第33話 一杯の珈琲
この町に来ると毎回『時つ』で珈琲を飲む。すっかり常連客だ。
店名の由来を聞いてみたところ、“時津風”という風の名前からとったそうだ。ほどよい頃に吹く風のことで、”順風“という、めでたい意味で使われるから採用したと言っていた。
基本、平日に立ち寄るからお客さんは少ない。
店内の珈琲の香りに癒されながら店主に挨拶した。
いつもと同じ席につき、珈琲とサンドイッチを頼んで置いてあった雑誌を読む。
この店の店主は、ソラのことを覚えてくれている。今回も聞かれるかもしれないな……と思った矢先だった。
「今日は猫ちゃん連れていないんですね」
机に、注文した品を置きながら話しかけてきた。
「今日は図書館に行っていたので、留守番してもらっています」
魔術に関して探しているときも図書館には行ったけど、今日はずっと居座るつもりだったから、さすがに連れて来られなかった。
「ごゆっくり」と、言われて戻っていく店主の背中を見送った。
机に目を向けると、出されたサンドイッチはハムが挟まれた素朴なものだった。
パン生地は指の跡がつきそうなほどやわらかい。
かじった瞬間、マスタードの風味が口に広がった。ピリッとした刺激のあとに、ハムの塩気がふわっと溶ける。
うまい。
思わず肩の力が抜けて、自然と頬がゆるむ。
そして、珈琲は相変わらず絶品だった。
酸味のある珈琲はあまり得意じゃないと好みを伝えたら、豆の配分を変えてくれた。豊かな香りとコク、苦味、そして爽快感のある味わいが絶妙な一杯で、一口飲めば心がほぐれていくのが自分でもわかった。
ふと顔を上げると、店長の前にいた客が席を立つところだった。
店にあった雑誌にはいろんな喫茶店の特集がされており、この店のことも載っていた。
おいしい珈琲の入れ方や、珈琲に合う簡単おやつの作り方が書かれている。
おやつ――といえば、この店の動物用のお菓子、ソラは気に入ってたな。
……店主に配合を尋ねてみてもいいのだが、なんとなく言い出せない。ああいうのって、企業秘密みたいなものだから余計に。
会計のとき、店主がそっと紙袋を差し出してくれた。なんと中にはあのお菓子が。
店主にお礼を言い、店を出て再び図書館に向かう。
いくつか再現できそうな魔法があったし、本を借りて家でやってみよう。なんでもいいから、お嬢ちゃんにかけられた魔術の効果を打ち消せるような魔法があればいいのだけど。
――焦っても仕方がない。
そう思うのに、胸の奥にある焦燥感は消えない。
癒されたはずなのに、心の奥だけは休まらなかった。
彼女の笑顔を思い浮かべ、深く息を吐いた。
こればっかりは、練習あるのみ。
腕を真上に伸ばして、思いっきり背伸びする。
風が穏やかに吹いている。雲が徐々に分厚くなり、山の方から雨のにおいが漂ってくる。
湿った風が頬をなで、肌寒さを感じた。灰色の雲がゆっくりと重なり合う。
もはや体の一部になっている朱色の和傘を手に取り、来たる雨に向けて傘を開いた。




