五、直ぐに町を出る
「鍋にお味噌入れて貰えてよかった…」
千律は買ったばかりの土鍋を丁寧に風呂敷に包んだ。味噌を買うつもりだったのに、味噌壺をうっかり家に忘れてきてしまった。というのも、まだ荷ほどきをしていないのだ。
それと雑穀を購入してきたので、今夜は簡単に味噌がゆにしよう。
本当はどこのお店も小売はしていないのだけど、黒瀬屋でいつもお世話になっていたので、挨拶がてら訊いてみたら安く融通してくれたのだ。
どこのお店も「頑張ってね」と言ってくれて、千律は大分前向きになれた。
明日からは日払いの仕事を探して、野菜や魚を手に入れられるといいんだけど。
そんな事を考えながら、新居と言うにはボロな長屋へ到着する。引戸を開けようとした時後ろから大きい声で呼ばれた。
「千律さんっ!!」
「絖太郎様?今日は呼び止められてばか…えっ!?」
話しながら振り返って、千律は驚いた。
「絖太郎様!すごい汗ですよ!どうしたんですか?お待ち下さい、手拭いを…」
袂に手を差し込もうとして、その手をがしりと絖太郎に掴まれる。
「も、いい…いいから、はぁはぁ…きいて」
「絖太郎、さま?」
ただならぬ様子に千律は抵抗せず、絖太郎に向き直った。暫し待って息が整うと絖太郎は言った。
「寿人がいた」
「!!どちらに!?私、迎えに参りま…」
「君を売る、話をしていた」
絖太郎が視線を鋭く、千律を見据えた。
「逃げろ」
え、待って。話が、理解できない。
「…うる?え?」
うる、ってなに。
茫然と立ち尽くす千律の前で、額の汗も拭かずに絖太郎は背負っていた行李を下ろした。
「これ、背負って」
行李に括り付けた背負紐に千律の腕を通す。帯に引っかかるが無理矢理背負わせる。
「もう町を出た方がいい。捕まって、寿人が金を受け取ってしまったら…逃げられないぞ」
遊郭からの脱走は罪だ。法令で裁かれてしまう。そして何より、遊郭は二度と逃げないよう過剰な折檻をする。
たが、まだ間に合う。売られる前なのだから。
絖太郎は断りもせずに長屋の引戸を開けた。
「絶対持っていきたいものはあるか?」
暗に、またここに戻って来られるか分からないと言っていた。
部屋の中には半分程しか荷の入ってない箪笥、空きっぱなしの押し入れに薄い布団とお膳、後風呂敷包みがいくつか置いてある。箪笥の上には小さな仏壇があって、その前に脇差が置かれていた。漆塗りの鞘に銀箔で柳と百合の柄が入れられていた。
「あの脇差…嫁入りの時のか。持って行った方がいいな」
下駄のまま上がり手に取って振り返ると、未だ茫然としている千律がいた。
絖太郎はズカズカと近寄り、千律の手首を引き寄せて目を合わせた。
「千律さん!!」
「こっ…絖太郎様、私、私…」
「…すまない」
「えっ?」
「うちで匿ってあげたかった。…だが、うちでは直ぐに居場所がバレてしまうだろう。多分ご実家も一緒だ。直ぐ捕まってしまう。逃げて悪評が立つのもわかっている。だが、俺にはこれしかしてあげられない」
そう言って絖太郎は脇差をぐいっと千律の手に握らせた。
切羽詰まった絖太郎の顔を見つめてから、手の中の脇差に視線を落とした。
つるりと艶やかで銀の百合が冴え冴えと輝いていた。一生使う事はないと思っていたが、守り刀なので手入れを怠った事はない。刃が曇ると災が寄ると母に言われていたからだ。
「千律さん?」
脇差をみたまま固まる千律に絖太郎は気遣わしげに声をかけた。
「あ…すいません。なんだか、考えが散じてしまって。もう、どうしたら…」
狼狽を隠せない千律の手を両手で包み込み、絖太郎は言葉を続ける。
「いいかい、町を出たら街道を通らず、横の山に入りなさい。街道を確認しながら山中を進んで舘浜港まで行くんだ。舘浜港は外国の船が止まるから人も多い。きっと見つからないし、行きたい所があれば船で行ける」
千律は静かに頷いた。
何も考えず、考えられず、ただ言われるがままに町を出た。
***
千律の遊び相手はいつも兄達だった。
剣の稽古も一緒にしたし、修行の山登りも付いて周った。
初めて山に置き去りにされた時は散々泣きながら、兄の消えて行った方へ足を動かした。日が落ちきる直前に探しに来た母が千律を見つけた。目一杯抱きついて、抱きしめてくれて。背負われて、揺れる安堵感の中、眠りについた。
次の日起きたら、兄達の顔が青痣だらけだった。父が相当怒った様で、腫れた顔が可笑しくて、涙を流して笑ったものだった。
今、着物の裾を絡げて、息を切らし、無心で山に分け入っていると、何故かあの頃の笑い声が耳に蘇った。