二、閉店いたしました
「皆さん、今日までお勤め頂きありがとうございました」
千律は深く腰を折った。
「十六でこちらに嫁ぎ、先先代が興し先代が大きくした黒瀬屋を私の代で潰してしまい、言葉もありません」
「っ奥様……!」
かよは涙を浮かべて首を左右に振った。彼女は一番若く、黒瀬屋へ奉公に来てくれてまだ一年しか経っていなかった。
「ご自分を責めなさるな。奥様は良くして下さいました」
そう千律に声を掛けたのは初代から黒瀬屋に勤めてくれている、一番古株の総爺。丁稚、会計、目を悪くしてからは下足番として黒瀬屋の盛衰を静かに見つめ続けてくれた。
それに会計の譲、お手伝いのはな。この四人が沈みゆく呉服屋に最後の最後まで残ってくれていた。鼻の奥がツンと痛むのを息をのんでやり過ごす。
潔く終わらせて正解なのか、もう少し借財を重ねてでも転機を呼び込むべきだったのか、悩み過ぎた千律にはどちらが良かったのか判断する事が出来なかった。
「最後のお給金、少なくて申し訳ないです」
「いいえ…いいえ奥様!新しい奉公先を口利きして頂いて感謝しております」
「ぞ、ぞうれす…ぐすっ。わ、私みたいな者にまで良くして下さって…。奥様と、離れるの、ズズッ辛いですぅ〜」
「おかよちゃん、泣かないで。その気持ちが嬉しい。ありがとう」
袂から手拭いを出してかよの涙を拭う。皆にしてあげられる事が、本当にもうない。ないのだ。別れは仕方のないことだ。
「奥様、…その、旦那様は…」
譲が遠慮がちに訊ねてきた。
(あの人はもう20日も見ていない…。でも、そんな事いったら心配してしまうよね)
「お店と屋敷を手放す事は伝えてありますから…」
千律は困った様に笑うしか出来なかった。
「さ、皆さん。遅くなってしまいますよ。本当に今までありがとう。達者でね」
ひとり、またひとりと荷物を抱えて門をくぐって行った。
静まりかえる屋敷を仰ぎ見る。中庭に立ちぐるりと首を巡らせる。色付いた紅葉が美しい。
その向こうの空っぽの大きな仏壇に目が止まると涙が出た。先先代と先代、その奥様達の位牌は粗末な仏壇と共に引越し先に移してある。
「お義母様……申し訳、ございませんでした…うっ…」
***
千律の実家は武家だった。
東朝州の中央部にある矢凪領。その東部に広がる農村を代々管理し、徴税していたのが千律の実家である青柳家であった。中抜きや横流しなど勿論せず、領主からも領民からも信が篤く、清く優しい家だった。
だが千律が産まれた年から長雨が多く不作が続き、徴税が下降を始めた。数年は青柳家が私財を投じてなんとか賄うも、千律が五才の時にはそれも厳しくなり、とうとう徴税率が五割を切った。
毎年不作を申告していたが、これに付け込んで中抜きの疑いをかけられる始末。領主の言い添えもあり疑惑は晴れる事となるも、結局は「徴税業務を怠った」と言われ東部の土地管理の任を解かれる事になってしまった。
残り少ないお金でなんとか矢凪の城下町へ引越し、門番の任を与えられるも収入は半分以下。武家としては大変貧しい暮らしをしていた。
千律には姉が一人、兄が四人いた。十二離れた姉は城下町に越してくる一年前に遠くに嫁入りした為に、千律の遊び相手は何時も兄達であった。
一緒に剣の稽古をして、野山を駆け回り、「しゅぎょうだ!」と称して山に置き去りにされた事も何度かある。(勿論兄達は拳骨を落とされた)
千律は家事手伝いをしながら、剣を片手に野草や木の実を集めて家を助ける事に不満を持った事はなかった。しかし両親は千律が年頃になるまでに結納が用意出来ない事に頭を悩ませていた。
そんなある日、ほろ酔いの父が上機嫌で帰宅した。「縁談が来たぞ」と。千律が十四の時であった。
父はかつての地位もあり、領主と仲が良かった。千律は知らなかったが、度々お忍びできた領主と飲み歩いていたようだった。
その事に気付いた呉服屋の黒瀬屋が縁談を申し込んできたのだ。「結納が用意出来ないから…」とやんわり断るも、身ひとつで来てくれて構わないと言われた、と。
黒瀬屋には競合店の雪越屋があった。雪越屋は領主御用達としての箔があった為、黒瀬屋も領主への渡りが欲しかったようだった。
両親が自分の為に悩んで、少ないながら蓄えていてくれた事は知っているし、家に余計な負担がかからないならと千律は二つ返事で了承した。
それからは目まぐるしい毎日だった。最低限にしか修めてなかった勉学を復習し、さらに商人に必要な知識を詰め込んだ。花嫁修行として黒瀬屋に足繁く通ったが、教わったのは勿論商人のいろはと目利きだった。婚約者となった跡取りの寿人はとても優しく穏やかな人柄で、解らない所は丁寧に教えてくれた。
この人とならきっと嫁入り後も上手くやっていけるだろう。
そして十六の年、千律は結婚した。