12話「薫死す」
また、異世界に朝がやってきた。
荒廃した世界に、さえずる鳥の声はない。見上げれば青空には太陽が二つ、嫌でもここが俺の存在していた世界とは違うことを思い知らされる。
こうして目を開けたら全てが夢で、俺は机に体を預け押しつぶしたノートとペンの痕を頬に刻みながら目覚める。そんなありふれた夢オチでも、今ならいいかなと思える。
でも今はこれこそが、俺達の現実だ。どこまでも非情で、慈悲の欠片もない。生きて帰るために戦う、俺達の現実。
「……暑いな」
真上から俺を照らす日差しを、手の平を広げて遮る。掲げた腕から流れる汗が重力に従って……本当に重力かどうかはしらんがとにかく腕から肩口、胸元へと流れた。
今日もどこまで移動できるか。せめてこの暑さで生ける屍達もまいってくれていることを期待するしかない。
「あ、あの……おはよう」
俺の手の平越しに、気弱そうな少女が顔を見せた。紫さんだ。
手に持ってるのは二人分の朝食。なるほどこれを届けに来てくれたんだな、優しい。
「ああ、ご飯かな? ありがと」
「う、うん……どう、ぞ」
上半身だけ起き上がらせ、紫さんから缶詰の赤飯……かなんかを受け取ると、俺はなるべく刺激しないよう柔らかく微笑んでありがとうの気持ちを動きで示した。
それが伝わったかどうかはさておいて、なぜか紫さんは立ち去る気配もなく俺の顔を凝視している。いや、もうちょい下らへんか?
「あの……薫君、って」
「はい」
「鎖骨きれ……あっ!? な、なんでもな……その、あぅ……は、早く食べてね!」
あ、逃げた。この暑さであの機動力、やはり紫さん侮れないな。
それはそれとして、鎖骨が何だって?
「……あ」
そういやヤンキーその2の一件で忘れてたけどシャツのボタン開けっ放しだったな。やだ恥ずかしい、ホストでもないのに。
「いっそこのまま鬼畜眼鏡にキャラ変するか」
「あれ、アンタってコンタクトだったっけ? 何よ、ゲームのし過ぎ?」
おはようの一言もなく絢香が俺の独り言に続く。いつからそこにいたお前。
いや、俺の索敵能力が低くなってるだけか。
「違うわい淫ピめ。ひん剥いて首輪はめて町内一周させるぞ」
「…………」
絢香は目を逸らし、顎に手を当て熟考。
その数秒後、少し目を細めながら頬を赤くした。
「何まんざらでもなさそうな顔してんだ……変態なの?」
「ち、違うわい馬鹿!」
「痛ったい!」
分かってたけど殴られた。分かってたけど。
「全裸徘徊は女の子だろうとリアルじゃ通報案件だからやめろよな」
「しーなーいーかーらー!」
「ニュースにでもなったりしてみろ、彼女をよく知る友人の証言とかでこんな事する子じゃなかったんですけど……とか真顔で言える自信ないぞ俺。絶対笑う」
「ざっけんな!」
絢香の鋭い拳の一撃を、咄嗟のガードで俺は凌ぐ。大分格闘戦も慣れてきたぞ、完璧と言っていい。うっかり右手で防いでしまった以外は。
俺は鋭い痛みに悶絶し、右腕に手を添えながら体を震わせた。
「ぐおお……やるな」
「さすがに自業自得だからねこれは」
「分かっている。しかしなんだ、ここに来てから俺お前のサンドバッグになってないか」
「そのうち防御力上がるかもしれないわよ」
その前に俺が死にそうだ。
なんて話してばかりもいられないな、さっさとご飯食べて準備しよう。岩山に昨日なかった3つ目の太陽が輝いてる、このエリアはもっと暑くなりそうだ。日が昇りきらない内に移動しないと。
「って、違うアレは!」
目が眩む輝きは日差しの反射。よく見れば薄っすらと人型のシルエットが重なっている。
つまりアレは、太陽なんかじゃない。
あと何秒余裕がある?いや、それを考える時間も惜しい。俺は周囲を見渡し、仲間の位置を確認。
俺と絢香以外は皆、日陰に入っている。彼らの位置は恐らく奴からも死角。となれば、
「絢香!」
「きゃ!?」
俺は右手で絢香を抱き寄せ、立ち上がりながら近くに転がった岩石に飛び込む。
続くように発砲音。絢香の足があった場所に土煙が立つ。
「スナイパー! 10時方向、3つ並んだ岩の影だ! 聖司!」
「了解!」
この事態すらも想定していたのか、聖司の銃はすでに準備されていた。
聖司はMk18を構え、俺の指さした方向に制圧射撃を行う。そうだ、当てなくてもいいから撃ち続けて次弾を撃たせないようにしてくれ。どのみち距離は100メートル以上離れてる、俺達の銃で当てきれるほどの精度が期待できるのは限られてるからな。この判断で間違いはないはず。
「か、薫君! 私の銃なら……」
「駄目だ! 俺が先導する、みんな続いてくれ!」
月宮さんの提案を即却下し、俺はなるべくスナイパーの射角に入らないよう岩を盾にして、逃走ルートを進みながら考え移動する。まさか昨日散々苦しめられたこの地形に助けられるとはな。
これでスナイパーを排除できれば安心なんだが、まだ銃に扱い慣れてない月宮さんにそれを任せるわけにはいかない。
「っく、装填が……誰かあと一人援護をお願いします!」
「……わた、私がやります!」
いくら単発で撃って弾を節約しても、聖司のMk18は30発しか連続で発射できない。再装填の合間に弾幕が止めば、スナイパーにつけ入る隙を与えることになる。
だから俺がこの距離では頼りない拳銃でなんとかしようと思っていた矢先だった。紫さんが名乗りを上げ、彼女だけの銃を取り出す。
Cz75、それのフルオートモデルだ。こいつも俺と同じ拳銃だが、彼女の銃に付加された効果は二挺拳銃化。紫さんの銃は秘められた力を発揮し、彼女の両手に一挺ずつCz75が現れた。
長く突き出た銃身が陽光に照らされ銀に輝き、その照準がスナイパーへと向けられる。次の瞬間、文字通り銃口が火を吹いた。無数の薬莢が宙を舞い、響く銃声が敵に死を告げる──とよかったんだが、この距離だし二挺拳銃だからなあ。
「って、すげぇ! さすがです紫様!」
「ふえぇ!?」
何だあの弾着。当たってこそいないがほぼスナイパーの周辺に着弾とか嘘だろ。なにか危ない薬でも使ってらっしゃる?
二刀流ならぬ二挺拳銃使い紫さん、恐ろしい。
「よし、交代ですぞ紫様! 今のうちに再装填を!」
「聖司さんまで!? な、何で私だけ様付けなんですかぁ……」
二挺拳銃は再装填に時間がかかる、聖司もそれを考慮して射撃の間隔を長めにとってるな、ナイスだ。
「こ、交代……いつでもいけます!」
早い待って。紫さん今両手塞がってたよね?どうやって2秒くらいで装填したの……画面外を撃つと補充されるとか一旦下げる動作をすると新しい弾倉に変わってるとかそういう?やだ、この子怖い。
「よ、よし! とにかく二人はそのままスナイパーを押しとどめて! 月宮さん達も、散らばらないでちゃんとついてきてくれよ!」
「う、うん! 薫君についていくよ!」
それからものの数分もしない内に、スナイパーは俺達を諦めたのか気配を消し逃走した。
それはそれで少し疑問があるんだが、今は皆の無事を喜ぼう。生きてる、それが一番重要だ。
「もう……いないみたいです、ね。はぁう……ちょっと、疲れまし……た」
言いながら、汗が少し肌に滲むほどで全然疲れた様子もない紫さんは銃をしまった。
やはり二挺拳銃はいい……実用性云々とお硬い頭でクソくだらないこと言うやつには鉛玉のお薬を脳天にぶち込んで柔らかくしてやるってほどロマン派の俺にさっきの紫さんは最高だった。結婚してもいい。いや、それはやっぱ駄目だ。頭撫でてあげてもいいにしとこう。
「なんとか凌げたな……聖司も紫さんもお疲れ。絢香、お前も怪我とかしてないか?」
「あ、うん……弾避けた時にちょっと膝擦り剥いたくらい」
見れば、絢香の膝全体がうっすら赤く染まり、内出血やら軽度の裂傷やらで見てるこっちが痛くなるほどの状態になっている。男の俺が覆い被さって強引に倒したんだからな、そりゃ怪我もするだろう。いくら咄嗟だったとはいえ、もう少し配慮すべきだった。小さくても足の怪我、それにもしかしたら岩にぶつけて歩けないほどの重症を負わせる可能性もあったわけだ。
まだまだ、俺も気の緩みが抜けてないぞ。しっかりしろ。
「すまん……次はもっと上手くやる。とりあえず、お前の治療をしよう」
「馬鹿、アンタが先よ。右手……傷が開いてる」
気が付かなかったが、確かに包帯が真っ赤だ。ずっと痛いせいかこの痛みに慣れてきて、傷が開いているのに気づけなかった。
とはいえ、この包帯は昨日の夜に月宮さんに変えてもらったばかりだ。あまり医療品も俺のためだけに消費させられない。絢香が優先だ。
「俺はいい、腕だしな。だがお前は足だ、歩けなくなる前に治療しよう」
「でも……」
「でもじゃない、頼むから俺のことは気にせず……」
言い切る前に誰かが俺の肩を掴み、爪の先が食い込むほど力を込める。
この爪の長さは女子、そして俺の発言に物申す子がいるとするなら、それはすなわち。
「かおるくん?」
「月宮さん……でも医療品を浪費するわけには」
「いいから、ふたりとも、手当……するよ?」
月宮さんの女神的な微笑み。だが纏うオーラは邪悪なラスボス的な何かのそれだ。怖い。
俺は無言で頷くしか出来なかった。
新品の包帯を纏い、月の獣が俺の中で疼くのを堪えて俺は一息つきがてら双眼鏡で周辺の偵察を行っていた。
先程のスナイパー、アレは間違いなく──
「……だとすれば、俺達は」
うっかり零れた独り言に口を噤み、俺は拡大された視界から覗く景色、その一つ一つを余さず注視しながら思案する。
思えば、目的も何もかもが漠然としすぎていた。この世界の設定、俺達の状況。考えたくはないが、この世界はもしかしたら──
「答えを出すには早い、か」
疑問を心の内に秘めたまま、今は誰にも明かさぬと誓い俺は巨岩を滑り降りる。
今はまだ妄想の域を出ない、誰かに相談はできないな。それでも今回の一件で俺が密かに抱いていた疑問への回答を得られたのは僥倖だ。
おそらく、この先進めば進むほど、俺達の敵はゾンビだけではなくなる。
「とりあえずみんなと合流しようか──どぅわ!?」
恥ずかしい、地面が段差になってるのに気づかず足を踏み外して落ちてしまった。これだから傾斜のある山とか丘のフィールドは嫌いだ。何気なくジャンプしただけなのにかなりの距離落下して大ダメージや即死判定出るとかいいことないもんな。
てかそれより、みんなとあんま離れてないから今の見られてただろうなあ。やだ恥ずかしい。
「ちょっと、気をつけなさいよね」
「薫君! 大丈夫?」
「だ、だいじょう……ぶ?」
「お、おう……はい」
なんで女性陣が一斉に俺の安否を確かめに来る必要があるんですか。もうやだ超恥ずかしいじゃん穴があったら入りたい。
「いや……穴ならあるな、二つ」
まいった。落ちただけならまだしも、こんなものと危うくキスしかけるとは。
まんまるおめめのスケルトンさん……ではなくちゃんかな、スカートがある。そいつが俺の倒れ込んだ先でクッションになってくれたようだ。額を擦り合わせるほど密着した状態、シチュは最高なんだが骨の塊に興奮できるのは特殊な訓練を受けた人か犬くらいだろう。さすがに気持ち悪い。
「ちょっと……アンタどうかしたの? 怪我でも」
「待て、来るな」
「な、何よ……」
段差の上から覗く絢香を手で制して、俺は紫さんに聖司を呼んでくるよう頼んだ。
まあこんなのは女子には見せられないからな。それに、はっきり伝えても混乱させるだけかもしれん。
「お呼びですかな?」
「ああ、これを見てくれ」
「む……」
体育館のステージぐらいの高さはある段差を聖司は物ともせず、ふくよかな体躯の割に身軽い動作で降りてきて彼は顎に手を当てた。メガネキャラは思案する仕草も様になるな。
「ゾンビの成れの果て……ではなさそうですな」
「ああ、ちゃんとあの画面も開ける」
意識を集中させれば、このスケルトンちゃんのインベントリが開いた。あいにく何も持っていないようだが、これは盗られたのかはじめから持ってなかったのか。
悪いとは思ったけど、俺はちょっと彼女のジャケットを弄りなにか残っていないか確認。
「財布……の中身は学生証だけか。あとはガラケー……も壊れてるな」
学校名は……聞いたことないな。近所ではないはず。
というか住所書いてあるな。おお、サイレントなヒルの県だ。ちと俺達のとこからじゃ遠い。
んで学生証の有効期限が……なるほど、ね。
「2005年……っは、もうぜってぇ信用しねぇからなあのクソ玉」
「薫殿?」
俺の妄想が想像くらいにはランクアップした。まだこれは、聖司にも話せはしないけど。
「気にすんな、もしかしたら本当にただのクソゲーなのかもしれんってだけだ」
「はあ……そう、ですか」
「それよりも、気をつけろ聖司。やっぱりここ、俺達以外もいるぞ」
「……ええ、今後はもっと注意して行動しなければなりませんな」
ごめんな、死体漁りなんかして。女の子がこんなところで骨になるまで放置されるなんて辛かったろうに。
でも埋めてやる時間も無い。だからせめて。
「……薫殿は優しいですな」
「そうかい? ならまだ俺もこの世界に順応しきれてるわけでもないってことだ。喜ばしい限りだな」
ぼろぼろになった彼女のジャケットを上半身に被せて、なるべく体が見えないようにしてあげた。今俺にできるのはこれくらいだ、ごめん。
「行こう……俺達はもう、進むしかないんだから」
結局、俺はこの世界に他の人間がいるということをみんなに伝えなかった。いずれ直面する案件だろうし、あんまり隠しておくのも逆効果なんだろうけど。
この世界で法に裁かれることはない。だから、殺して奪う。そういう選択肢を選ぶやつが出てくる可能性なんて、考えるまでもない。法に縛られていてさえ殺人を犯すような生き物が、枷から解き放たれればどうなるかなんてのはな。
だからこそ、今は月宮さん達に伝えたくはなかった。いつか自分の銃が同じ人間に向けられる日が来る、それを知って彼女達がどれだけ理性を保っていられるか分からないから。だからなるべく人間のいそうなところは避けて、それでも駄目なら俺が対処する。彼女達が手を汚すことだけは、絶対に避けないと。
必要であるならば、どんなことでも許容し実行する。躊躇も、あわれみもなく。それがたとえ、殺人でさえも。そういうふうに出来てるのは、俺だけらしいから。それを教えてくれた絢香にはなるべく表に出すなって言われてるけど、こんな非常識な世界でみんなを守るためには、むしろ必要な力だ。そう、思いたい。
「地図ではそろそろ見えてくるはず……たぶん。ええい、現在地分からないのは思ったよりめんどいな」
文句を垂れ流しながら進む俺は、目の前に立ちふさがった巨岩を登る。
すると、かすかに聞こえたのは水の音。急いで岩のてっぺんまで登れば、眼下には大きな地面の裂け目にそれを跨ぐ長い木の吊橋。
「よし、見っけた。やっぱり橋だったな」
現在位置は2つ目のエリアの中央。マップ機能で二つの崖とそれを繋ぐ細い線のようなものが見えていたから、俺はそれが橋だと睨んでいたのだ。そして予想的中、ゲーム知識は馬鹿にできないな。
おそらく、大地の裂け目が水色だったから下は川のはず。水音からしてかなり流れは早そうだ。落下死ポイントだな。見えない壁があって落ちないなんてことはないだろうから、注意しないと。
「うわあ……私、吊橋なんて実物初めて見たよ。薫君……これ、映画とかじゃよく落ちるけど大丈夫……なのかな?」
「吊り橋は切れる。それか渡ろうとしたら敵の大軍が押し寄せてくるかもしれない」
「追い打ちでとても強力なNPCが侵入してくる可能性もありますな」
「ええ!?」
月宮さんは本気で驚いているようだ。俺と聖司のノリに付いてこれるのはやっぱ絢香だけか。
「まあそれはないから安心して月宮さん。それにこのエリア、そもそもゾンビがあんまりいないみたいだしさ」
そう、このエリアに入ってから今の所、襲撃はスナイパーの狙撃だけ。ゾンビは一体も見ていない。
誰かが掃除したのか、あるいはゾンビが逃げるほどの何かがあるのか。なんだか水の音しか聞こえないこの場所が急に不気味に感じてきたぞ。静かすぎる……って、奴だ。
でも橋を渡らければ先には進めない。ビビってられん。
一応周辺の安全は確認しながら、俺が先頭、殿を聖司が担当して吊り橋を渡る。綱が解れてボロボロになっているが、この人数が乗っても千切れる気配はない。足場になっている木板も、それほど傷んでいる様子はなかった。ただ見かけはよくても中が腐ってて踏みつけた瞬間バキッといくかもしれないから注意しておかないとな。
「か、かか薫君! ゆゆ揺らさないでぇ」
「ごめん月宮さん……どうしようもないんだ」
やっと聖司が橋に足をかけたところで、もう俺の背後にいる月宮さんがギブアップ寸前だ。でも一人ずつ渡るのは時間がかかりすぎるし、我慢してもらうしかない。
吊り橋の長さはざっと目測で200メートルくらいのちょっと長めのやつ。しかも距離に対して幅なんて一列に並ばないと歩けないくらいなんだから、それはまあ結構揺れるし少し風もあるからたまに凄い角度に傾いたりしてわりとヤバめ。
しかし、マップに描かれた地形を考えるとこの吊り橋を避ければかなり遠回りになるし、下手をすれば余計に1エリア多めに回る羽目になるかもしれん。それは駄目だ。ここを進むしか方法はない。
「なるべく橋が平行になるよう体重をかけてくれ。でないと……」
そこまで言った時だった。俺も鳥はそこまで詳しくないけど、甲高い鳴き声……猛禽類だろうか、そういう類の声が頭上に響いた。
なんだ、鳥もいるじゃないか。と、そんな感情を抱く間もなく。声の主は俺の眼前に降り立つ。
逞しい体つきに、2メートルくらいの長身。浅黒い肌はところどころ昆虫のように堅牢な装甲で覆われ、背中には羽虫を彷彿とさせるグロテスクな半透明の四枚羽が生えている。
間違いない、変異種だ。それを理解するやいなや、俺は叫んだ。
「戻れ!」
叫びながら俺は体を反転させ、月宮さんの腰に腕を回し抱くようにして吊り橋の上を走った。
みんなが一斉に動き、意思を持ったかのように激しく暴れ狂う橋を俺は進む。
聖司と紫さんはもう崖に着いた。だが俺と月宮さんはまだそれなりの距離がある。一秒でも早くこの橋から脱出しないと。
でも、ヤツはどうしている?振り向く余裕も今の俺には──
「っぐ!?」
「薫君!」
直後、橋が左右に大きく揺れ動き、背中に熱湯でも浴びせられたかのような熱を感じた。
羽虫のゾンビは不安定な足場を物ともせず、自慢の羽を使わず一息に俺の背後までジャンプしてくると、鋭利な爪でジャケットごと俺の皮膚を切り裂いたのだ。掠めただけでこれなら、ヤツが本気を出せば人間なんて真っ二つだろう。
飛行能力と高い戦闘力を持つ個体。危険すぎる。こいつを放置するわけにはいかない。
「聖司ぃ!」
俺と月宮さん以外は全員橋を脱した。それを確認し、俺は月宮さんに覆い被さるようにして足場に伏せる。
これで射線は通った。俺が具体的な指示を出すまでもなくMk18の発砲音が周囲に響き渡り、羽虫ゾンビが呻き声を上げる。
伏せながらヤツの状態を見てみるが、5.56ミリのライフル弾では威力が足りないのか手の甲を覆う昆虫的な形状の装甲に弾かれている。簡単には倒せなさそうだ。
だが、活路はある。まだ人間的な形状を保った頭部周辺、あそこにダメージを与えることさえできれば。
とはいえ揺れ動く橋の上、俺と月宮さんを標的と挟んだ状態から聖司に狙撃させるのは難しい。彼の装備も狙撃に特化したものではない。ならここで動くべきは、俺だ。
「月宮さん、走れ!」
「で、でも……」
「早く!」
月宮さんの一瞬の迷い、そこにつけこんだ怪物は不気味に口角を歪めながら、爪で吊り橋を支える綱を切り裂いた。
切られたのは片側だけだが、それでも吊り橋は大きく半回転し足場の板が垂直に傾く。当然俺と月宮さんは板に乗っていられるはずもなく、橋から投げ出され──
「月宮さん!」
「薫君!」
俺は左手でなんとか千切れた綱を掴み取り、残る右腕もなんとか言うことを聞いてくれて、月宮さんの腕を掴めた。
女の子とはいえ人間一人分の体重を右腕だけで支える。今の俺には無理な話だ。包帯は瞬く間に赤に染まり、激痛が俺の思考を濁し体を脱力させる。
駄目だ、まだ終われない。月宮さんまで犠牲になんて出来るもんか。もう誰も死なせない、絶対に。
「クソ野郎……がァ!」
俺は憎しみを込め、空を飛びながらこっちを見下ろす怪物を睨みつける。無表情だが、どこかしたり顔にも見えるゾンビ。ヤツへの怒りを原動力にして俺は右腕を持ち上げる。
「月宮……さん! 綱に」
俺の血で何度も手を滑らせながらも、なんとか月宮さんは綱に掴まった。
よし、あとは綱を伝って戻ってくれれば大丈夫なはず。握力が持つかは賭けだがほんの数メートルだ、彼女を信じよう。
「さあ、早くみんなのところに」
「薫君!? 薫君も一緒に!」
「駄目だ! 俺は、まだ……」
血塗れた右手はもう痛みを感じない。もう手遅れなのか怒りのせいなのかはわからないが、これはこれで都合がいい。
血で指を何度も滑らせながら、俺はP226のグリップを握りしめ抜いた。艶のない黒を赤く染める俺の右手はゾンビへと向けられ、引き金は絞られる。
「喰らえ化物が!」
致命傷なんて期待してなかった。けれど神様か何かが味方してくれたのか俺が数度放った弾丸、その中の一発だけがゾンビの羽に当たり奴はバランスを崩して少しだけ空中でよろめく。
それが逆鱗にでも触れたのか、ゾンビは俺の傍まで飛んできて。鋭い爪で俺の首をはねることも出来ただろうに、ご丁寧に胸ぐらを掴んで俺を顔の前まで引き寄せた。
一応、いま空飛んでることになるな。なかなかいい気分だが、そろそろ血が足りなくなってきたのか意識が朦朧として視界も薄暗い。浸ってる時間はなさそうだ。
「よぉ……なんだお前、キモい上に沸点も低いのな」
「ギ、ギィィィ」
おいおいさっきのかっこいい鳴き声どうやって出した。そんな歯ぎしりするような気色悪い声じゃなかったろ。よっぽど俺がムカついたんだな。
ご自慢の羽傷つけられりゃあそんな態度になるのもまあ分からんでもない。大切なものを傷つけられたらそりゃ殺したくもなるわな。
俺を殺したいか化物?怒りに我を忘れるくらいだもんな。だが──勝つのは俺だ。
「馬鹿が……迂闊だったな」
「ギィ……?」
間抜けな顔だ。何が起こっているか理解出来ていないらしい。
俺の顔にばかり目がいって、顎に銃口を突きつけられてるのに気づきもしない。所詮は化物、最後にゃ人間様が勝つのさ。
「ギッ!?」
血と痛み、反動で何度も銃を落としそうになりながらも、装填された弾丸全てを俺は怪物に撃ち込んだ。弾頭は皮膚を貫き、顎を砕いて頭蓋を割り脳漿を宙にぶち撒ける。
どうだ、さすがに死んだだろ。ざまあみろ化物め。
──まあ、その後のことを考えると笑ってもいられないんだが。
「……ははっ、やっぱ無理かぁ」
四枚羽が動きを止め、俺を掴んだままゾンビは川へと吸い込まれるように落下していく。綱を掴めりゃあよかったんだが、近いのが右手側って時点で望みは薄かったからなあ。まあそもそも、俺が空中で綱を見事にキャッチするとかそんな主人公的な超絶アクションが出来るわけないんだけど。
「薫君! 薫君! 嫌ァ!」
良かった、月宮さんも無事に辿り着けたみたいだ。
じゃあ後は、聖司がいればなんとかなる……かな。
「駄目ぇ! 駄目薫君!」
しかし、あれだけ意気込んでこのザマか。やれやれ、凡人が無理するもんじゃないな。途中退場だなんて、格好もつかん。
せっかくらしいこと言ったんだから、ちょっとくらい活躍させてくれればいいのに。やっぱり、この世界はクソゲーだぜ。