第42話 ヴィルマの助言
街の奥にひっそり佇む小さな工房は、相変わらず混沌とした気配を放っていた。
天井近くまで積まれた古い書物の山が、微かに傾いて軋む。
埃をかぶった魔道具が無数に並び、ところどころで淡い蒼光が瞬いている。
「……相変わらず足の踏み場もないね」
リィナが呆れ半分にため息を漏らす。けれど、その声にもどこか緊張が滲んでいた。
「感心してる場合かよ。おい、ヴィルマ!」
アランが声を張ると、奥の作業机の向こうで動きが止まった。
錬金術師はゆっくり顔を上げる。無表情に近い深い瞳が、ゆらりと三人を映し取った。
「……なんだ。またお前らか、もう少しで混合溶液の温度調整が終わるところだったのに」
静かな声には、いつもの淡々とした調子があった。
だが、アランの視線を受けてか、その表情がわずかに硬くなる。
「緊急だ」
アランは短く言葉を切り、ひと呼吸置いて続けた。
「ヘルマンのこと、知ってるだろ」
ヴィルマの額に、一瞬だけ深い皺が寄った。それは滅多に見せない反応だった。
彼女の長い髪の間から、鋭い視線が覗く。
「……どこまで知っている」
(この子ったら、また危険を犯そうとしてる。)
その声は低く、工房に漂う薬品の匂いと混ざって重く落ちた。
「……あの老人が姿を消すなど、十年前なら考えられなかったな」
ヴィルマは硝子瓶をそっと机の端に置き、その手を一度見下ろす。
小さく息を吐いてから、ゆっくりと立ち上がった。
白衣の裾が薬品棚をかすかに揺らす。
「君たち……あの人が、何を追いかけていたか、本当に知っているのか?」
問いかけは穏やかだが、声の奥にどこか探るような色が潜んでいた。
「魔力流通理論だろ?」
レオンが短く答える。
その瞳は冷たい硝子のように静かで、わずかな疑念が滲んでいた。
「表向きは、な」
ヴィルマは鼻を鳴らすと、工房の奥へ足を向ける。
無数の器具や魔道具をすり抜けるように歩き、片隅の棚に手を伸ばした。
埃をかぶった革装の記録書を抜き取る。
それを胸の前に抱え、振り返った。
「だが……それだけではない」
静かな言葉が、工房の空気を僅かに冷たくする。
アランとリィナの表情が引き締まった。
「彼は、魔力密造に関する記録を探していた」
短い沈黙が落ちる。
記録書の背表紙に走る、古い禁忌の印章がひどく鮮烈に見えた。
「……密造……?」
リィナの声がわずかに震えた。
言葉を飲み込み、もう一度問い直す。
「それって……錬金術協会で厳しく封じられてる禁忌じゃ……」
ヴィルマは視線を落とすと、一瞬だけ感情の色を消した顔で頷いた。
「――そうだ。魔力を、人工的に増幅し、複製する技術。
記録のほとんどは破棄されたはずだが……あの人は最後まで、その残骸を追っていた」
「当然。魔力密造は、魔道具研究の最も暗い領域だ」
ヴィルマの声音は淡々としていたが、その奥にひどく冷たい重みが潜んでいた。
「人の魔力を抽出し、人工的に“魔力源”を精製する技術……制御に失敗すれば、死者の魂すら巻き込む」
言葉が落ちた瞬間、工房の空気がひどく冷たくなった気がした。
「……なぜ、そんなものを?」
リィナが唇を震わせる。
「私にもわからない」
ヴィルマは視線を落とす。記憶を探るように、一呼吸置いて言葉を継いだ。
「一月ほど前だ。ヘルマンは私にこう言った」
彼女はゆっくりと顔を上げ、金色の瞳に映るアランをまっすぐに見た。
『魔力の本質は流れだと信じていた。だが、もし“奪う”ことができるなら――それもまた理論の証明だ』と。
アランは小さく息を呑む。
廃棄された魔道具の残骸、相次ぐ暴走事故。
頭の中で、ばらばらだった欠片が一本の線を描きはじめる。
「このまま放っておけば……街にもっと大きな被害が出るかもしれない」
「可能性は高い」
ヴィルマはわずかに眉をひそめ、低く告げた。
「だが……この先は、戻れないかもしれない」
その声は、工房を満たす薬品の匂いをも押しやるように冷たかった。
「魔力密造に関わる組織が暗躍している。証拠を掴んでも公にすれば、君たちもただでは済まない。命だけではなく、立場も、未来も失うかもしれない」
短い沈黙が落ちる。
「やはり、この調査は危険すぎる。」
(考えが正しければ僕らだけで対応できる案件じゃない)
低い声が割って入った。
レオンだった。腕を組み、瞳は鋭くアランを射抜く。
「今なら、まだ引き返せる」
(アラン、頼む、考え直してくれ)
それは理知的で冷静な問いかけだった。だが同時に――心のどこかで、答えを知っている声でもあった。
アランは俯いていた視線を上げる。金の瞳が、まるで灯火のように強く輝いていた。
「でも……放っておけない」
リィナが息を呑み、レオンはわずかに目を見開いた。
ヴィルマはしばらく黙っていた。やがて、ほんの僅かに唇を緩める。
それは滅多に見せない、微笑の影だった。
「……なら、手がかりを教えよう」
棚の奥から、ひとつの古びた鉄の鍵を取り出す。
「廃棄されたヘルマンの旧工房がある。十数年前、魔力密造に関する研究が進められていた場所だ。今は封鎖され、記録庫も放置されている」
「そこに行けば、何かわかるのか?」
レオンの声は依然として冷静だったが、もう反対の響きはなかった。
「少なくとも、ヘルマンが何を追っていたか……そして誰に狙われていたのか、その痕跡は残っているはずだ」
アランは無言で鍵を受け取った。冷たい鉄の感触が、未来の重みのように手に伝わった。
「……ありがとう、ヴィルマ」
「礼は要らない。……気をつけて行け」
工房の扉が閉じると、ヴィルマは長く息を吐いた。
(あのとき、私が踏み込めなかった場所を……)
胸の奥に、二度と見たくないはずの記憶が静かに滲んでいった。




