7 そんなことはない人生相談
タタンタタン、タタンタタン。
高架橋の下を、電車が通り過ぎて行く。
レストランからの帰り道、俺は途中の高架橋で足を止め、その欄干にもたれかかり、下に横たわる線路をボンヤリと眺めていた。
もう、何もかもが終わった。
弥生にフラれてしまった。
俺はこれから何を糧に生きて行けばいいんだ?
彼女が居なければ、俺がこの世に存在する理由などどこにもなくなってしまうじゃないか。
そもそも俺みたいなちっぽけな人間が、こんな汚れちまった世の中で生き抜いて行ける訳がない。
「そんなこたぁないっす」
あるんだよチクショウ!チクショウ!
そもそもどうして俺は『そんなこたぁないっす』としか言えない口になっちまったんだ⁉
そうだ!夕べ夢に出て来たあの変なじいさんのせいだ!
全てはあのじいさんが悪いんだ!
あのじいさんは自分の事を神様だなんて言ってたけど、そんな訳ねぇだろ!
また俺の夢に出て来たらブン殴って締めあげて、この変な呪いみたいな状況を元に戻させてやる!
そう心に固く誓っていた、その時だった。
俺の隣で高架橋の欄干によじ登り、うつろな目で下の線路を眺める男の姿が目に入った。
その男は二十歳くらいの若者で、紺のスーツを身につけている。
見た所サラリーマンらしく、仕事を終えてちょっと時間があるので、高架橋から飛び降りようとしているようだ。
いやいや、そんな訳ないだろ。
帰りにちょっとスポーツジムに寄って行くのとは訳が違うぞ。
それにこの男、完全に生きる気力を失っているように見える。
まさに今の俺と同じような状態だ。
まさかこの男、ここから飛び降りて自殺しようとしてるんじゃないだろうな?
おいおい、冗談じゃないぞ。
俺は自殺しようとしてる人間を説得して思いとどまらせようとするほど優しい心を持ち合わせちゃいないが、目の前で人が死ぬのを目の当たりにするのはいかにも寝覚めが悪すぎる。
それに電車に飛び込んで死んだら、乗客を始め、鉄道会社や自分の家族にどれだけの迷惑がかかると思ってるんだ?
どうせ死ぬならもっと金のかからない方法を選ぶべきじゃないのか?
世の中は産まれるのにも金がかかるし、生きて行くのにも金がかかるし、死ぬ事にすら金がかかるんだぞ?
ちゃんとその辺の事も考えているのか?
いや、考えてないだろうな。
この男の頭にあるのは、とにもかくにも死ぬ事だけなんだろう。
それが突発的なものなのか、前々からずっと考えていた事なのかは分からないが、ここで自分で思いとどまる事はなさそうだ。
そんな事を思っているうちに、正面からそこそこのスピードで電車が近付いてきた。
それにタイミングを合わせるように、男は足にグッと力を込め、ひと思いに高架橋の欄干から飛び降りようとした。
が、
その襟首を俺がムンズと掴み、ひと思いに後ろに引っ張った。
「うゎぉっ⁉」
というマヌケな声とともに、男は背中から高架橋の方にすっ転び、その下を電車がいつも通りに通過して行った。
しばらく男は状況が飲み込めずに茫然としていたが、俺に自殺の邪魔をされたのだと悟ると、立ちあがって俺に食ってかかって来た。
「ど、どうして止めたんだ!ぼくは今まさに死のうとしていたのに!ぼくなんか、死んだ方がマシな人間なんだ!」
そうか、それは悪かったな。
確かにお前は死んだ方がマシそうな人間だ。
お前が死のうが生きようが、俺には全く何の支障もない。
でもな、俺の目の前で人に死なれたら、こっちも寝覚めが悪いんだよ!
という想いを込め、俺は口を開いた。
「そんなこたぁないっす!」
今の俺が『そんなこたぁないっす!』としか言えない事は、俺も嫌というほど分かっている。
が、この状況でそんな事まで気を使う余裕が今の俺にはない。
俺だって弥生にフラれて大概ヤケクソな気分になっているのだ。
もう何がどうなっても構わない。
するとそんな俺のヤケクソな言葉を聞いた男は少したじろぎながらこう言った。
「そんな事は、あるんだよ。ぼくなんか、何の取り柄も無くて、無能で、仕事をしてもまるでダメで、会社に居ても何の役にも立てない。かといって人づきあいも下手で、上司にコビへつらってうまく取り入る事もできないし、要領よく世渡りしていく事もできない。それにイケメンでもないし、話も面白くないから彼女もできない。生きていても何もいい事がない。ぼくにはこの世に生きていていい理由なんかひとつもないんだ!」
そうだな。見た所、お前はいかにも仕事ができなさそうだし、覚えも悪そうだ。
それにお前みたいに自分の欠点の事でイジイジウジウジ嘆いているようなネクラな男についてくるような女も居ないだろう。
確かにこのまま生きていてもいい事はないかもしれない。
よし、死ね。
ただし、俺の見ていない所で。
と、いう想いを込め、俺は目一杯叫んだ。
「そんなこたぁないっす!」
すると、それを聞いた男は何を勘違いしたのか(ある意味勘違いではないのだが)、一転して目を輝かせ、急に元気を取り戻した様子でこう言った。
「そんな事はない、ですって?あなたは見ず知らずのぼくに、そんなにも力強くそう言ってくださるんですか?つまりそれだけ僕には秘められた能力があって、それはこれから少しずつ開花していく。そしてゆくゆくは誰もが認めてくれるくらいバリバリ仕事ができるようになって、女性にもモテモテになって、使いきれない程のお金持ちになれると、そう言ってくださるんですね⁉」
言ってねぇよ。
そんなこたぁ一言も言ってねぇよ。
俺はこの時ばかりは心の底から『そんなこたぁないっす!』と言ってやりたかったが、勝手にそう言って勝手に立ち直ったその男は、
「ありがとうございます!あなたのおかげで本当の自分の姿に気づく事ができました!ぼく、これからも頑張ります!」
と言い、踵を返してさっさと走り去ってしまった。
そんな彼を呼び止める気力もなく、俺はポカンと口を開けたまま、彼の背中を見送った。
まあ、自殺を思いとどまってくれただけでもよかったと考えるべきなのかもしれない。
あれだけ自分にうぬぼれる自信があるなら、もう自殺しようなんて考えは起こさないだろう。
とりあえず、帰ろう。
そう思った俺は、ぼんやりした頭で家路についた。