その5
「こんばんは」
「おや、いらっしゃいませ。またお越しになられたんですね」
「ええ、まあ」
私が走って向かった先はあの繁華街から外れたところにある鍵屋だった。そこで店主と再び相見えることになった。昨日と変わらず彼はいやに丁寧で、どこか掴めない雰囲気をしている。正直私の内面を見透かされている気がして苦手だ。
「ここに来られたということは、記憶を戻してほしいということですね?」
「その前に一つ教えてください。私の制服をこんなきれいにしてくれたのってあなたの仕業ですよね?」
「それは当店のサービスですよ。なんせあなたの格好は泥まみれでしたから。ついでに記憶を忘れるのに邪魔になるものも排除しておきましたし。大丈夫ですよ。それ以外は何もしていませんし」
余計なお世話だ、と言うわけにもいかず、小さくそうですかとつぶやくだけに留める。
「それではよろしいですか?」
「いいや、よろしくないね。ちょっと失礼するよ。」
そう言ったのは、店の中に突如入って来るなりそう言ったのは、警察手帳を右手に構えた男だった。
「警察だ。白部恣意子さんだね。君に殺人容疑がかかっている。少しお話を聞いてもいいかね?」
そういう刑事は有無を言わせぬ表情でこちらを見ている。
ああ、見つかっちゃった。
「さて、今回の事件だが君は何か覚えているかね?」
「覚えていません」
「首を絞めたことも?」
「さっぱり」
「その後公園に隠したことも?」
「何のことやら」
場所は未だ変わらず鍵屋のままだ。私はここで簡易的な取り調べを受けている。まあ、何も答えられないわけだが。
どうやら私が忘れた記憶は殺人に関することらしい。分かってしまうとあっけないものだ。玉手箱を開けたら浦島太郎がお爺さんになってしまったみたいな、死んだと思っていたシャーロックホームズが実は生きていたみたいな、壮大などんでん返しが待っているかと思っていたのに、真相なんてそんなものだ。大して面白くも無く番狂わせもない。友達を殺した。それだけだ。
思うに私が忘れたかったのは罪悪感だろう。罪の意識に潰れそうで現実逃避のために忘却した。普通だなぁ。
忘れたのは昨日のことだけだから計画性は全くなし。多分絵文と話してる時に何かあったんだろうな。私が殺人衝動を持つくらいだから相当だ。あ、Kくんのことかも。私の片思いの人。彼の記憶も少し曖昧だからそうだろう。
前々から誰かと付き合ってるみたいな噂はあったしおそらく―――
もっともそこら辺は本人に聞かないとわからない。忘れたい記憶からどうしてそんな話題になったとかは既に忘れてしまった。つまり誰も彼も推測の域を超えられない。私でさえも。
私は本当に何がしたかったんだろうなぁ。
「本当だよ。警察が言うのもなんだが、あんたは一体何がしたかったんだ」
「全く覚えていません。」
「あぁ、もういい!おい、鍵屋!この子の記憶どうにかならんのか」
「なりますよ。記憶の扉を開けてやればいいんですから。鍵を外すだけです。誰でもできますよ」
「お断りします。私、このままでいいですから」
「そんな訳あるか。事件を解決することが俺達の仕事だ。」
「もう認めますから。解決でいいでしょう?とにかく私は罪の意識とか、そんな重たいものをもう一度背負いたくなんてないんです」
「いい加減にしろ!あんたの更生もふくめての解決だ。そうじゃないとあの子は報われないだろうが」
「ああ……分かりましたよ」
そう言って私は鍵を取り出す。
もちろん何も分かってはいないが。
ごめんね、お母さん、お父さん。今まで言うこと全然聞かなくて。私のことをずっと考えてくれていたこと知ってたよ。私はずっと嫌いだったけど。これからも忘れないでね。
ごめんね、Yちゃん、Hさん。よくみんなで遊んだりして楽しかったね。心の中ではずっと馬鹿にしてたけど。これからも覚えていてね。
ごめんね、絵文。殺しちゃって。わたしは何も覚えていないし、弁解の余地もない。けど、あなたはきっと幸せ者だ。他の人がなんて言おうと私はそう信じているから。
ごめんね、私。今まで平凡な人生でつまらなかったよね。普通に生きて普通に楽しむだけの人生なんて有りきたりだよね。だから次からは非凡でいることにするよ。さよなら、私。
頭の中の自分をかき集めて、記憶を全て呼び起こして、一か八かの大勝負に出る。多分できるはずなんだ。いやきっとできる。無理矢理でも成し遂げることなら。
鍵をしっかり握って額に持ってくる。刑事さんが気づいて止めようとするけど、とてもスローモーションに見える。あはは……
鍵を頭に差し入れてカチンと回した。
正しい知識もなく見ようま見まねですればどうなるか。
当然、失敗する。だけど今の私には確実な成功と言える。
頭が空っぽになっていくのを感じた。
さらに鍵を回す。鍵穴の限界を超えて回すことで負荷がかかる。
私が私でなくなっていくのを感じる。まだ回す。
鍵が最初の向きに戻った。その瞬間―――
私は達成感を感じることもなく床に崩れ落ちた。