第48話 本部からの手紙
アランは夜明け前に目を覚ました。眠れなかったわけではない。
むしろ疲れ果てて深く眠り、体の痛みも随分と癒えたはずなのに、胸の奥にずっと棘のようなざわめきが残っていた。
まだ空が鈍い灰色のうちに、宿の階下に降りる。
暖炉には小さな炎が残っていて、木の椅子や分厚いテーブル、昨夜の片付けの名残がほのかに温もりを醸し出していた。
この宿は冒険者にとって第二の家のような場所だ。
危機が迫っているのが信じられないほど、当たり前の朝の気配が広がっている。
奥の厨房からは、パンの焼ける匂いとスープの湯気が漂ってきた。
「……おはよう」
宿の女将が静かに声をかけ、湯気の立つカップを差し出してくれる。
受け取ったカップが思いのほか熱くて、指先がじんとした。
(本当は、こんな穏やかな朝が、ずっと続けばいいのに)
一瞬そんなことを思った。
だが、それはきっと叶わない。
外へ出ると、街は薄明かりの中でゆっくりと目を覚ましつつあった。
石畳の通りには、早出の商人が荷車を引いている。
けれど、その足取りはどこか重たく、すれ違う人々の表情には影が落ちていた。
「魔導市も延期になるんじゃないかってさ……」
「そりゃそうだよ。あんなに魔道具が暴走してるんじゃ、誰も安心して来られやしない」
「ギルドも動きが鈍いらしいな」
噂話が途切れ途切れに耳に入ってくる。
不安が街を覆いはじめているのが、空気のひび割れのように伝わってきた。
アランは深く息を吐き、ギルドへ向かって歩き出した。
朝の冷たい風が頬を撫でる。
温かな宿と対照的に、この通りの空気には寒さと焦燥が混じっていた。
(……待つだけなんて、耐えられるだろうか)
朝の喧騒はまだ始まっていない。冒険者の姿も疎らで、受付のシェリルが大きな帳簿を抱えてカウンターの奥で何かを書き込んでいた。
「おはよう、シェリルさん」
「あ、おはようアラン君。早いね」
彼女は顔を上げ、にこっと笑ったが、その表情にいつもの軽やかさはなかった。
「何か進展があったんじゃないかと思って……」
アランが問うと、シェリルは少し躊躇ってから、小さな封筒を取り出した。
白い封蝋には、王都本部ギルドの印章――二重に絡む双剣の紋章が刻まれている。
「……届いたわよ。王都リュミエール本部、ゼルヴァ様直々の手紙」
その名前を聞くだけで、ギルドの空気が少し張り詰める。
「中を読む?」
「頼みます!」
シェリルは封を切り、しっかりとした羊皮紙を取り出すと、声を落として読み始めた。
「魔力密造組織の動きが加速している。……それに、麻薬密造組織との繋がりが確認された。流通網を共有し、資金と実験材料を互いに融通している形跡がある」
アランの指が無意識に震えた。
「麻薬密造組織まで……」
「さらに、仮面の集団の実態が判明した。正式名称は確認中だが、俗に“裏ギルド”と呼ばれる連中だ。元は一部の冒険者、傭兵、流れ者たちが集まった集団で、金のためならどんな非道も厭わない」
「裏ギルド……」
その響きに、ギルドの一角で帳簿を整理していたヴィルマが顔を上げた。
「随分と前にも名前を聞いたね。私がまだ駆け出しの頃から噂はあったよ……。でも実在する証拠は、誰も掴めなかった」
シェリルは息を吐き、手紙をさらにめくる。
「現段階で彼らと直接対峙することは絶対に避けろ。交戦は想定外の被害を生む。どうしても接触した場合は、全力で退避せよ」
「……退けって言うのか。」
アランは低く呟いた。
心の奥で煮えたぎる焦燥が噴き出しそうだった。
あの日、魔道具が暴走し、人々が怯えて逃げ惑う光景が焼き付いている。
シェリルは視線を伏せた。
「アラン君、ゼルヴァ様はね、本当にあなたたちを心配してると思う。だからこそ……無茶はするなってことなんだよ」
そのとき、背後で重い足音が響いた。
「……そのとおりだ」
ラトールのギルドマスター、バズが無言で歩み寄る。
彼の肩はいつも以上に大きく見えた。
「お前が焦る気持ちは分かる。だがな、アラン……ここラトールは新人が集まる街だ。動かせる人材は限られている。無謀に突っ込めば、守れる命も失う」
バズはシェリルから手紙を受け取り、黙読した。
小さく舌打ちしてから、アランを見据える。
「本部の指示は絶対だ。お前たちはここで待て。――“紅雷のパーティ”が到着するまではな」
「紅雷のパーティ……?」
「ライサ・グリムゲイルだ。こないだ会っただろ?」
バズの声に、周囲の冒険者がざわめく。
「……まさか、あの人が来るのか」
「本気で討伐に乗り出すってことじゃないか……」
ライサ・グリムゲイル。
王都でも名の知れた魔剣士で、幾多の戦場を渡り歩いた英雄だ。
だが同時に、アランは自分が何もできないまま“待て”と言われたような感覚に襲われた。
「……待てと言われても。黙ってられるほど、時間があるのか?」
吐き捨てるように言ったとき、ヴィルマがすっと視線を送った。
「そう思うなら、情報を集めな。無駄に突っ込むんじゃなく、戦うための準備をするんだよ」
「情報……?」
「あんた、遺跡の噂は聞いてるかい?」
「遺跡……?」
「北の丘の古代遺跡だよ。旧帝国時代の遺産さ。最近、夜中に人影が出入りしてるって噂だ。雄叫びみたいな轟音も聞こえる。……魔力密造と無関係とは思えない」
アランはその言葉に息を呑んだ。
遺跡、裏ギルド、麻薬密造、モンスターの異常繁殖――全てが混沌と繋がっている。
「ライサたちが来るまで、俺たちにできることを探す。……無駄にはしない」
「それでいい」
バズが短く頷いた。
「焦るな。だが止まるな。お前の足でできることをしろ」
胸の奥の焦燥は消えない。
だがその奥に、小さな決意が灯るのを感じた。
この街を守るために。
この手で、真実を暴くために。
廊下の奥で、誰かが報告を告げる声が聞こえた。
――嵐の予兆が、確実に迫っていた。




