第59話 壊滅の村と逃避行
夜が落ちるのは、いつも突然だった。
けれどその夜は、黒い帳が降りるより先に、紅い光が村を呑み込んだ。
――燃えている。
火柱が揺らめき、家々の屋根を灼いていく。
悲鳴と、怒鳴り声と、刃が肉を裂く鈍い音が、耳を塞いでも突き刺さるように届いた。
「リィナ! こっちだ!!」
兄の声が、焼け焦げた空気の中で呼んでいた。
まだ十三歳の少年の背は、それでも幼い妹を庇うには充分に広く見えた。
けれど、震えていたのは妹だけではない。
「ガイル……こわい、こわいよぉ……!」
六つになったばかりのリィナの手は、兄の腕を掴んだまま、力なく滑った。
足元に転がったのは、さっきまで息をしていた隣家の青年の腕だった。
視界が真っ赤に滲む。
熱気と恐怖が混ざって、泣き声すら喉でつかえた。
「泣くな! しっかり目を開けろ、リィナ!!」
ガイルが肩を抱え、無理やり立たせる。
「母さんは……父さんは……」
「わからない。けど、探してる暇はない!」
村の西端、古い畑の先の道が、わずかに開けている。
そこを抜ければ――あの街にたどり着ける。
だが、その道も炎に照らされていた。
瓦礫と血にまみれ、斬り倒された村人の骸で埋め尽くされていた。
「……ガイル、いや、いきたくない……!」
リィナの声は、かすれた小鳥の鳴き声みたいだった。
「いいから……!」
「いや……っ!」
ごう、と熱風が逆巻いた。
暗闇の向こう、燃え残った納屋の屋根に、黒い鎧の影が数人立っている。
仮面を被った男が、無造作に松明を放り投げた。
炎に照らされて覗いたのは、牙の紋章。
――鉄牙団。
その名を知っていた。
流浪の盗賊団。
血を啜り、村を灼いて略奪し、女も子供も殺す外道の群れ。
「ガイル……いや……来る……!」
「走れ!!」
兄は妹の腕を引き、無理やり駆け出した。
その瞬間、背後から響いたのは家が崩れる轟音と、哄笑と、何人もの悲鳴だった。
泣く暇はなかった。
叫ぶ余裕もなかった。
ただ足を、前に。
どれだけ走ったのか分からない。
地面がぐらぐらと揺れ、膝が割れるほど痛かった。
でも立ち止まったら、追いつかれてしまう。
足を止めたら、今度こそ全部が終わる気がした。
いつの間にか、空には星が出ていた。
赤くも、黒くもなく、ただ冷たい光だけが遠く瞬いていた。
「……リィナ」
ようやく人影のない畦に辿り着いたとき、ガイルは妹を抱きしめて、そのまま崩れるように座り込んだ。
リィナの頬に、兄の涙が落ちるのが分かった。
「……ごめん。父さんも、母さんも……助けられなかった」
「……いや、いやだ……やだよぉ……っ」
小さな拳で、兄の胸を叩いた。
何度も何度も、息ができなくなるまで叩いた。
でも、ガイルは一度も拒まなかった。
その背中は、泣きじゃくる妹を抱きしめながら、夜の冷たさに震えていた。
――もう、戻れない。
その夜、二人は村を喪った。
父母も、家も、昨日までの暮らしも、すべて炎と盗賊の刃に呑まれた。
それでも夜が明けると、太陽は何事もなかったように昇った。
焼け焦げた匂いも、血の跡も、眩しい光にさらされていく。
「……行こう、リィナ」
「どこへ……?」
「街へ。ラトールなら……きっと、食べ物と屋根くらいはある」
声は震えていたが、兄はもう泣いていなかった。
小さな手を強く握りしめたまま、前を向いていた。
リィナも震える指を伸ばし、その手を握り返した。
歩き出したその足は、どこまでも弱々しく、頼りなかった。
けれど、そのとき二人を繋ぐ手だけは、誰にも壊せなかった。
まだ六歳の少女と十三歳の少年が、命を繋ぐためだけに歩き始めた。
――ラトールの街へ。




