『再生する思想の体系についての一考察』
『再生する思想の体系についての一考察』
⑴
簡単なことを簡単にやることで、ある一定の生活における効果が現れる。
それは善悪で捉えられるものではない。ただ、そこに不可視のものであれ、一定の報酬があれば、その効果は意味を持つ。
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しかし、同じことの繰り返しでは、一定の成果があれども、人間としての発達はない。
そして、寧ろ何かに破壊された現象の持つ怒りのエネルギーが、元居た場所への再生衝動となる。
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それでは、再生とは負の要素があって初めて、起こりうる現象なのだと言えよう。
つまり、我々は破壊と再生を繰り返す訳だが、そこには一つの思想が見えると思われる。
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ここにある思想とは、結局、人間とは一つの虚無があるだけなのだということだ。
そして、我々は、その虚無に意味を付加しているだけなのである。それでは、しかし、虚しいだけだ。
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だから、人間はその思想に体系を持たせ、実質的な、利己的な、或いは創造的な可視化された名前を付ける。
そのことが、恐らくは、言葉の始まりであったのだろうと思われる。
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この再生する思想の体系は、ここに着地点を見出すが、その点だけではなく、また、人々は不可視のものに価値を見出すであろう。
そして可視化され、また不可視を求める。
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結局はこの流れが、宿命というものだということだ。
宿命とは、人が死ぬ最後に気付く、自分の世界における、或いは私的歴史に於ける、自己の意味である。
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人間は、その意味が何かを感じさせることを知っているから、敢えて、意味を付けたがらない。
しかし、その意味の先があるなら、様々なる意匠において、輪廻でも天国地獄でも一回性でもいいので、先の世界を知りたいと思うのだ。そういう意味が、つまりは、その人が迎えた、結果だと言えよう。
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以上は、或る空想の内に、何かを思い出して、思想を用いた文章である。
尚、この類の文章は、まだいろいろ書きたいと望んでいる。