憧れの作家は元カレでした
「久しぶりだな、ゆり」
「何でよ……」
「何が?」
「何であんたが久賀先生のサイン会にいるのよ!」
チェーン展開している喫茶店の隅の席で小さく机を叩く。
憧れの作家である久賀美里先生のサイン会に出向いてからというもの、私は自分の感情に抑えをつけられなくなることが増えた。
その原因は明らかである。
憧れの小説家の正体が元カレだったのだから。
5年前、文学界に流星の如く現れた久賀美里先生は文学界の話題を掻っ攫ったのと同じように私の心までをも攫っていった。
その頃の私は就職は中々決まらず、彼氏とも上手くいかず自暴自棄になる毎日だった。
ついに就職先も決まらぬまま卒業式を迎え、彼氏とは喧嘩別れをしたまま一月以上も連絡を取らなくなっていた。
卒業証書をカバンに詰め込み、先の見えない未来にため息を零していた時、彼のデビュー作品『朝日』に出会ったのだ。
地下鉄の大きな掲示板を飾った一枚の写真よりもまずヒッソリと書かれたたった一行が目を引いた。
『ほうと吐くその息に私は朝を感じたのである』
たったそれだけ。
有名な写真家が撮ったらしい、彼の本の表紙を飾るその写真よりも私はその言葉に強く心を奪われたのだ。
流れ行く情報を見ていただけの携帯を掲示板に向け、写真に収めた。
そして私は気づけば歩いて来た道を戻っていた。つい先ほど気にかけることなく過ぎ去った駅ナカの小さな本屋へと急く足を向けていたのだ。
「すみません、この本ありますか?」
息を切らせながら入り込んだ店でまず初めに目に付いた気怠げな店員さんにその写真を向けた。
すると彼は何を言うでもなく、ただ身体を捻って一点を指差した。
そこに残り二冊しかなかったその本を私は胸に抱いた。
もうその時すでにこの本が私を満たしてくれると感じ取っていたのだろう。
出会えたことが、その本に触れられたことが何よりも嬉しかった。
会計を終え、カバーをかけてもらったその本を胸に抱えて家に向かう。
実家から出て、大学からほど近い場所に家を借りた私の帰る場所には誰もいない。
半年ほど前まで頻繁にとは言わないまでも、月に一度くらいは訪ねてきてくれていた彼氏ももう自然消滅扱いである。
明かりの付いていないその部屋に帰るのが億劫だったはずの昨日までの毎日が嘘のように足が軽くなり、そして永らく口にすることのなかった『ただいま』をずっとお世話になりつづけている部屋へと向けた。
そして靴を荒々しく脱ぎ捨てると私は玄関先でその本のページを夢中でめくった。
目につく言葉の一つ一つが簡単に私の心を突き動かす。
気づけば本には無数のシミが出来ていた。抑えることはおろか、気づくことさえ出来なかった涙がそれを作り出していたのである。
私は家族の反対を押し切って東京に出ていた。父も母も東京の短期大学に通うよりも高校卒業後は実家からほど近い会社で働いて欲しかったのだ。
だが私には憧れがあった。今から思えばただ東京というものに出てきて見たかっただけだったのだ。それを両親は見抜いていて反対していた。
けれど私はそれに気づかずに2人は頭ごなしに否定しているのだと、年金暮らしの祖父に泣きついて何とか入学費用と授業料を出してもらっていた。
生活費とアパートの費用は自分で稼いで、それで一年と少し生活できていたのだからこれからも何とかやっていけている気になっていた。
だが思ったよりも仕事は決まらず、長く続く就活のためにバイトも減らさざるを得ない状況となっていった。
すると当然お金も入らず、生活は苦しくなる一方。
だが反対した父と母の言葉を思い返して、その度に泣くわけにはいかないと言い聞かせた。
その甲斐あって私は上京してから2年間、一度もだって涙を零したことなどなかったのだ。
だがその一冊の本は私に泣いてもいいのだと教えてくれた。
辛い時、悲しい時、そして嬉しい時、人間は涙を流すものなのだと。
それから『朝日』は私の心の教科書となり、著者の久賀美里先生は私の憧れの作家となった。
自然消滅した彼氏と縁を切るように電話番号とメールアドレスを変えて、心機一転と始めた就職活動は卒業後に回った会社のいくつかから内定をもぎ取ることが出来た。
5年経った今でもその内の一社であった会社で働いており、久賀美里先生の作品はどれも私の本棚に飾られている。
ずっとメディアに一切顔を見せない仮面作家として知られる久賀先生が初めて100名限定でのサイン本お渡し会を開くと聞いて、有給を取った。
風邪で先月休んでしまったため、無理かとも思ったが上司が行って来いと背中を押してくれたのだ。
そしてサイン会当日、机の向こう側には大学時代の彼氏がいた。喧嘩別れからの自然消滅となった元カレである。
放心状態の中、新作の本にサインをもらい、その場を後にした。
久賀先生に会ったら口に出して言おうと思っていた感想も全て頭から抜け去り、気がつけば私は部屋でいつものようにそれをファンレターに綴っていた。
サイン本にルーズリーフの切れ端が挟まれているのに気づいたのは全て書き終わった後のことだった。今回のために空けておいた特等席へと移動させようと持ち上げた時に床にハラリと舞い落ちたのだ。
書かれていたのは大学時代に彼と訪れたチェーン展開している喫茶店の名前だった。
店舗名など書かれてはいない、日付や時間だって、喫茶店の名前以外は本当に何も書かれていないのだ。
だが私は迷いなくとある1店舗へと走り出した。
そして彼を、三郷弘毅を見つけたのだった。
「ゆりなら来てくれると信じてたが……思いの外遅かったな」
「そんなことよりも質問に答えて。何で弘毅が久賀先生のサイン会にいたのよ」
そんなことはここに辿り着く前に自分の中で答えが出ていた。
だが聞かずには、否定して欲しいと思わずにはいられないのだ。
だが彼の口から出たのは私の出した結論と全く同じだった。
「そりゃあ俺が久賀美里だから」
会わなかった5年ですっかりコーラからコーヒーへと鞍替えしたらしい弘毅はコーヒーを啜りながら、まるで今日の天気でも答えるかのようにそう答えた。
「そんなことよりも、ゆり。アパートはともかくとしてなんでアドレスと番号変えたんだよ。そのせいで全く連絡も付かなかったじゃねぇか」
「そんなことって、私にとって5年も前に変えたメアドとケー番よりも久賀先生の正体があんただったことの方が重要よ!」
「作家が知り合いだっていいだろ!」
「知り合いだって知ってたらあんな恥ずかしいこと書かなかったわよ!」
「いいだろ、俺なんだから」
「よくないわよ! 元カレにだってあんなこと言えないわよ……。憧れの作家先生だから、久賀美里先生だから書けたのに……」
「ちょっと待て、ゆり。今なんつった?」
「何度も言わせないでよ。憧れの先生だから書けたの」
「そこじゃない、もっと前」
「元カレにだって?」
「そこだよ、そこ! 元カレって何だよ! 俺はお前と別れたつもりなんてない」
「はぁ!? 5年も連絡取らずにいて、それでもまだ付き合ってるって思ってたわけ? あんた、馬鹿でしょ?」
この男の正体が久賀美里先生だと言うことも忘れて声を荒げた。
こんなに大きな声を出すのは5年前に彼に八つ当たりをした時以来だろう。
どちらも弘毅相手なのは私がこの5年で全くもって成長していない証なのかもしれないと頭の中にいる冷静な私が毒づいた。
「付き合う時に告白したなら、別れる時にそれを告げるのもマナーだろ! 第一、連絡を取れない状況にしたのはゆりの方だろ? 俺は何回もメールも電話もしたし、自宅にだって行った。…………家は引っ越した後だったし、メアドも番号も変えた後だっただけで」
「私がメアドと番号とアパート変えたのは弘毅から連絡が来なくなってから一ヶ月以上経った後なんだけど?」
「就活終わんなくて忙しいって言うお前に遠慮してたんだよ! ずっと連絡来るって待ってたのに全然来ないし、連絡取ろうにもどこにいるかも新しい番号も分からずじまいで、だけど俺はずっと諦められなかった。趣味から始めた執筆は波に乗って、いつかお前の目に届けばって思ってた。そんな時にお前からファンレターが送られてきた」
「まさかあんた……」
私の頭にある予想が過ぎる。
とても馬鹿らしい考えではあるものの、この5年間交際が続いていたと本気で思い込んでいた弘毅のことだ、私があり得ないと否定するその考えすらも実行してしまう。
「サインなら今まで通りに書店に置いて貰えばいいから執筆に専念しろって言う編集を説得するの大変だったんだぞ?」
「バッカじゃないの!」
「仕方ないだろ! ファンレターに住所も何も書かれてなかったからそうするしかなかったんだよ! ……まぁそれはともかく、ゆり。アドレスと番号教えろ」
私の憧れの作家は大学時代に付き合っていた彼氏であり、そして今現在の彼氏である。
この5年間、私の中で自然消滅したことになっていた彼との関係ではあるが、弘毅以来私には彼氏というものがいなかった。
出会いがなかったわけではないが、彼以上に話が合う男が居なかったのだ。そして私には久賀先生の本があるからと特に彼氏が欲しかったわけでもなく、結果的には誰も作らなかったことになる。
それを知った弘毅はそこに漬け込み、いつのまにか私の彼氏の座を再び手にして居た。私も私で何だかんだ復縁を了承してしまった。やはり弘毅といると気を張らずに済むのだ。
それから2年が経ち、今では弘毅の住む高級マンションに同居している。
このまま何事もなく仕事が進めば結婚式を挙げられる日も近い。
弘毅とは7年前よりもずっと遠慮のない関係となった私ではあるが、1つだけどうしても認められないことがある。
「ゆり、お前いい加減ファンレターを出版社経由で送るのやめたらどうだ? 感想なら俺に直接言えばいいだろ」
「い、や」
久賀美里先生は私にとっての憧れの作家である。
憧れの作家というのは天上人に等しく、その存在が隣で鍋の中の餅のようにダラけている男だとは認めたくないのだ。
「読み終わったばっかだけど久賀先生の新作、早くでないかなぁ」
「だから半年後に出るやつの原稿上がってるから読んでいいって」
「弘毅、うるさい」
「何でだよ……」
弘毅は大事な彼氏である。空白の5年があったにしても愛していることには変わりはない。
だがそれとこれとは話が別なのだ。