水平線を瞶めて
水平線を瞶めて
一
僕が徳島に降り立った一歩目は、タラップの硬質な金属板の感触だった。
タラップの上で感じたのは、潮の匂い。波が打ち寄せる音、揺れ、他の乗客たちの会話だった。出不精な僕にとって怒濤に感じるこの新鮮さに圧倒されながら、フェリーから降りた出口の方へと向かう。すると、そこには既に僕を待ってくれている女の人がいた。
「初めまして……って、なんだか、おかしな感じがするよね。」
その照れた彼女の表情に、僕もつられて照れてしまった。
そう僕と彼女はリアルで直接会うのは、これが初めての出来事だった。
僕がこの世の終わりというものが唐突に、そして簡単に襲ってくるものだと思ったのは、恋人の裏切りが原因だった。その恋人に振られてから、僕は抜け殻のようにただ只管に大学とアパートを往復するだけの日々が続いていた。一人暮らしをしている僕にとって、ただ単に『生きる』というだけのことが、何事もなかったように買い物し、いつものように料理し、それを食べるということが、その『生きる』という行為が苦痛で仕方なかった。
料理中に包丁を握るたびに、これで首を切って死ねばどれだけ楽だろう。そんなことばかりを考えていた。そして切羽詰まった僕は、そんなどうしようもない心情をありのままにツイッターに吐き出していた。書くと止まらなくなっていた……。指と涙が。
すると、そんな僕にリプライしてくれる人が現れた――それが目の前の彼女だった。
それから僕たちはツイッターなどを通じて親しくなり、今はお互いのことなら大抵は知っている。生まれた町の名前から、最近行った美容院まで。全部。だから、初めて会った今の心境は、とても不思議な感じがした。ずっと前から知っていたような気がしたし、ずっと一緒に暮らしていたような錯覚さえ感じるぐらいだった。けれど、緊張を覚えたのは確かだ。彼女は身長よりも存在が大きく感じられた。それは『大人』だけが持つ、謂わゆる社会を経験した者の立ち振る舞いというか、ある種の自信なのだろうと思った。
だから、写真で知っていた彼女より、とても美しく綺麗な印象を受けた。
それゆえに、僕が言えた言葉は上擦らないように気をつけた一言だけだった。
「そうですね、なんだか照れますが、とにかく――証明しに来ましたよ。」
§
私が彼をフォローしていたのは、彼のプロフィール欄の好きなアニメに『Fate/Zero』とあったからだ。そして彼の面白いというアニメや映画のツボが私と合致していた。ツイッターのリンク先にあった彼の評論ブログも軽快かつ楽しげな文章で私も楽しく読ませてもらっていた。――そんな彼が突然、ツイッターもブログも更新が止まってしまった。SNSを途中で放棄する人は少なくない。だから、今回も残念だけど仕方ないかと思って忘れかけていたとある深夜のことだった。突然、彼はツイッターで大量のツイートを投下し始めた。そこに書かれてあったのは、彼女に裏切られ振られたとの趣旨だった。
だから私は、その彼に同調してしまい、思わずリプをしていた。
『そんな女のことなんて忘れちゃっていいと思います。私で良ければ話を聞きますよ。』
そのリプからだ。私と彼はいつの間にか親密にやり取りするようになったのは。元々私とツボが同じだったこともあり、アニメや映画の話でも盛り上がったし、お互いにまだ知らない作品を教え合ったりもした。……それが私の乾いた日常に唯一の潤いとなっていた。
私の日常ほどつまらないものはない。毎日同じ職場で面白くもない誰かの悪口を聞かされて、でも、それを聞いていないとその悪口の対象にされるのが怖くて参加したり、それが自己嫌悪の一因だった。そして唯一優しく接してくれる上司に迫られて断れきれずに、妻子持ちの相手にも関わらず不倫関係を繰り返していたり……。それでもスマホを開いて、夜に彼とのやり取りをしている時だけは、恋を知った乙女のような気分になれた。
だけどある日、私はそんな自己矛盾に耐えかねてツイートしていた。『もうイヤ。死にたい。』と。すぐに彼は反応してくれた。彼がそういう風に反応してくれて私がどんなことを言っても受け入れてくれることは計算済みだった。所詮はネット上の匿名な相手だ。どんなに優しい言葉だって言える。だから、彼が私と同じように『僕で良ければ話を聞きます!』と言うのは分かっていたし、彼を吐き出し口に使おうとしていた私の浅ましさにも彼は熱心に私の不倫話を聞いてくれた。そして当然のように肯定の言葉が返ってきた。それは私の計算の内だったし、それが当然のネット上のマナーというものだろうとすら思っていた。けれど予想外だったのは彼が『あなたには「僕」がいるじゃないですか!』と憤慨したことだ。私は驚いたけれど半ば呆れて言った――『なら、それを証明してよ。』
二
「それにしてもなぁ、ほんまに年下やったんじゃ、ショック。」
「えー、なんでなん? てか、なんで僕のことを年上やと思ったん?」
いつの間にか私たちはお互いのお国言葉で話していた。だけど、徳島と和歌山の言葉は似ている。車社会の現代と違い、船で行き来がなされていた時代からの歴史的背景があるからか、言葉が似ているためかお互いに詰まることなく話すことができた。
「口調。てゆうか、文体? 文体が硬いけん、勘違いしとった。」
「文体? あー、あれはツイッターに文字制限があるからやむなしやって。」
「その『やむなし』とか普通の会話に出てくる辺りとかな。」
私は呆れつつもからかうようにそういうと、「ちなみに、何歳ぐらいに思ってたん?」と言われたので、「五歳は年上と思っとった。」と言うと、「えー、こっちがショックやわ。老け文体とかショック過ぎ。」というその老けという言葉に敏感になる。「いやいや、こっちの方がショックが大きいもん。なんせ、実際は私の方が十歳以上も年上なんやけん。」
そう落ち込みつつ運転しながら、「身分証出せぃ!」と絡んでやった。
すると出てきた学生証と運転免許により、二十歳だと証明されてしまった。平成生まれと昭和生まれ。この差は胸に迫るものがあった。――そんな話をしつつ向かうのは、市街地にある眉山だ。まあ、眉山と言ってもそこにあるユーフォーテーブルカフェだけど。
私たちはアニメが好きだという点でも気が合った。他県の彼曰く、徳島のイメージはアニメ県らしい。まあ、確かに近年は毎年、〈マチ★アソビ〉で賑わっているし、色んな声優さんと都会まで行かなくても会える。そう言うと彼は「いいなぁ!」と目を輝かせた。
そうこう話しているうちに、眉山近くの地下駐車場に車は到着した。
§
阿波踊り会館から伸びるロープウェイに二人で乗り込み、暫く上がっていくと一面に見えたのは満開に咲き誇っている桜だった。桜の衣を纏った眉山は七割が山な和歌山から来た僕にとっても新鮮で、色彩豊かな眉山の美しさに感嘆の声が漏れた。
ロープウェイの中で流れる徳島の名所を告げるアナウンスを聞いていると、「あ、見てみ。あそこに見えよん、和歌山じょ。」と言われて海の方を瞰下ろす。「へぇー、あれ和歌山なんや。見えるもんなんやね。」と言うと、彼女は「今日は天気がいいけん。曇ってたら見えんしな、今日は良かったなあ。」と楽しそうに告げていた。
しかし、僕はその紀伊半島を見て表情が曇る。
「こうして遠くから離れて見ると、あそこだけに囚われる必要はないってよく分かるなぁ。そしてどれだけあそこに囚われてきたのかも。自分でも呆れるぐらい無意識にさ。」
その僕の独り言に近い言葉に、彼女は「そうかもやねぇ。」と呟いた。
「その言葉は私にも突き刺さるわ。私もどれだけここに囚われているのかってさ。それと同時にそれはこの土地に愛着があるということなんだろうか、とかね。執着か愛着か。……はは、何かな、ふと不倫相手の顔が過ったわ。けど、これは執着やて分かったよ。」
そうして彼女は決意を固めたように、「よし!」と大きく頷いた。
ロープウェイが上に到着するなり、彼女は僕の目を真っ直ぐに見て問うてきた。
「あなたの元カノへの今の愛は『愛着』からの悲しさなのか、それとも良かった時を思い出しての『執着』からくる苦しさなのか――いったい、どっちなん?」
そう問われてみると、答えはハッキリと分かった。
「ただの執着、やな……。」
そう、かつてあり得た日々を思い出しての――苦しさだ。そう聞くと彼女は「ほんなら、今の私と一緒やね。ならさ、私と一緒に過去を吹っ切れへんで?」と。「吹っ切るって?」そう聞くと、「一緒に相手の電話番号消そよ。」と彼女はスマホを取り出した。僕は若干の躊躇いがありつつも、しかし、ここでそれをしておかないと後々一人でそれができるのかと自問すると答えは明白だった。できない。だから、僕も彼女に倣いスマホを取り出し、元カノの電話番号を着信拒否設定にして、彼女とスマホの画面を見せ合う。「こんでさようならやな。」「けじめって奴、やね。」二人同時にスマホの画面をタップした。
それにより、僕は元カノの電話番号を、彼女は不倫相手の電話番号を、それぞれ着信拒否設定にし削除した。その瞬間、何かが抜けたように、すーっと気が楽になったような感じがした。それと同時に、胸にぽっかりと空いている穴のことを、今まで見て見ぬ振りをしてきた心の傷を明確に認識した。僕ってこんなに傷ついていたんだ、と驚くぐらいに。
そんな僕を見てか、彼女は「ちょうどいい場所があるわ。行こ。」と手を引かれて連れて行かれたのは眉山の展望台だった。そこにはたくさんのアニメ関係者の手形があったが、今はそれどころではなかった。苦しかった。そこに彼女の明るい声が「ここ!」と言った。
そこには打ち鳴らすことで幸せになれるとかいう鐘だそうだ。
僕たちは一緒に打つことにした。――カーン、と甲高い音がいつまでも響いているようだった。彼女が導いてくれるように、ずっと握ってくれていた手の温もりが、鐘の音とともに、胸の奥の穴を埋めてくれるように暖かくて、そして……優しかった。
三
それから私たちはどちらとも言うわけでもなく、お互いの手を取りその温もりを感じながら観光を続けた。アニメ関連のユーフォーテーブルカフェやシネマなど――あっという間に彼が帰る時間になっていた。南海フェリー乗り場に送る頃には、外は薄暗くなっていた。彼を送り届けた車内で、私は彼が降りようとするのを引き留めた。
「お願い、ちょっとだけ。もうちょっとだけ、このままで……。」そう言ってから十分は経っていた。本当はもっと一緒に居たい。けど私は実家暮らしだし、彼も大学がある。ここで引き留めてしまうわけにはいかない……。すると、不意に彼が動いた。私はそれが降りてしまう動きだと思って彼の方を見る――と彼は私を抱き寄せた。唇が触れ合った。
それは永遠とも思えるような、一瞬とも感じるような接吻。
彼は「また来るから。必ず。」と私の目を見て約束をしてくれた。だから私は彼の言葉に「うん……。」とだけ頷いて「年上なのにお姉さんらしいことができんでごめんね。」と謝ると、彼は「恋愛に年なんて関係ないって分かったからいいんだよ。」とはにかんだ。
その柔らかい笑みに――私の鼓動は跳ね上がった。
§
彼女に見送られてフェリーに乗り込む。――フェリーが出航し、徐々に彼女がいる徳島の地からは離れていく。僕は咄嗟に戻りたいと思う気持ちに引き裂かれそうになる。けれど、飛んできたラインのメッセージには『今日はめっちゃ嬉しかった。ありがとう! また遊びに来てなぁ。』と来ていて、『こちらこそ色々と吹っ切れたよ、ありがとう。』と打っていると、胸の奥を締めつけていたものが緩んでいくような気がした。
和歌山まで約二時間。僕はその間にまた気持ちが元カノへと揺れ戻ってしまうのではないかと不安だった。でも、絶えずメッセージを送ってくれる彼女の存在が、僕を徳島へと気持ちを繋ぎ止めてくれていた。さあ、明日からまたいつもの日常だ。でも、もう違うものもある。それは彼女と交わした接吻の感触が残っている限り、彼女と心を通わせた事実が残っている限り、僕はもう大丈夫なのだと思う。だから、また徳島へ行こう。
今度会ったら直接言いたいこともできた。だからそれまで頑張ろう。
次は阿波踊りを見においでよと約束もしている。八月だ。だから、それまでに僕は成長していようと思う。彼女と愛を交わせるような、それに見合う男になるために。
ああ、和歌山が見え始めた。これからが、本当に変わる時だ。
僕は覚悟を決めてフェリーのタラップを踏み、和歌山の地へ戻った。