命を救ったラーメン
もう、全部終わりにしよう。
胸裏で蠢くドス黒い膿が、一際強く脈打った。
薄暗い夜空に真珠のような満月が浮かんでいる。春と夏の端境期にある今の時期、昼間は暑くても夜は冷える。
その冷たさが、決意を強く結ばせた。
この世に”希望”はない──。
いつも通り終電を逃した私は、タクシーを拾う。
車内は暖房が効いており、外との温度差が激しい。思わず顔をしかめながら乗車した。
「お客さん、どちらまで?」
壮年の小太りな運転手の言葉に、私は抑揚のない声で返す。
行き先を伝えると、運転手はルームミラー越しに目を丸くした。
「どうしてそんな場所に?」
運転手の疑問は当然だろう。
そこは、誰もが口にしたがらない場所である。
「……関係ないでしょう」
とはいえ、答える義理はない。
愛想のない返事を聞いた運転手は、何も言わずタクシーを走らせた。
ふと、窓の外を見る。
月明かりが照らす、見慣れた街の光景。
薄らと、暗い影を纏った自分の表情が窓ガラスに浮かんだ。
醜悪だ。
絶念に塗れた、腐った泥のような顔。
最早自分の顔すら、嫌いになっていた。
だが、それもあと少しで終わる……。
そう思うと、視界がわずかにぼやけ、目尻が熱くなる。
車内はしっかりと暖かいのに、私の体は一向に温まる気配がなかった。
タクシーはしばらく走った後、赤信号で停車する。
あとどれくらいで着くだろうか。窓の外へ向けていた視線を車内に戻すと、私の視線はある一点に注がれた。
走行距離と金額が表示される料金メーター。
そこに運転手の太い指が伸ばされ──どういうわけか、『支払い』ボタンを押そうとしていた。
当然ながら、タクシーはまだ目的地に到着していない。
驚きのあまり、私はぎょっとして顔を上げる。
支払いボタンの前で指は一瞬止まった。しかし、運転手が意を決したように深呼吸すると再び指が動き出し、そのままボタンに触れてしまう。
つまりそれは、メーターを止めたということ。
これにより、料金はここまでの走行距離で確定となってしまったのだ。
「お客さん、お代は結構なんで、飯でも食いに行きませんか?」
私が目を見開いていると、小さな笑みを浮かべた運転手がこちらに振り返っていた。
「近くに行きつけのラーメン屋があるんですよ。味は、私が保証しますぜ」
確か、走行中にメーターを止めるのは立派な違反行為だと聞いたことがある。多くの場合、差額分などは自己負担になるとも。
(…………まあ、どうでもいいな)
たじろいだ私だったが、「お好きなように」ともう一度素っ気なく返した。
どうせ、もうすぐ終わるのだ。支払いや自腹の有無など、私の知ったことではない。
「よっしゃ」と運転手が呟いたのと、信号が青に変わったのは同時だった。
アクセルを踏まれたタクシーは、本来の目的地から逸れていく。
店にはものの数分で到着した。少し歩くと言われ、駐車と同時にドアが開いた。
タクシーを降りた矢先、容赦のない冷気に襲われる。
それと一緒に、鼻腔をくすぐる香ばしい匂いに気づいた。
「あちらです」
運転手についていくと、ほんのりと明るい光が見えた。
だが、店に着いた私はまた目を見開いた。
なんと、彼の行きつけだという店は、この時代に大変珍しい”屋台”のラーメン屋だったのだ。
普通のお店に入るとばかり思っていた。
赤い暖簾と提灯が特徴的なリアカーで、光の発生源もここだ。
すぐ近くにテーブル席が2つほどあり、よく見るとカウンターは2〜3人座れば満席になるほど狭い。カウンターから溢れた客はそちらへ座るのだろうが、私たち以外に客の姿は見受けられなかった。
「大将”いつもの”! 今日は2つな」
暖簾をくぐりながら、私と運転手はカウンターへ座った。
「はいよ!」と40代くらいの男性──店主が威勢の良い声を上げた。
それにしても、”いつもの”で注文できるあたり、なるほど。
行きつけの店というのも頷ける。
「へへ、ここは深夜まで営業しているんで、仕事帰りによく来るんでサァ」
「…………どうして、私をここへ連れてきたんですか」
どこか楽しそうな表情を浮かべる運転手へ向かって、私はずっと疑問に思っていたことを質問した。
道中考えていたが、やはり分からない。
何故彼がルール違反をしてまで、私を食事に誘ったのかが。
まさか、屋台のラーメンを食べて欲しいから、なんて理由ではないはずだ。
運転手は私の問いにはすぐに答えず、お冷を口に含んだ。
テキパキと動く店主を見ながら、私は返事を待つ。
外の冷たい空気と、厨房からの熱気を帯びた空気が入り混じる。
永遠にも思える沈黙の後、店主が具の盛り付けを始めたところで、ようやく彼は口を開いた。
「私は、辛いことや悲しいことがあると、いつもここへ来るんです」
どきり──と。
心臓が跳ねた。
「いやあ、私は単純でしてねぇ。嫌なことがあっても、ここのラーメンを食べるとぜーんぶ忘れちまうんですよ」
「………………」
運転手の言葉は鮮明に鼓膜へ響き、私の心をざわつかせた。
パズルのピースがはまるように、静かに言葉が染み渡る。
何だか、心のうちを見透かされたかのような話に──全身の神経が逆立つようだ。
辛いこと。
悲しいこと。
嫌なこと。
そんなの、私だって耐えきれないほど味わってきた。
けれど、それらは鎖のように私を縛り上げ、肌に食いつくようにして離れない。
それが、ラーメンを食べたら忘れられる?
馬鹿馬鹿しい。都合が良すぎる。
ふざけるなよ──と心の中で悪態を吐いていると、
「お待たせしました、”いつもの”です!」
目の前にそっと丼が置かれた。
いつもの、とは醤油ラーメンのことだった。
淡い琥珀色のスープに、麺が波のように浮かび、ふわりとした湯気が荒んだ心を落ち着かせる。
来た来た、と待ち侘びた様子で運転手が食べ始めたので、私もそれに倣う。
レンゲでスープを掬い、一口飲んでみた。
見た目よりも濃い味付けで、出汁のような風味が醤油の味を際立たせる。
駐車場まで届いていた香りと同じ……煮干しの味だ。
だが、それよりも、じんわりと底抜けに優しい、暖かな味であった。
今まで冷えていた体が、芯から温まっていく。
……こうやってゆっくりと食事をするのは、いつぶりだろうか。
気づけば箸が止まらない。
麺を啜る音に混じって、横から運転手の声も聞こえてきた。
「人生って、難しいですよね。私も昔、何もかもが嫌になった時期がありました」
でもね、と彼は続ける。
「どんなに暗い闇の中でも、ほんの小さな光……”希望”があれば、前に進むことができる」
ああ、ようやく分かった。
彼が何故、私をここへ連れてきたのか。
「”希望”って、イイもんですぜ。ここは私にとっての、”希望”なんです」
冷え切っていた体は、すっかり温まっていた。
しかし、元よりしょっぱめなスープは、食べ進めるごとにもっとしょっぱくなっていく。
……きっと、頬を伝う雫が原因だろう。
スープまで完飲した私に、運転手は再度話しかけてきた。
「あと、ここは毎月初めに、新作ラーメンを限定商品として出してるんです。だよな、大将?」
「ええ。来月は塩レモンのラーメンを出そうかと」
塩レモンのラーメン。
聞くだけで美味しそうだ。
「また、来たいなぁ……」
紛れもない本音だった。
震える声が漏れた私の肩に、運転手の無骨で暖かな手が置かれる。
「いつでも呼んでください。連れてきますよ」
口直しに、私もお冷を飲もうとしてコップを手に取った。
よく冷えた水面に顔が映る。
そこにいた私は、爽やかな笑顔を浮かべていた──。