第45話 禁忌の記録
崩れかけた廃工房の奥、石壁に隠された通路を抜けると、その部屋はひっそりと口を開けていた。
天井は低く、ほとんど洞窟のようだ。湿気と埃の匂いが混じり、呼吸をするたび喉がざらつく。
壁一面を覆う魔術刻印は、古いものと新しいものが幾重にも交錯し、見る者を圧迫するように光の残響を放っていた。
ひび割れた床には、砕けた小瓶や燃え残った羊皮紙が散乱している。
けれど、その混沌の只中に、明らかに異質な一角があった。
「……見ろ。ここだけ、埃がない」
レオンが低く告げる。
淡い魔力の光に照らされた奥の書棚。そこだけ、指でなぞったように真新しい筋が何本も走っていた。
つい最近、誰かが確かに手を伸ばした跡だ。
アランが息をひそめ、慎重に棚を押す。
鈍い軋みが耳にひびき、奥から黒革の背表紙がゆっくりと姿を現した。
古びた焼印の紋章が、月光を鈍く跳ね返す。
「これ……密造の手引きか?」
リィナが息を呑む。
声にはいつになく怯えが混じっていた。
アランがそっとページをめくった瞬間、焦げた砂糖のように甘い、だが刺すような匂いが鼻腔を貫いた。
魔力が染み込みすぎた古文書特有の、吐き気を催す匂いだ。
薄黄色に変色した紙には、異様に整った筆跡が連なる。
「“魔力増幅器・試作計画”」
レオンが呟いた声が、ひどくかすれていた。
目を凝らすと、そこには膨大な設計図と理論式、そして日付の入った記述が細密に記されていた。
震える指先で、アランは最後のページをなぞる。
そこに、あの失踪した男の名前が、確かに刻まれていた。
――ヘルマン・グレイス。
静かな部屋に、誰かの遠い息づかいが混ざった気がして、三人は同時に顔を上げた。
魔術刻印がわずかに脈打ち、闇の奥で何かがこちらを見ているようだった。
魔力の流れを拡張する理論。
器の限界を超えて魔道具を強制的に活性化させる、禁忌の配列。
そして――その応用として書き連ねられた「街一帯の魔力供給網」への転用案。
「これが完成すれば……都市規模の防衛も可能になる」
レオンが息を詰める。
ページの余白に書かれた注釈は、魔力網をあらゆる魔道具に接続し、一つの器として制御する理論を示していた。
「でも……逆に暴走させれば、街を一夜で壊滅させられる」
リィナがかすれた声で言う。
空気が冷たく沈んだ。
アランは顔を上げ、声を震わせた。
「……なんで……なんでこんなものを……!」
震える指先で、書物の最後のページをめくる。
そこには、墨がにじんだ文字が刻まれていた。
『計画は最終段階に入った。
“取引”は間近だ。
もし私が戻らねば――この知識を封じろ。
魔力に溺れるな。』
数行の言葉が、胸に重くのしかかる。
手の中の書が、まるで生き物のように熱を帯び始めた。
「アラン……?」
リィナの声が届くより早く、部屋の空気がきしむように震えた。
魔術刻印がゆっくりと色を変える。
淡い青は赤へ。
血のように禍々しい光が刻印の溝を這った。
「……罠だ!」
レオンは即座に術式の構築を始めたが、壁の刻印が次々と目を覚まし、冷たい光を放つ。
ひび割れた柱が悲鳴のように軋み、床が微かに震えた。
「急いで、こっちよ!」
リィナが声を張り上げ、隣の扉を勢いよく蹴破る。
天井の一部が轟音を立てて崩落し、舞い上がる粉塵が視界を遮った。
アランは胸に焼き付いたヘルマンの言葉を反芻する。
(取引……やはり、計画はまだ動いている)
その刹那、崩れた壁の隙間から、和装の影が一瞬だけ顔を覗かせた。
仮面の奥に浮かぶ冷ややかな目が、淡く不気味に笑みを湛えていた。
煙が漂う薄暗い空間に、柔らかくも冷たさを含んだ声が静かに響く。
「……こんなところで出会うとは、運命もなかなか趣深いものですね」
リィナは身を強張らせ、その声の主を睨みつけた。
「シーザ・ヴァナイオ。禁忌の秘密を追う者ならば、貴方の正体も当然知っている」
微かに微笑む声が続く。
「その通り、私は影の商人。禁断の知識や素材を求める者たちの案内人。貴方たちのような正義の探求者には到底理解できない闇の取引を、私は取り仕切っています」
リィナの視線は一層鋭くなり、声に怒りが滲む。
「私たちの邪魔するなら、容赦はしない」
シーザは軽く肩をすくめ、冷たく笑う。
「ふふ、禁忌の知識はいつだって人の心を惑わすもの。だからこそ、私はそれを大切に扱う。さあ、その書物も丁重に保管しておきなさい」
その言葉を残し、煙の隙間にひらりと身を消すシーザ。
だが次の瞬間、轟音と共に天井が激しく崩落し、三人を闇と粉塵が包み込んだ
「アラン、走れ!」
リィナの鋭い声が粉塵の渦に飲まれそうになりながらも響く。
胸に黒革の書を抱えたまま、アランは必死に駆け抜けた。
視界は霞み、呼吸は苦しく、耳には崩れ落ちる工房の轟音が重く響く。
やがて、彼は息を切らしながらも、夜の冷たい空気の中へ飛び出した。
背後では巨大な塊が音を立てて崩れ落ち、暗闇に消えていく。
「……生きているか?」
咳き込みながら、レオンが真っ直ぐにアランを見据えた。
アランはゆっくりと頷き、ずっしりと胸の中で鼓動する黒革の書を見下ろす。
その表紙は、魔力に濡れたように鈍く光り、まるで息をしているかのように微かに脈打っていた。
「……これは、始まりに過ぎない」
彼の瞳に月明かりが冷たく差し込み、決意を刻みつける。
「計画は、まだ終わっていない……」
遠く、風に乗って微かに響くのは、仮面の商人が浮かべた薄笑いの残響のようだった




