第50話 レオンの予感
錬金術師ギルドの扉を押し開くと、薬品と古い紙の混ざった独特の匂いが鼻をかすめた。
棚という棚には調合瓶がぎっしりと並び、光を受けて虹のようにきらめいている。
奥の作業台では白衣をまとった錬金術師たちが、無数の魔導器や触媒を手に黙々と作業に没頭していた。
レオンは深く息を吐く。
その空気さえ、どこか凛としていて冷たい。
彼は視線を巡らせ、薄暗い奥の一角にいる女を見つける。
白銀の髪を肩で束ね、長いローブを纏ったリリアが、研磨台に肘をついてこちらを見ていた。
その瞳に灯る光は、相変わらず何を考えているのか掴ませてくれない。
「来たのね。」
リリアの声は、静かなのに不思議と深く胸に響いた。
リリアが静かに杖を差し出した。
「杖は完成したわ。これ、どうかしら?」
レオンはその杖を手に取り、目を閉じた。
ひんやりと冷たい感触が掌に広がり、闇の奥深くに引き込まれるような感覚に襲われる。
しかし、その冷たさの芯には温かな熱が秘められていた。
「この杖は、まだ完成じゃないの。」
リリアはゆっくりと言葉を紡いだ。
「これから改良していく余地を残してある。成長させるのは、あなた自身よ……でも、今手に入る素材で考えられる限り、最高のものを集めて仕上げたつもり。」
彼女の声は穏やかだが、その眼差しには確かな自信が宿っていた。
レオンは手にした杖を改めて見つめる。
漆黒の木肌に、冷たい輝きを放つ氷の紋がうっすらと刻まれている。
「名は――漆黒氷杖〈シャドウグレイシア〉。」
リリアが低く告げる。
「ナイトシダーの黒木、氷晶鉱、暗銀、氷狼の心核、影蜘蛛の糸腺……それらを組み合わせて、闇と氷の魔力を集束・増幅する高位魔術師用の杖に仕上げたわ。」
「そんな素材を……。」
レオンは小さく息を呑む。
「これなら……今まで使えなかった魔術も使えそうだ。」
「ええ、きっとね。」
リリアはゆるやかに頷くと、杖を抱え直した。
「さあ、訓練所に行くわよ。」
凛とした表情で、彼女は杖を軽く構え、冷たい気配が周囲に広がる。
「まずは、私が手本を見せる。」
静かに、しかし抗いようのない力を宿した声が、訓練場の空気を震わせた。
「氷の祈り」
冷気がまとうように、空気が凍りつく。白銀の結晶が舞い散り、リリアの周囲に氷の鏡が幾重にも広がる。
「アイスリーフミラージュ」
氷の刃が舞い散り、まるで鏡の乱反射のように敵を捕らえる。
「私が使える上級魔法はこれで終わり。教えられる全てだと思いなさい。」
リリアは厳しくレオンを見据えた。
「やってみなさい。」
レオンは深く息を吸い込み、杖を握りしめる。
魔力が杖を伝い、全身を駆け巡る。
「零域式魔術・氷女ノ祈――」
彼の放つ魔法は、先ほどまでとは段違いの威力を持ち、制御も滑らかだった。
続けて、彼は躊躇なく氷の刃を繰り出す。
「零域式魔術・氷鏡乱葉――」
氷の刃が宙を舞い、訓練所の静寂を切り裂く。
砕け散った氷片が淡い霧を生んで、ひととき世界を白く染めた。
すべてが静かに落ち着いたとき、レオンは深く息を吐いた。
「……できた。」
その声は震えていたが、確かな達成感に満ちていた。
「これで……一段階上のステージに立つことができた。……リリアさん。本当にありがとう。」
リリアは黙って見つめていた。
やがて、その冷たく美しい瞳に、どこか遠くを思うような翳りが宿る。
「杖のデメリットも、大丈夫そうね。」
彼女はゆるやかに微笑んだ。
「これで、免許皆伝……そう呼んでもいいかもしれないわ。」
一拍置いて、声がかすかに揺れた。
「これで、もう……あなたに教えられることはない。」
(ごめんなさい、レオンくん。……これ以上は、一緒にいられないの)
心の中でそっと呟く言葉が、胸の奥に苦い痛みを残した。
レオンはその笑顔を、どうしても正面から見られなかった。
ただ、俯いた視界の隅で、杖の氷の紋が淡く脈打つのを見つめていた。
レオンはしばらく迷っていた。
けれど、どうしても胸にわだかまる疑問を抑えきれず、視線を上げた。
「……リリアさん。地下組織について、少し――」
言いかけたその瞬間、彼女はひとつ息を吐き、視線をそらすように棚の奥へ手を伸ばした。
「そうだ。」
言葉を遮るように、声を落とす。
「これを……あなたにあげるわ。」
手渡されたのは、重みのある古びた魔導書だった。
深い革の表紙に、褪せた金文字で知らない言語が刻まれている。
「古代魔術の記録よ。私には扱いきれなかった。」
彼女は、無理に笑顔を作った。
「このレポートも一緒に渡す。解読と運用の手引きが書いてあるわ。」
戸惑うレオンを見て、リリアは淡く目を伏せた。
「あなたの魔術は、きっと……これと近いものなの。」
「空間の魔力を利用して制御する。
それに、あなた自身の魔力も、ずっと高くなっている。……気づいていたでしょう?」
静かな声に、心臓がわずかに跳ねた。
「もし使いこなせたら……」
リリアは一瞬だけ視線を重ねた。
その瞳に、痛むような優しさが宿る。
「……“世界一”も夢じゃないわ。あなたなら、きっとなれる。」
気づいてしまった。
こんなときに、いつも以上に研ぎ澄まされる観察力を、勘の良さを――レオンは恨んだ。
(この人は……やはりあの時の。きっと……遠くへ行こうとしている)
胸の奥が、鈍く締めつけられる。
わかってしまった。
遠くない未来、――自分はこの人と、戦わなくてはならないのだ。
その日が近いことを、どうしても否定できなかった。
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