3 そんなことはない商談
客室のソファーに座り、長机を挟んで脇毛、いや、和木下さんと向かい合う俺。
正直俺は、人生最大と言ってもいいピンチに陥っている。
何しろ今の俺は『そんなこたぁないっす』か、語尾に『こたぁないっす』を付けたカタコトの言葉しか発音できなくなっているのだ。
こんな状態でまともな商談ができるのだろうか?
いや、無理だ。絶対に無理だ。
だがやるしかない。
五十肩商事のナンバーワン営業マンの実力を見せてやる。
密かに闘志を燃やす俺の胸の内を知る由もなく、和木下さんはにこやかな笑顔を浮かべながら口を開いた。
「どうも、ムナゲカンパニーの和木下です。最近の悩みは鼻毛が伸び過ぎる事です。今も結構伸びてるでしょう?」
ムナゲのワキゲはハナゲで悩んでいるらしい。
ワキゲのハナゲがムナゲで悩んでいるのか、ハナゲのムナゲがワキゲで悩んでいるのか実にややこしい所だが、それはあまり深く考えないでおこう。
とりあえず俺は、至って自然な口調で言った。
「そんなこたぁないっす」
ここでこの言葉を言っても何ら不自然ではないだろう。
それが証拠にワキゲさんは気をよくした様子で話を続けた。
「そうですか?なら安心しました。いやぁ、それにしても五十肩商事さんにはいつもよくしていただいて本当に助かっています。五十肩商事さんは今もどんどん業績を伸ばしていらっしゃいますよね?これも襟糸さんの営業手腕による所が大きいんじゃないですか?」
「そんなこたぁないっす」
「またまた御謙遜を。まあそれはさておき、さっそく商談の方に移りましょうか。五十肩商事さんの方で開発された、お家で簡単にパンナコッタが作れるマシン。その名も『お家で凝ったパンナコッタ』の製造を、我が社にお任せいただけるという事なのですが、そういう事でよろしかったでしょうか?」
和木下さんがそう言ったので、俺は頷きながら返事をした。
「そんなこたぁないっす」
「え⁉それは我が社にお任せいただけないという事ですか⁉我が社に何か不備がありましたか⁉」
「そ!そそそそんなこたぁないっす!」
自分の失言に気付いた俺は、慌てて首を横に振って声を上げた。
しまった、違うタイミングで『そんなこたぁないっす』と言ってしまった。
今の俺はほぼこれに近い言葉しか言えない状態なんだ。
声を出す時には細心の注意を払わなければならない。
そう思った俺は気を引き締め直す。
一方俺の言葉を聞いた和木下さんはホッとしたように言った。
「そうですか。ではこのままお話を進めてもよろしいんですね?ところでこのパンナコッタを作るマシンですが、ちょっとアレンジしたパンナコッタなんかも作れたりするんですか?」
そうなのだ。
このマシンは『お家で凝ったパンナコッタ』という名前からも分かるように、材料をそのマシンに入れるだけで、あらゆるパターンのパンナコッタを作る事ができるのだ!
が、今の俺ではその説明を事細かにする事は不可能なので、とにかく、できるだけ話の流れをおかしくしないように、最大限の注意を払いながら、口を開いた。
「ぱ、パンナ、こたぁ、ないっす・・・・・・」
パンナこたぁないっすって何だよ⁉
完全に意味不明じゃないか!
これじゃあまた和木下さんに変に思われてしまう!
が、意外にも和木下さんは感心したように言った。
「パンナコッタライスですか!そんなアレンジもできるんですね!」
どうやらこの人にはそう聞こえたらしい。
そんなアレンジある訳ねぇだろと心底思ったが、それは口には出さないようにした。
すると和木下さんはこう続けた。
「ちなみにそれ、おいしいんですか?」
それに対して俺はキッパリと答えた。
「そんなこたぁないっす」
「で、ですよね!何かあんまり合わなさそうですもんね!ですがそんな遊び心も入れるあたり、流石は五十肩商事さんですね!」
「そんなこたぁないっす」
「またまた御謙遜を!」
何だろう、これで会話が成立している事が逆にイラつくのだが。
その後和木下さんが勝手に話を進めてくれて、五十肩商事とムナゲカンパニーの商談は無事にまとまったのだった。