか使われていない日本語を、異世界の人達が公用語として使ってるっていうの? それもまたずいぶんと都合がいいことね」
「通じなくてもボディーランゲージでなんとかなるし……」
「言葉も話せず、文化も分からず、もしかしたら容姿も異なる世界で、現地の人達に受け入れられると思う? 下手したら奇人として扱われて、殺されちゃうんじゃない?」
この女子高生は外見の印象とはちがい、現実的に物事を捉えて指摘してくるため、翔流は追い込まれていく。
「人種とかは様々な種族が共存共栄している世界だから寛容なんだよ……。それに、いまは通訳になってくれる導き手がいるからなんとかなる」
ダークシャドーは『ワシシのことではなかろうな?』と顔を指さし、翔流は小さくうなずいた。
「どう考えても一週間以内にのたれ死ぬと思うけど」
「そんなこと、うちに眠る力が覚醒するかもしれないだろ! それにチート能力さえ授かってしまえば万事解決することだ!」
「チート、チートって、そんな能力がホイホイ授かれるなら、べつにだれでもよくなっちゃうじゃない」
「苦労したりするのは古いんだよ! それにもしもの時は、現代人としてのボクの知識や経験が生かされるときがくるんだ!」
「たとえば?」
「娯楽や医学や料理とか、そのちょっとした知識が向こうでは貴重になる」
こちら側の世界で生きてきた経験や情報そのものが、向こうでは貴重なスキルとなる。
「ひとつ気になるんだけど、異世界がこちらよりも文明の進んだ世界ってことはないわけ? なんか話を聞いていると、異世界人は無知蒙昧な未開人みたいに聞こえてくるんだけど」
「ボクがみた世界は生活様式から察するに、中世後期くらいの文明レベルのようだった。だからそこは大丈夫なはずだ」
ちょっとした魔法工学的なものや高度なロストテクノロジーがあるかもしれないからそこは注意が必要だが。
「どちらにしてもよ、その人達にだって文化やそれぞれの価値観があるわけなんだから、師匠みたいなコミュ障はすぐに迫害されて、奴隷か殺されちゃうかの二択だと思うけど。それに現代人のわたしたちからすればきっと野蛮な人達ばかりなんだろうし、なにをされるか――」
「さっきからキミは否定ばかりして、なんなんだ! 文句があるなら出て行ってくれ!」
現実を持ち込んで夢を破壊していこうとする女子高生に声を荒げた。
「都合が悪いからって怒らないでよ」
「怒ってない!」
「怒ってるじゃない」
「だから、怒ってないって!」
翔流のスキルだけでは大昔にタイムスリップをしても生きてはいけないだろうし、そもそも現状すでにまともに生きていけてないのだから、なにかしらの恩恵や奇跡がなければ生き抜くことは不可能だ。
「仮に、もし異世界で死ぬとわかっていても行くつもりなわけ?」
「行くに決まってるだろ」
宇宙飛行士が宇宙を目指すように、たとえそこに危険が伴おうと、夢にまで見た地へと辿り着けるのならば、この命を賭してでも夢を叶えなければならない。
「そんなにこの世界に不満があるんだ」
「もちろん、不満はあるさ……ボクには彼女も可愛い幼なじみも、まして友達すらもいない。漫画やアニメの主人公はなんだかんだ文句を言いながら結局はハーレムを築いて、ラッキースケベが満載だったりするのに、ボクはなんのイベントもないまま生きてきてしまった……」
「それって自業自得だし、そもそも比較するところを間違ってない……?」
なにか漫画やアニメのように運命的なことがあると期待して生きてきたが結局はなにもなかった。登校中に美少女と曲がり角で接触してしまうことも、転倒して女の子の胸を揉んだり、股間に顔を埋めてしまうことも、だれかに好意を寄せてもらうこともなかった。
ただ、漫画やアニメに毒され、そしていまもまだその毒に侵され続けている。重症だ。
「でも、それは仕方がないことなんだ。ボクは本当ならこの世界に居てはいけない存在だから……だからなにもかもが上手くいかなかった」
「どういう意味?」
「本来は、ボクは姉さんと一緒に異世界へと召喚されるはずだったんだ……それがなにかの不手際で、この世界にボクだけが取り残されてしまった」
溺れたあの日、鏡子と一緒に異世界へと旅立つはずだった。それが本来の運命だったはずなんだ。
「……そのせいで、この世界に居ても自分は異物なんじゃないかって疎外感にとらわれる……。違和感しかないんだ……姉さんのいないこの世界が、まるでパラレルワールドにでも迷い込んでしまったかのように」
「違和感ね……」
「過去と現在の自分との差からってのもある……でも、いまがまるで現実感がない。悪夢でも見ているかのように……」
姉を失ってから、この世界とはなにかが狂い始め、なにをしていても虚無感にとらわれ、未来を描くことに行き詰まってしまった。そして空想の世界に引き籠もるように、異世界のことを追い求めていた。
悲観に暮れて生きてきた男を憐れむように花凜はみると、大きく息を吐いた。
「なんとなくだけど、師匠のことが少しわかった気がする」
「それならいいけど」
「つまり師匠はさ、こじらせた異世界好きのシスコンってわけね」
「なにもわかってないだろ!」
いや、見事的を射ていた。