表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

綾乃

路地裏の女

作者: N
掲載日:2026/05/07


 通知の音が鳴るたび、胸の奥が少しだけ熱くなった。


 スマホの画面には、俺の投稿が表示されている。


『こういう奴を許す社会だから、被害者が泣き寝入りするんだよな』


 いいねが増えていた。


 百。


 二百。


 三百。


 リポストも伸びている。


 知らない誰かが、俺の言葉に頷いている。


 それだけで、息がしやすくなる気がした。


 会社では、誰も俺の話を聞かない。


 会議で意見を出しても、「それは前に検討したから」とすぐに流される。後輩の女が同じようなことを言えば、上司は「いい視点だね」と笑う。


 馬鹿馬鹿しい。


 俺は間違ったことを言っていない。


 ただ、言い方が少しきついだけだ。


 それなのに、会社では俺が面倒な奴みたいに扱われる。


 けれどネットでは違った。


 正しいことを言えば、正しく評価される。


 悪いことをした奴を悪いと言えば、みんなが頷く。


 俺は、そこでだけ息ができた。


 その日、炎上していたのは、ある配信者だった。


 駅前で倒れていた老人を勝手に撮影し、笑いながら配信したらしい。動画はすでに消されていたが、切り抜きがいくつも出回っていた。


 俺は昼休みに弁当を食べながら、その件について何度も投稿した。


『謝罪文が軽すぎる。反省してる人間の文章じゃない』


『こういう奴は一度社会的に終わらないとわからない』


『名前も顔も出して活動してたんだから、責任取るべき』


 送信するたび、指先が震える。


 怒りのせいだと思っていた。


 でも、本当は少し違ったのかもしれない。


 気分が良かった。


 誰かを責める言葉を書く時だけ、自分の中の濁ったものが綺麗な形になる気がした。


 俺は正しい。


 俺は間違っていない。


 そう思える時間だけが、俺に残っていた。


 仕事が終わったのは、夜の十時を過ぎてからだった。


 会社を出ると、雨上がりのアスファルトが黒く濡れていた。ビルの窓明かりが路面に歪んで映っている。


 俺は駅へ向かう途中、いつもの大通りではなく、細い路地へ入った。


 近道だった。


 両側に古い雑居ビルが並び、室外機の低い音が響いている。飲食店の裏口から、生ゴミの匂いと油の匂いが混じって流れてきた。


 そこで、声がした。


「すごいね」


 俺は立ち止まった。


 路地の奥。


 切れかけた街灯の下に、女の子が立っていた。


 小学生ぐらいだろうか。


 白いブラウスに、紺色のスカート。


 長い黒髪。


 こんな夜の路地にいるには、あまりにも場違いだった。


「…君、何してるんだ」


「亮平さんこそ」


 女の子は俺を見て、にこりと笑った。


「悪い人を怒ってたんだよね?」


 俺は息を呑んだ。


 名前を呼ばれた。


 名乗っていないはずなのに。


「なんで俺の名前を」


「書いてあったよ」


 女の子は俺のスマホを指差した。


 確かに、アカウント名には本名に近い文字列を使っている。


 俺は少しだけ警戒を解いた。


「……勝手に見るなよ」


「ごめんなさい」


 女の子は素直に頭を下げた。


 それから、楽しそうに笑みを浮かべた。


「でも、すごかったから」


「何が」


「みんな、亮平さんのこと褒めてた」


 その声は、妙に甘かった。


「悪い人に、ちゃんと悪いって言えるんだね」


 俺は何も言えなかった。


 路地の空気が冷たい。


 なのに、胸の奥だけが少し温かくなる。


「普通だろ」


「普通じゃないよ」


 女の子は首を横に振った。


「みんな、見て見ぬふりするもん。悪い人がいても、怖くて何も言わない」


「そうなんだよ!」


 俺は思わず言った。


「みんなさ、自分が安全な場所にいたいだけなんだよ。悪いことを悪いって言うのすら怖がる。叩きすぎはよくないとか、事情があるかもしれないとか、そうやって逃げる」


「亮平さんは逃げないんだ」


「逃げない」


 女の子は笑った。


 その笑みは、子供らしい無邪気さと、どこか薄暗い楽しさが混じっていた。


「かっこいいね」


 その言葉は、驚くほど深く刺さった。


 かっこいい。


 そんなことを言われたのは、いつ以来だろう。


「君、名前は?」


「綾乃」


 綾乃は小さく笑った。


「亮平さんは、悪い人が許せないんだね」


「……まあな」


「いいことだよ」


 綾乃は楽しそうに目を細めた。


「もっとやった方がいいよ」


 俺は眉を動かした。


「もっと?」


「うん」


 綾乃は一歩近づいた。


 濡れた路地に、靴音はしなかった。


「悪いことをした人って、すぐ逃げるでしょ。謝ったふりして、消して、被害者みたいな顔して」


「そうだな」


「だから、ちゃんと言ってあげないと」


 綾乃は笑っていた。


 とても楽しそうに。


「あなたは悪い人なんだよって」


 翌日から、俺の投稿はさらに増えた。


 朝起きてすぐ。


 通勤電車の中。


 昼休み。


 トイレの個室。


 退勤後。


 俺は配信者の炎上を追い続けた。


 謝罪動画が出た。


 顔色の悪い男が、震える声で頭を下げていた。


 俺はその動画を見て、腹が立った。


 声が小さい。


 目が泳いでいる。


 本当に反省しているようには見えない。


『泣けば許されると思ってそう』


『被害者の老人には直接謝ったのか?』


『活動休止じゃなくて引退しろ』


 指が止まらなかった。


 その夜も、俺は同じ路地で綾乃に会った。


 雨は降っていないのに、路地の地面は濡れていた。


 綾乃は街灯の下に立っていた。


 まるで、最初からそこで俺を待っていたみたいに。


「今日はどうだった?」


 綾乃が聞いた。


 俺はスマホを見せた。


 綾乃は画面を覗き込み、嬉しそうに笑った。


「すごい。いっぱい見られてる」


「別に、数字が欲しいわけじゃない」


「でも、たくさんの人に届くのはいいことだよ」


 綾乃は楽しそうに言った。


「悪い人に、ちゃんと悪いって教えてあげられるんだもん」


 そうだ。


 教えているのだ。


 社会には、許されないことがあると。


 人を傷つけたら、自分も責任を取るべきだと。


「もっとわかりやすくしたら?」


 綾乃が言った。


「わかりやすく?」


「文字だけじゃ、見ない人もいるでしょ」


 綾乃は笑っていた。


 楽しそうに。


「動画にするとか」


 俺は一瞬、黙った。


 動画。


 考えたことはあった。


 炎上の流れをまとめて、何が悪いのか解説する。証拠を並べて、逃げ道を塞ぐ。感情的に叩くのではなく、正論で追い詰める。


 需要はあるはずだった。


「でも、動画は面倒だし」


「亮平さんならできるよ」


 綾乃は励ます様に言った。


「だって、正しいことをしてるんでしょ?」


 その言葉に、背中を押された。


 俺はその夜、ほとんど眠らずに動画を作った。


 配信者の炎上について、時系列でまとめた。


 動画の切り抜き。


 謝罪文。


 過去の発言。


 家族が出した投稿。


 それらを並べ、字幕を入れ、ナレーションをつけた。


 自分の声を入れるのは少し恥ずかしかった。


 だが、録音してみると、思ったより悪くなかった。


「これは単なる炎上ではありません。加害者が被害者面をし、批判者を黙らせようとする典型例です」


 言葉にすると、自分が何か大きな役割を背負っている気がした。


 俺は動画を投稿した。


 最初は反応が少なかった。


 だが、翌朝には伸びていた。


 再生数が一万を超えた。


 コメントがつく。


『わかりやすい』


『こういうまとめ助かる』


『この人の動画、正論すぎる』


『もっとやってほしい』


 会社のトイレでそれを見た時、思わず笑いそうになった。


 俺の言葉が、映像になって広がっている。


 ただの投稿より、ずっと強い。


 その夜、綾乃に見せると、彼女は声を出して笑った。


「すごい、すごい!」


 手を叩きそうなほど楽しそうだった。


「亮平さん、裁判官みたい」


「裁判官?」


「うん。悪い人をみんなの前に連れてきて、これは悪い人ですって教える人」


 胸が熱くなる。


「そんな大げさなもんじゃない」


「でも、みんな見てるよ」


 綾乃は画面を指差した。


「ほら。また増えてる」


 通知が止まらない。


 コメント欄には、配信者への罵倒が並んでいた。


 消えろ。


 戻ってくるな。


 人生終われ。


 俺は少しだけ眉をひそめた。


 やりすぎじゃないか。


 一瞬、そう思った。


 だが、綾乃が隣で笑った。


「悪い人なんだから、仕方ないよね」


 その一言で、迷いは消えた。


 そうだ。


 悪いのはあいつだ。


 俺ではない。


 それから俺は、炎上する人間を取り上げる動画を作るようになった。


 不倫したインフルエンサー。


 客に暴言を吐いた店員。


 盗作疑惑の絵描き。


 過去のいじめを告発された俳優。


 俺は誰に対しても、正しいことを言った。


 謝っても許さない。


 消しても掘り返す。


 逃げたら追う。


 動画の最後には、決まってこう言った。


「本当に反省しているなら、批判を受け止めるべきです」


 その言葉は、俺の決め台詞になった。


 登録者は増えた。


 収益も少し入った。


 会社の給料よりは少なかったが、数字が増えるたび、俺は自分が認められている気がした。


 会社では相変わらずだった。


 上司には注意され、後輩には距離を置かれ、会議では発言を流される。


 でも、もうどうでもよかった。


 俺にはネットがある。


 俺の言葉を待っている人たちがいる。


 俺にしかできない役目がある。


 ある夜、路地で綾乃が言った。


「亮平さんって、優しいね」


綾乃はゴミ箱の上に座って踵で規則的に叩く。


「優しい?」


「だって、見捨てないで怒ってあげてるんでしょ」


 俺は黙った。


 怒ることが優しさ。


 その考えは、今まで自分でもうまく言葉にできなかったものだった。


「本当にどうでもよかったら、何も言わないもんね」


「そうだな」


「だから、もっと言ってあげた方がいいよ」


 綾乃は楽しそうに笑っていた。


「その人が、ちゃんと壊れるまで」


 ドンッ、と綾乃が踵でゴミ箱を蹴る音が響く。


 壊れるまで。


 その言葉に、一瞬だけ引っかかった。


 だが、すぐに思い直した。


 比喩だ。


 悪い考えが壊れるまで、という意味だろう。


 そう受け取ることにした。


 次に大きく伸びたのは、小さな飲食店の店主を取り上げた動画だった。


 店主が客に対して差別的な発言をしたという音声が拡散されていた。


 証拠は短い音声だけ。


 前後の流れはわからない。


 店主はすぐに謝罪文を出した。


 だが、謝罪文には「誤解を招く表現」と書かれていた。


 俺はその一文に反応した。


 その夜、動画を作った。


「これは誤解ではありません。差別です」


 字幕を大きく出した。


 店の名前。


 謝罪文。


 過去の口コミ。


 店主の顔写真。


 俺はそれらを並べ、淡々と語った。


「こういう人間が何事もなかったように商売を続けられる社会でいいのでしょうか」


 動画は伸びた。


 店のレビュー欄が荒れた。


 電話番号が晒された。


 翌日、店は臨時休業になった。


 俺はそれを見て、少しだけ胸がざわついた。


 小さな店だった。


 従業員もいるだろう。


 潰れたら困る人もいるかもしれない。


 だが、その夜、綾乃は今までで一番楽しそうに笑った。


「すごいね」


「何が」


「亮平さんの動画で、お店が閉まったんでしょ」


「自業自得だろ」


「でも、亮平さんが言ったから広がったんだよ」


 綾乃は目を細める。


「悪い人を、ちゃんと罰してあげたんだね」


「…悪いことをしたからだ」


「うん」


 綾乃はにっこり笑った。


「悪いことした人は、裁かれるべきだもんね」


 俺は何も言わなかった。


 反論できなかった。


 俺は似たようなことを、何度も言っていた。


 社会的に終わるべき。


 消えるべき。


 人生をかけて償え。


 言葉は違っても、意味は同じだった。


 数日後、知らないアカウントから通知が来た。


『お前の動画、名誉毀損で動かれてるらしいよ』


 最初は笑った。


 脅しだと思った。


 炎上した奴らは、すぐに法的措置と言う。


 都合が悪くなると、被害者ぶる。


 俺は動画を出した。


「批判された側がすぐに法的措置をちらつかせる問題について」


 怒りを抑えた声で語った。


「これは批判封じです。悪いことをした人間が、自分への批判を封じ込めようとしているだけです」


 コメント欄は盛り上がった。


『亮平さん負けるな』


『これは圧力』


『正しい人ほど狙われる』


 その夜、路地で綾乃に見せると、彼女は嬉しそうに口元を吊り上げた。


「すごいね。相手、怖がってるんだ」


「だろ」


「亮平さんが正しいことを言ったから、困ってるんだよ」


 綾乃の声は優しかった。


 けれど、その笑顔はずっと楽しそうだった。


「負けちゃだめだよ」


「わかってる」


「ここで黙ったら、悪い人が勝っちゃう」


 俺は頷いた。


 その日から、俺はさらに強い言葉を使うようになった。


 開示請求をしてきた相手についても、動画で触れた。


 名前は出していない。


 だから問題ないと思った。


「反省せずに批判者を脅すのは、加害者の常套手段です」


 そう言って、俺はまた相手を責めた。


 だが、数日後、プロバイダから封筒が届いた。


 意見照会書。


 文字を読んでも、すぐには意味がわからなかった。


 手が震えた。


 俺の投稿や動画が、権利侵害にあたる可能性がある。


 発信者情報の開示を求められている。


「……は?」


 声が漏れた。


 俺は悪くない。


 俺は正しいことを言っただけだ。


 悪いのは、あいつらだ。


 なのに、どうして俺が。


 その夜、路地へ向かった。


 綾乃はいた。


 街灯の下で、楽しそうに足を揺らしていた。


 俺は封筒を見せた。


「これ、どう思う」


 綾乃は紙をじっと見たあと、笑った。


「すごいね」


「すごい?」


「だって、相手が怖がってるってことでしょ」


 俺は息を吐いた。


「そう、だよな」


「うん。亮平さんが正しいこと言ったから、困ってるんだよ」


 綾乃は笑っていた。


「悪い人って、すぐ黙らせようとするよね」


 胸の奥にあった不安が、少しだけ薄れた。


 そうだ。


 これは圧力だ。


 正しい声を封じようとしているだけだ。


「もっとやらないと」


 綾乃が言った。


 その声は弾んでいた。


「ここでやめたら、亮平さんが間違ってたみたいになっちゃうよ」


 俺は頷いた。


 そうだ。


 やめられない。


 ここでやめたら、俺はただの加害者になる。


 俺は正義でなければならない。


 俺は新しい動画を作った。


 今までで一番感情的な動画だった。


 相手の矛盾を並べた。


 謝罪の不自然さを指摘した。


 過去の投稿を読み上げた。


 そして最後に言った。


「批判から逃げるな。自分のしたことに責任を取れ」


 動画は大きく伸びた。


 同時に、反対する声も増えた。


『これはさすがにやりすぎ』


『家族まで巻き込むのは違う』


『批判と誹謗中傷は別』


 俺は苛立った。


 安全な場所から綺麗事を言う奴ら。


 悪人に甘い奴ら。


 俺は一つ一つ反論した。


 寝る時間が減った。


 仕事中もスマホを見た。


 上司に注意された。


 俺は謝ったが、内心では笑っていた。


 お前らにはわからない。


 俺は今、社会のために戦っている。


 そんなある朝、俺の本名が晒された。


 最初に気づいたのは、通勤電車の中だった。


 見知らぬアカウントが、俺のアカウント名と本名らしきものを並べて投稿していた。


 住所の市区町村。


 勤務先。


 過去に使っていたブログ。


 大学名。


 顔写真。


 心臓が止まるかと思った。


 画面を閉じた。


 でも、通知は止まらない。


『こいつだったのか』


『会社に通報した』


『顔、想像通りすぎる』


『正義マンの末路』


『人の人生潰してたんだから、自分も潰されて当然』


 手が冷たくなる。


 息がうまく吸えない。


 駅のホームで立ち尽くしていると、スマホが震えた。


 会社からだった。


 今日は在宅にしてほしい。


 事情を確認したい。


 その文面を見た瞬間、膝から力が抜けた。


 俺はそのまま引き返した。


 家に着くまでの記憶は曖昧だった。


 部屋に入って鍵をかけ、カーテンを閉めた。


 スマホを見る。


 炎上は広がっていた。


 俺の過去の投稿が掘り返されている。


 学生時代の愚痴。


 職場への不満。


 女性への偏見じみた発言。


 昔の顔写真。


 何もかもが晒されていた。


 俺は震える指で投稿した。


『これは明らかな個人情報の拡散です。やめてください』


 すぐに返信がついた。


『自分がやってきたことじゃん』


『悪いことした人は晒されても仕方ないんだよね?』


『逃げるな』


『被害者面すんな』


 吐き気がした。


 違う。


 俺は違う。


 俺は悪人を批判していただけだ。


 これはただの嫌がらせだ。


 だが、誰も聞いてくれなかった。


 夜になって、路地へ向かった。


 誰か見てるかもと思うと怖かった


 でも、綾乃に会えば落ち着く気がした。


 綾乃だけは、俺をわかってくれる。


 そう思っていた。


 路地は暗かった。


 街灯が切れかけている。


 その下に、綾乃が立っていた。


 白いブラウスが、闇の中でぼんやり浮かんでいた。


「綾乃」


 声が震えた。


「大変なことになった」


「知ってるよ」


 綾乃は笑っていた。


 いつものように。


 楽しそうに。


「亮平さん、有名になったね」


「ふざけるな」


 思わず強い声が出た。


 綾乃は首を傾げた。


「どうして怒ってるの?」


「俺が晒されたんだぞ」


「うん」


「会社にも連絡された。顔も名前も出された。家の近くまで」


「悪いことした人なんでしょ?」


 綾乃は不思議そうに言った。


「叩かれて当然じゃないの?」


 背筋が凍った。


「……何言ってるんだ」


「だって、亮平さんが言ってたよ」


 綾乃は笑う。


「悪いことした人は、社会的に終わらないとわからないって」


「俺は悪いことなんかしてない」


「でも、みんな言ってるよ」


 綾乃はスマホを取り出した。


 いつの間に持っていたのかはわからない。


 画面には、俺への罵倒が流れていた。


『人を追い詰めてた正義マン』


『自業自得』


『こいつの会社に苦情入れた』


『逃がすな』


 綾乃は楽しそうに読み上げる。


「みんな亮平さんが悪いって」


「違う」


「じゃあ、みんな間違ってるの?」


「そうだ」


「亮平さんが叩いてた人たちも、そう思ってたかもね」


 息が止まった。


 綾乃は画面を閉じる。


「ねえ、亮平さん」


 声が甘くなる。


「正義なんだよね?」


「…」


「あれ? どうして正義が叩かれてるのかな?」


 何も言えなかった。


 頭の中で、今まで自分が書いてきた言葉が渦を巻いていた。


 被害者面するな。


 自業自得。


 逃げるな。


 社会的に終われ。


 消えろ。


 それらが全部、俺に向かって飛んできている。


「亮平さんの論理なら」


 綾乃はゆっくり近づいてきた。


「こういう人を叩くの、正義なんだよね?」


「やめろ」


「人のことを何度も傷つけて、反省しないで、自分が責められたら被害者みたいな顔をする人」


「やめろ」


「亮平さん、そういう人嫌いだったよね?」


 綾乃は俺の目を覗き込んだ。


「ほら、叩かないと」


 その声は、笑いを含んでいた。


「悪い人なんだから」


 俺は後ずさった。


 路地の壁に背中が当たる。


 冷たかった。


「違う……俺は……」


「正しいことをしただけ?」


 綾乃が笑う。


「みんなもそう言ってるよ。亮平さんを叩いてる人たち」


 耳を塞ぎたかった。


 でも、手が動かなかった。


「正義って便利だね」


 綾乃はくすくす笑う。


「どれだけ人を傷つけても、自分は正しいって思えるんだもん」


「俺は……」


「気持ちよかった?」


 その一言で、胸の奥が裂けた気がした。


「悪い人を見つけて、みんなで囲んで、謝っても許さなくて、泣いても叩いて」


 綾乃の声は弾んでいた。


「動画まで作って」


 息が詰まる。


「みんなに見せて」


 綾乃は楽しそうに笑った。


「これは悪い人ですって、教えてあげて」


違う


「ねえねえ、楽しかった?」


違う


「再生数が増えると嬉しかったよね?」


違う


「コメントで褒められると、胸がぽかぽかしたよね」


「違う!」


 俺は叫んだ。


 路地に声が響く。


「じゃあ、どうしてやめなかったの?」


 その問いに、答えられなかった。


 翌日、会社から連絡が来た。


 しばらく出社しないでほしい。


 聞き取りをしたい。


 社内にも問い合わせが来ている。


 迷惑をかけている自覚はあるか。


 俺は電話口で謝った。


 何度も謝った。


 電話を切ったあと、床に座り込んだ。


 スマホは鳴り続けている。


 知らない番号からの着信。


 罵倒のDM。


 晒し投稿。


 俺を笑うまとめ。


 俺の動画を切り貼りして馬鹿にする動画まで作られていた。


 俺の声が、変な字幕と一緒に流れている。


『批判から逃げるな。自分のしたことに責任を取れ』


 その言葉が、俺自身に向けられている。


 コメント欄には笑い声が並んでいた。


 俺の人生が、知らない誰かの暇つぶしになっていた。


 俺は投稿を消そうとした。


 だが、もう遅かった。


 全部保存されていた。


 消したことすら叩かれた。


『逃亡開始』


『証拠隠滅』


『謝罪まだ?』


 俺は震えながら謝罪文を書いた。


『この度は、私の投稿および動画により多くの方に不快な思いをさせてしまい――』


 途中で手が止まった。


 不快な思い。


 俺が今まで馬鹿にしてきた言葉だ。


 そんな軽い謝罪で済むと思うな。


 自分でそう言ってきた。


 俺は何を書けばいいのかわからなくなった。


 夜、部屋の隅で膝を抱えていると、声がした。


「謝らないの?」


 顔を上げる。


 綾乃がいた。


 玄関の鍵は閉めたはずだった。


 窓も開けていない。


 なのに、彼女は部屋の中に立っていた。


 白いブラウス。


 紺色のスカート。


 楽しそうな目。


「……出ていけ」


「悪いことしたら謝らないとだめだよ?」


「出ていけ!」


 綾乃は笑った。


「怖い顔」


 俺は立ち上がった。


 だが、足に力が入らない。


 綾乃は部屋の中を歩き回りながら、俺のスマホを拾った。


「いっぱい来てる」


「見るな」


「ねえ、見てこれ」


 綾乃は画面を俺に向けた。


『こういう奴は一生ネットに戻ってくるな』


「亮平さんも、同じこと言ってたよね」


「…」


「これも」


『会社クビになったらしい。ざまあ』


「人が困ってるのを見ると、みんな嬉しいんだね」


 綾乃は首を傾げる。


「ねえねえ、亮平さんも嬉しかった?」


 俺は耳を塞いだ。


 でも、声は入ってくる。


「ねえ」


「やめろ」


「正義って、気持ちよかった?」


「やめろ」


 涙が出た。


 悔しくて、怖くて、惨めで、息ができなかった。


 俺は正しかったはずだ。


 悪い奴を悪いと言っただけだった。


 なのに、どうして俺がこんな目に遭う。


 どうして誰も助けてくれない。


「助けてほしいの?」


 綾乃が心配そうな声で聞いた。


 俺は顔を上げた。


 綾乃は、優しく心配そうな顔をしていた。


 一瞬だけ、最初に路地で会った時の彼女に戻ったように見えた。


「……助けてくれ」


 声が掠れた。


「お願いだ」


 綾乃は微笑んだ。


「どうして?」


 その声は冷たかった。


「悪い人なんでしょ?」


 俺は何も言えなかった。


 綾乃はスマホを床に置いた。


 画面には、俺を叩く投稿が流れ続けている。


「亮平さんが教えてくれたんだよ」


 綾乃は言った。


「悪い人は、許しちゃいけないって」


 部屋の空気が重くなる。


 息を吸うたび、胸の奥に泥が流れ込むようだった。


「ねえ、亮平さん」


 綾乃が近づいてくる。


「責任、取らないの?」


 その言葉が、最後だった。


 俺の中で、何かが折れた。


 翌朝まで、俺はスマホを見続けた。


 通知は減らなかった。


 謝っても、消しても、黙っても、何も変わらない。


 俺が誰かに向けた言葉が、形を変えて戻ってくる。


 自業自得。


 逃げるな。


 責任を取れ。


 社会的に終われ。


 俺は、自分の投稿履歴と動画を見た。


 そこには、知らない誰かを裁く俺がいた。


 偉そうに。


 気持ちよさそうに。


 正義の顔をして。


 吐き気がした。


 画面の向こうで、綾乃が笑っている気がした。


 いや、実際に笑っていた。


 部屋の隅に、彼女は座っていた。


 足をぶらぶらさせながら。


「亮平さん」


 綾乃が言う。


「みんな待ってるよ」


「何を」


「責任」


 俺は笑った。


 乾いた、変な笑いだった。


 もう、何も残っていなかった。


 会社も。


 名前も。


 顔も。


 今まで積み上げたものも。


 正しい自分も。


 全部、壊れていた。


「ほーら、早く責任とって」


「なあ、綾乃」


「なに?」


「俺は、悪い人間だったのか」


 綾乃は少し考えるように首を傾げた。


「ううん」


 意外な答えだった。


 俺は顔を上げる。


 綾乃はにっこり笑った。


「頭悪いだけだよ」


 それは、悪い人間と言われるよりきつかった。


 俺はゆっくり立ち上がった。


 スマホが震える。


 新しい通知。


 誰かが俺を罵っている。


 誰かが俺を笑っている。


 誰かが俺に責任を求めている。


 俺はもう見なかった。


 窓の外は、薄く明るくなり始めていた。


 朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいる。


 綾乃の鼻歌が聞こえた。


 明るくて、楽しそうで、場違いな歌だった。


 俺は、最後にもう一度だけ振り返った。


 綾乃は俺を見ていた。


「ねえ」


 彼女は笑う。


「正義の人なんだから、ちゃんと終わらせないとね」


 その言葉を聞いて、俺は目を閉じた。


 もう何も考えたくなかった。


 通知の音だけが、いつまでも鳴っていた。


 その後のことは、よく覚えていない。


 ただ、最後に聞こえたのは、綾乃の声だった。


「正義って」


 くすくすと笑う声。


「本当に便利だね」


 朝になっても、スマホの画面は光り続けていた。


 そこには、俺の最後の投稿に群がる人々の言葉が並んでいた。


『逃げたな』


『最後まで被害者面』


『自業自得』


『まあ、こうなると思ってた』


『正義マンの末路』


 誰も止まらなかった。


 誰も悼まなかった。


 ただ、新しい話題を見つけたみたいに、俺のことを語っていた。


 その画面の前で、綾乃はしばらく楽しそうに眺めていた。


 やがて飽きたように立ち上がる。


 白いブラウスの裾を軽く払って、玄関へ向かう。


 扉を開ける前に、彼女は一度だけ振り返った。


 そして、吊られた俺に向かって、小さく手を振った。


「ばいばい、正義の人」


 扉が閉まる。


 通知の音だけが、まだ鳴っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ