0 プロローグ
すべてのはじまりは、破天荒な女の子であった井沼鏡子が起因していた。
鏡子の行動や言動は凡人には理解しがたく、地元では変わった子として有名で、家族でさえも頭を悩まされるお転婆娘だった。
ただ決して悪い子ではなく、むしろ正義感の強い善良な子供だ。
人とは違った視点から物事を捉え、どんなことにも果敢に飛び込む。
でも、実直な彼女を形成する人格の根幹は、他人の目からは突飛であった。
そして奇怪な行動が目立ち始めたのは小学生の頃からだ。
ある日、ランドセルを背負うことを止め、祖父からもらい受けた登山用のザックを背負って通学するようになった。
他にも多くの奇怪な行動や言動が目立ち、親と教師が三者面談の席を設けて諭したのだが、彼女は大真面目にこう答えた。
――〝異世界〟に行っても、困らないように備えてるんだ。
漫画やアニメの影響を強く受けた鏡子に、大人達は異世界などないと窘めるのだが、彼女はかたくなに受け入れようとはしなかった。
皆に嘲笑われても、彼女はこの世界ではなく、虚構の中に存在する異界を捉えていた。
両親は男勝りな鏡子をお淑やかな女の子にしようと躍起になった。
髪は伸ばし、女の子らしい服を無理矢理着せ、ピアノやバレエなどのお稽古事に通わせようとしたが、彼女は拒絶した。
それらは異世界で生きていくのに必要ないからと。
それでもなにかを学ばせたいと思っていた両親は鏡子と話し合った上で、水泳と古武術で礼儀作法を中心に学ばせることとなった。
鏡子はこれには前向きだった。
水泳や武道なら異世界でも役立つからと。
なにはどうあれ、こんな馬鹿げた考えも成長すれば分別がつくであろうと、大人達は鏡子を温かく見守ることにしたのだが、彼女の思いが潰えることなどなかった。
寧ろ増していた。
そしてそれが仇となって事故は起きた。
※
茹だるような暑さが続く夏のことだ。
盆休みへと入ると、家族総出で隣県にある山に囲まれた自然溢れる父の実家へと訪れるのが、行事となっていた。
そこで鏡子の行動はいつも以上に活発になる。
早起きして農作業や家畜の世話を手伝い、祖父の狩猟にまで同行した。更に暇があればひとりで山には入り、自然の物を使って様々な工作をしていた。
大自然の多くの困難を享受し、己を磨き上げていくことは、鏡子にとって異世界で生きていく上で必要な試練だった。
一方、この生活に不満を持っていたのは鏡子の二つ年の離れた、血のつながりのない弟、翔琉だ。
父の再婚相手である新しい母は都会育ちのお嬢様だった。連れ子である翔琉も同様で、彼にとって規則正しい田舎の生活は退屈なものでしかなかった。
一日中、携帯ゲーム機に没頭しては食事にもほとんど箸を付けない。テレビはご当地番組ばかりで面白味もなく、外に遊びに出ても年寄りばかり。近くにはコンビニもなく、あるのは大自然だけで、娯楽が致命的なまでに欠けていることを不満に思っていた。
弟の翔流は鏡子とは対照的で、扇風機しかない古びた家よりも、エアコンの効いた涼しい部屋に引き籠もって、怠惰に夏休みを満喫していたかった。
そんな我が儘放題な弟にみかねた鏡子は、翔流を無理やりに外へと連れだし、山の中へと連れて行った。
女でありながらも強靱な肉体をつくりあげようと日々精進していた野人のような姉と、惰性に生きてきた脆弱な弟では体力に差がありすぎ、命の危機を感じた翔流は、姉の隙をついて河原にある橋の下へと身を隠した。
そしてそこでまた携帯ゲームに興じるのだった。
夏空の下、額から汗を流しながらゲームに興じていると、冷たい風が吹き始め、辺りがどんどんと暗くなってきたことにも気づかなかった。
雷鳴が轟き、ようやく周囲の異変に気づくと、ポツリ、ポツリと雨が滴り落ちた。
雨をやり過ごそうと雨宿りしていたが、風は強風となり、雨は豪雨となった。雷は稲光を光らせ山の山頂に落雷し、川はみるみると増水していった。
さらにこの荒れた天候は一時的に大きな雹が降り、翔流の脚を釘付けにさせた。
頭の中で警鐘が鳴り、小康状態を見計らい、走って家まで帰ろうと決意したときだった。
どこからか悲痛に泣き叫ぶ獣の鳴き声がした。
鳴き声がどこから聞こえているのかと耳を澄ませ、川の上流へと目をこらすと、一匹の子犬が下流へと向かって流されてきていた。
雹に驚いて逃げてきたのだろうか、首輪とリードを付けた子犬は必死になって犬かきをしていたが、連日降った雨の影響で増水した川の流れは速く、無惨にも流されていった。
すぐさま救助することを決意し、長い枝を見つけると子犬に向かって精一杯に伸ばした。
引っかけてたぐりよせようと考えたが、枝の長さは全く足りず、子犬は目の前を無情にも流されていく。
彼はすぐに平たい材木をみつけると、全身を使って放り投げようとしたのだが、
「これに掴まれええええええっ!? あっ、あっあっ、ああああ!?」
鈍臭い少年は勢い余って材木と共に、濁流の川へと自らの身を投げてしまうという末路。
さらには子犬はどうにか運良く岸へと流れ着くと、体をぶるぶると振るわせ、こちらのことなど気にすることなく走り去っていく。
川の流れは激しく、さらにはカナヅチであったこともあり、息継ぎすることもままならない。服は水分を含んで纏わり付き、なにか掴まるものを求めて手足をばたつかせた。
そして声に出して助けを呼ぶこともできず、半狂乱状態に陥っていると、捜し回っていた鏡子が溺れる弟を発見した。
鏡子は弟が窮地に陥っていることに気づき、躊躇いもなく川へと飛び込んでいった。
悪戦苦闘しながら翔流の元へと泳ぎ着くと、潜水して沈む弟を抱き上げた。だが、パニックを起こしている翔流は、鏡子に藁をも縋る思いでしがみつき、二人はどうにか呼吸をすることで精一杯だった。
鏡子だけならもしかしたら岸へとたどり着くことができるかもしれないが、〝勇者〟を志す者が大切な弟を見捨てるような非情な決断を下すはずもなかった。
それどころかむしろ、なにかの天啓を得たかのように、どこか嬉々としているのが狂気の沙汰である。
「大丈夫! きっとこれは伏線だ!」
鏡子は弟を励ますが、言葉にはなんの説得力もない。
だいたい伏線ってなんだ?
「これが異世界への扉が開かれる序章なんだ!」
なにを言ってんだ、この姉は。
そんなツッコミをいれる余力も翔流にはなかった。
自然の力に抗うことができず、ただ救いを求めて祈りながら、その思いと共に流されていくだけだった。
「わたしにはわかる! これはイベントで、ここから……ブクブクブクッ……」
笑みを浮かべる鏡子と錯乱状態の翔流は、力尽きて川の中へと沈んでいった。
だが意識が混濁し、目の前が暗闇に閉ざされようとしていたとき、川の底で小さな光を発見した。
その光はまるで川の中に浮かぶ満月のように美しく、目をこらしてみると、その光の先には見たこともない別の世界が広がっていた。
二人は必死になってその光へと手を伸ばす。
すると光はその姉弟の想いに応えるかのように、優しく包み込んでいった。
※
わん