六、独りになって
どれくらき歩いたか、気付けば日は陰り辺りは薄暗くなっていた。
慌てて周りを見廻し、枝が横に張り出した木を見つけて登る。太い枝に腰を落ち着け、更に二又に分かれた枝に行李を橋の様に掛け置くと、ほっと息をついた。その上に持ったままだった風呂敷包みと脇差を置く。
そのまままたぼんやりしてしまい、ふと見上げれば葉の間から月がみえた。まだ満月には足りず、左側が少し欠けている。
(どうして私、山の中になんているんだろう…)
今朝、店を畳んだばかりだった。
それすらも現実感が付いてきていないのに、なんだか夢の中に放り出されてしまったかのようだった。
疲れも空腹も遠く、ただ月だけが冴え冴えとしていた。
***
目を開けると、既に辺りは白み始めていた。
幹に背を預けてうとうとしていたようだった。目を擦り、前に手をつくと籠の感触がした。
(絖太郎様の…)
千律はようやく絖太郎から渡された行李に手をつけた。留め具の麻紐を解き蓋の籠を持ち上げる。
一番上に入っていたのは竹の水筒と葉に包まれた塩むすびだった。
水筒の栓を抜いて水を一口含む。目を閉じて体に染み渡るのを感じていると、お腹の音がぎゅぅと鳴った。最後に食べたのは昨日の朝だ。
手に少し水をかけて手拭いで拭くと、葉包みを膝にのせて手を合わせた。
「いただきます」
おにぎりは大小不揃いで、絖太郎が慌てて用意してくれたのが伺えた。
啄むように一口かじって、大きく二口、それから頬張って黙々と食べた。
包まれていた三個をぺろりと平らげ水筒を半分ほど飲み干して息をついた。
妙に夢現だった頭がシャッキリしてきた。改めて行李の中を確かめる。
水筒があった横には小さい麻袋が三つ入っていた。一つはは金平糖だった。食べ物を有り難く思い横に避けてる。二つ目は火打石で、もう一つには一朱金がじゃらりと入っていた。その量はおおよそ二十枚ほどで、一度両手を合わせてから、それも横に避けた。
そしてその下には手拭いが五枚程と、男性用の着物と袴があった。女性の一人旅を危ないと思って気遣ってくれての事だろう。
麻混じりの安布ながらも染めは丁寧で、縫製もしっかりしていた。色も濃い千歳緑と暗い栗色で、山に溶け込みやすい色合いだった。
「さすが、絖太郎様だわ…」
こと衣に関して彼の右に出るものは見た事がない。慌てていても洒落た気遣いに絖太郎への尊敬の念を深くしながら、一緒に入っていた襦袢を広がると、ゴロリと重い音がした。緑色のそれは。
「…きゅうり?」
手に取って、裏に返して、逆さにしてもきゅうりは胡瓜だ。
その瞬間、冷静で抜け目のない絖太郎が胡瓜片手に右往左往している姿が頭に浮かんでしまい、思わず吹き出してしまった。
「ぷっ…は、ははっ、お、おかし…」
ひとしきり笑ったら、びっくりするくらい元気が出てきた。
「着替えようかな」
いつまでも山中に留まる訳にはいかない。
木から下りると軽く辺りを見回してから帯を緩めた。襦袢も入っていたものと替えようと襟を寛げてから、ふと自分の胸が目についた。
着ていた襦袢を脇差で三寸ほどの太さに長く割いて胸に巻いた。
袴を着付けた後、割いた襦袢の残りを更に半分に割いて、脇差の鞘にぐるぐると巻きつけた。流石に銀の百合柄は目立つ上女性的過ぎる。
それを腰に差し、着ていた着物と帯、余った紐を行李に入れた。それから鍋と雑穀が包んである風呂敷も行李に仕舞った。
水筒には麻紐が付いていたので腰紐に結えつける。
結い上げたいた髪も解き一つに結び直す。沢山入っていた手拭いは全て胴回りに仕舞い、少しでも逞しく見えるようにした。
草履もぬぎ、入っていた草鞋に履き替える。
旅装を整えて空を見上げれば、もう日は高く登っていた。
(このまま舘浜へ…)
わかっている。絖太郎を疑っている訳ではないし、彼の行いを無下にするのも本意ではない。でも。
(本当にこのまま、なんの話し合いもしないで、寿人様の前から居なくなってしまっていいの?)
実は何か誤解があるかも知れない。冗談だったんだよ、とか。
寿人は優しい人だった。
結婚式の日、千律は彼に言った。商売の事はまだまだ勉強中で、無骨な私はきっと足を引っ張ってしまいます、と。だけど寿人は言った。
『僕もまだまだ未熟なんだ。一緒に頑張って黒瀬屋を盛り立てていこう』
それからは学び教わる千律を導いてくれて、失敗したら補ってくれて。
千律も隣に立ち続けられるように努力を重ねた。
お義母様が亡くなるまで、共に悩み、共に笑い、お互いに信頼する関係であった。と、千律は思っていた。
自分の格好を見下ろす。
(この姿なら直ぐに私とはわからないかも…)
寿人の真意が少しでも知りたい。
そう思ったらもう駄目だった。
慎重に山を戻り、警戒しながら街道の近くまで下りてきた。木の影から街道へ出ようと、通行人が途切れるのを待っていると、話し声が聞こえてきた。
「やっぱりもう町には居ないんじゃないのか?」
「街道にも居なさそうだ。一度美富屋に戻ろう」
体格の良い男二人組だった。
彼らが行けば街道へ出られそうだ。そう思った瞬間。
「黒瀬の旦那も呑気だねぇ。ツレが逃げたってぇのによ」
ビクリ、と体が固まった。