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その思考の淵

 憂鬱な空だ。紅の月がそこにあるが、果てがどこまでもなく広がっているその暗黒の夜空が、あまり好みじゃない。じゃあ好きなものがあるかという話になるのだが、ああそりゃいっぱいあるのさ。だが語るべきはそこじゃない、とその人はまた憂鬱になった。時と場合を選んで対峙しなければならない対話や、生活、この思考でさえも、何かに支配されているような錯覚を覚える。最近のことだ。昔からじゃない。ああ、朗らかに生きていた頃があったはずの自分が、なぜ今はこんな風になったのだろう

 じゃあ、今が間違いで、過去が正解だったのか?

 正しいとは何で、間違いとはなんなのか。俺はそれを知らない。なぜなら俺は何も考えずに生きてきて、今途端にこの奈落のような思考に包まれてしまい、牢屋に閉じ込められてしまったかのような絶望を堪能している最中……堪能……? 俺は、楽しんでいるのだろうか? この絶望を? いや、違う、これはそうか、希望なのではないか?

「紫色の世界って知ってる??? そこをずっと旅してきたんだ。人が気持ちを落ち込ませていた時に、ふと覗ける深淵。その深い沼をずーっと見つめていると、いつかはそこにたどり着けるんだよ。ずっと長居しすぎると、魔物になっちゃうんだって」

 今は俺は真紅の月を見上げている。風は生暖かくて、自動販売機が静かに稼働している夜。ここは紫色の世界などではない。俺は深淵から眼を背けて生きてきたから、そんな世界になど踏み入れることはないのだ。だが、なぜ、こんなにも、暗い、仄暗い、絶望の淵に佇んでいるような思考回路を漂わせているのだろう。ああ、知っている。これは鬱という奴だよ。ちょっと、最近忙しかったからな。

 人は立ち上がり、もうひとり、そばにいた人間へと拳を振り下ろす。その拳が深々と頬に突き入って、その人間の混乱するような、突拍子もない出来事への対処不能なただの反射のような、そんな表情が垣間見えたことが、少しだけ彼の心を潤わせた。

 なぜ、こんな野蛮な真似を?

 わからない。月が真紅だったからかもしれない。

「さて、今君は他人を傷つけた。自分のストレスを自らで処理することが不可能だったから、他人に頼ったんだ。ならば、借りを作ったということにもなるんじゃないか? もちろん、暴力は犯罪だし、悪意が込められているからしっぺ返しを受けても仕方がない悪どい行動だ。でも君のその行動は、まだ尊敬に値するよ。もっとくだらない悪意はこの世にいっぱい蔓延していると思うんだ。そのようなこの世界を、傷つけてみたいと思っているような気がする。本当は、もっと救いある世界になった方が住みここちがよくなることは知っているんだよ。だから人々は世界がよくなるように努力している。知ってた? 世界の貧困に苦しむ人間というものは、恐ろしいほどに減少しているんだよ。不幸な人間の数も間違いなく減少しているんだって。本当かな? 人はネガティブな方向に考えてしまう癖があるんだそうだけど、それも本当かな? なんで、人は疑うんだろう。簡単なことは疑わないのに、難しいことは疑わないこともあるのに、なんで人は信じてしまったことはずーっと信じてしまうんだろう。陶酔してしまった存在をずっと愛し続けることは可能なのだろうか。それは尊いのかい? それとも、愚か者の所業かい」

 人は知っている、人間は知っている、我々は知っている。

 愚かなるは人間であり、そして創造主であると。

 愚かであるが故に、人はこんなにも世界を楽しめるのだと。

 最後には死んでしまうから、楽しもうとするのだと。

「なあ、最大に楽しいことってなんだろう。最大級に気持ちの良いことってなんだろう。最大に不幸なことってなんだろう。最大の苦しみって、恐怖、ってなんだろう」

 そんなものを知ってどうするんだ?

「知れば、先に進めるからだ。我々は停滞していては、成長できないから。愚か者がより深き愚かなる世界を覗くためには、成長が不可欠だから」

 その逆転した望みが本当に叶うかどうかはわからない。

 でも人は、先に進みたいとは思わない。ここで停滞していたいと願っている。愚かなる世界を優れた、間違いのない、幸福しかない世界へと変貌させたいと心の奥底から願うことは間違っているだろうか。我々は、いつかは滅びる。ならば、死ぬ前に最高の世界でひたすらに善きことだけに満たされていれば、それは素敵な……。

「それは夢ですらないよ。妄想としか呼べないね。人は実現可能なことを描く時は夢と呼称するが、君の望むものはそれはかなわない。だから、それを妄想と名付けるね」

 人は叫ぶ。この考えを、正義を、妄想などとくだらない呼び名をつけないでくれ、と。

「じゃあ君は私の考えを愚弄しないとでもいうのかな。君と私の考え方は違う。当たり前だね、別の人間だもの。私の正義と君の正義、私の欲望と君の欲望、私の妄想と君の妄想。一体どれが正しいなんて、誰が決められるんだい。世界は、社会は、いい方向へと向かっていると知識者はいう。だが、いい方向に向かう正しい世界こそが本質かい? 貧困に苦しむ人がいない世界は正しいのかい? くだらないことを言わない世界は正しいのかい。素敵な物語のような理想がいっぱい蔓延する、妄想が現実化する、夢がいつかは叶う、そんな世界が正しいのかい?」

「そう思うよ。人が思い描く理想は、すべてが正しいと思っている。それを叶えるために努力して悪いものは排除し、愚か者は消していかなければ、世界は良くならないよ。そのために人は努力するんだ。夢を叶えるために成長し、いつかは妄想を夢へと転じさせることも可能だろう」

「素敵だね。きっと、そんな君に賛同してくれる人はいっぱいいるだろう。人は信じているものを疑わない。人は自分の中にある欲求に素直である。自分の望むものだけにあふれた世界をいつかは望み、やがて死ぬ時に、ああよかったなあ、と思いたがる。お葬式ではみんなに見送られて、良い友人たちに供花してもらいたい、と心の奥底から願っているかもしれない。ああ、それでいい。君はそれでいい。大多数がそうであるから、世界はこうやって幸福へと向かって、邁進してきたのだから。進化してきたのだから……」

 その人は紫色の世界へと再び堕ちていった。

 私は目覚めたように真紅の月を見上げたが、そこにはもうただの満月があるだけだった。殴り飛ばしてしまった人は頬を抑えながら私を睨んでいたから、「人違いで殴ってしまいました。とても恨んでいた人間と間違えたのです、本当にすみませんでした。謝罪の念としてこれを受け取ってください」とお金を渡した。殴られた人は、私を睨みつけながら立ち去っていった。

 人はひとり取り残されて、また満月を見上げる。

 そこに、なんの影もない世界に、ひっそりとしたその人の、孤独をのぞき見ながら。

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