第39話 リリアの封印されし感情
北方の山間に築かれたフロストヴェイル家の訓練場は、常に白い霧が漂っていた。
氷の魔術を学ぶ者だけが立つことを許された場所――
「姉さん……僕も、いつか、姉さんみたいになれるかな」
弱々しい声が、張りつめた空気を揺らした。まだ幼いカイが、杖を両手で抱え、震えながら立っていた。
「……カイ」
リリアは弟を見下ろした。その瞳には微かな戸惑いと、誇らしさが同居していた。
「あなたには、才能があるわ。だから……」
「だから、強くなりたいんだ。姉さんに認められたいんだ」
カイは小さな手を握りしめた。どこかで見た自分の幼い姿に、リリアは胸が詰まる。
(私も……そうだった)
そのとき、訓練場の奥から足音が響いた。
氷のドレスに身を包んだ女性――セレナ・フロストヴェイルが、冷たい目で二人を見つめていた。
「……もうやめなさい。カイには無理だと何度言えばわかるの」
「姉上、お願いです……もう少しだけ」
「……」
セレナは一瞬だけ視線を落としたが、その表情は変わらなかった。
「いいわ。あと一度だけ試しなさい。でも――」
「でも?」
「失敗すれば、二度と杖は握らせない。それが条件よ」
カイの顔が青ざめた。リリアは反射的に口を開きかけたが、言葉を呑む。
彼がどれほど努力を重ねてきたかを知っていた。それでも、氷魔術は無慈悲だった。
「……やる」
小さな声。それは幼い決意だった。
カイが杖を掲げ、氷と闇の魔力を編む。白い結晶が空中に散り、光が瞬いた。
――その瞬間だった。
「っ……!」
氷が、破裂した。暴走する魔力が渦を巻き、辺りを白に染める。
「カイ――!」
リリアが駆け寄ろうとした。だが、凍てついた空気が喉を締めつける。視界が、白く揺らいだ。
「姉……さ……」
かすかな声。手を伸ばす小さな影が、氷に囚われ、崩れ落ちる。
それは、あまりにも脆い終わりだった。
――訓練場に、沈黙が落ちた。
やがて、セレナが息を吐いた。
「……言ったはずよ」
「黙って」
リリアの声が震えた。胸の奥が、引き裂かれるように痛んだ。
「あなたが……あの子に、あんな言い方をするから……!」
「違うわ。あの子は、自分で選んだのよ」
「っ……」
「それが、氷の道。覚悟もなしに立つべき場所じゃない」
セレナの言葉は氷のように冷たかった。リリアは崩れ落ちた弟の杖を握りしめた。
氷の破片が掌に刺さっても、痛みは何も感じなかった。
「 私が……守れたはずなのに 」
涙が頬を伝った。誰かの前で泣くなど、何年もなかった。
「――もう、やめましょう」
セレナが踵を返す。その背を、リリアは睨みつけた。
「……私は、強くなる。誰よりも」
「……」
「もう二度と……誰も失わないように」
セレナは言葉を返さず、そのまま去っていった。
夜、リリアは弟の部屋にひとり佇んでいた。
机には、カイが大事にしていた古い魔導書。開かれたページには、幼い文字で綴られた言葉があった。
――姉さんに、追いつきたい。
震える指先が、それをなぞる。胸が締めつけられる。
「……ごめんなさい」
月明かりの中、リリアはそっと手を掲げた。氷の魔力が集い、彼女の顔を覆う。
「感情を魔術に乗せてはいけない。……そうしないと、また……」
氷の仮面が、ひび割れた心を覆い隠す。そして、声を押し殺したまま涙を流した。
その夜から、彼女の瞳は二度と深く笑わなくなった。雪が血に染まっていた。
時は流れ北方戦線。砦を囲む野営地は、降りしきる白の中で炎が揺れていた。
氷魔術と錬金術を駆使するリリアは、その戦いの中でただ一人、冷静に歩を進めていた。
「リリア、こっちだ!」
声を張り上げる男の姿が見えた。
炎と氷が交錯する最前線。
――彼の名は、ノア・ヴァイス。
「援護は任せろ。お前の氷壁があれば、こっちも踏み込める!」
「無茶はしないで」
リリアは短く応じる。白銀の髪が、夜風に靡いた。
ノアは、かつて王立錬金術院で共に学んだ魔術師だった。幼い頃に弟を失ったリリアが、初めて心を許した相手。戦場でも、彼の声が傍にあれば、孤独は薄れた。
――けれど。
(この人も、私のせいで……)
ふと胸を掠める不安を、リリアは深く押し殺した。
その夜。砦近くの作戦室で、地図を囲んだ。
「氷壁を張って、左翼を分断できれば……敵の補給線を絶てる。あとは突撃部隊が――」
「それじゃ、足りない」
ノアの声が重く落ちた。
「……何が?」
「君は分かってるだろ。僕らはこの戦場で、証明しないといけないんだ」
「証明……?」
「僕は……ただの追従者じゃない。君に追いつけるって。認めてもらえるって」
リリアは黙った。
ノアの視線は真剣で、どこか焦燥に濁っていた。
「君が戦果を重ねるたびに、みんなが君を見て、僕を比べる。……もう、負けられない」
「……そんなこと」
「君がどれだけ強いか、僕は知ってる。でも……君がどれだけ優しいかも、知ってる」
ノアは微かに笑った。
「だから余計に、置いていかれたくないんだ」
「ノア……」
「明日、先に出る。中央突破は僕に任せろ」
「それは無謀よ!」
「……大丈夫だ。僕は、君に見ていてほしい」
彼は振り返らずに部屋を出た。
夜明け。戦線の中央に、ひとり駆ける人影があった。
「やめなさい……!」
リリアは叫んだ。だが声は届かない。ノアは氷の槍を生み出し、前線に突き進む。
「ノアッ……!」
――閃光。
炸裂した爆炎が、雪を赤く染めた。瞬きの間に、視界からノアが消えた。
「……っ!」
駆け寄る足が凍る。鼓動が、胸を叩く。何度も、何度も。
氷壁の影に横たわる影を見つけたとき、心臓が凍りついた。
「……リリア」
掠れた声。焦点の定まらない瞳。
「だめ……死なないで」
「……君が……泣くの、初めて見た」
血に濡れた指が、彼女の頬に触れた。微かに微笑む唇。
「……僕……君に、追いつけた……?」
「そんなこと……どうでもいいの……っ」
「ありがとう……君と……一緒に……」
言葉は途切れた。手が、力を失った。
その瞬間、リリアの視界が白く染まった。
戦が終わり、砦の外は静寂に沈んだ。雪はなお降り続ける。
「……もう……いや」
リリアは、ノアの亡骸を前に膝を折った。
「もう……誰も……」
声が震えた。
嗚咽が、胸を裂いた。
「私が……触れると……皆……」
幼い弟も。
愛した人も。
救えなかった。
氷は癒やすものではなく、壊すもの。
いつか信じた言葉は、とうに凍りついていた。
それから間もなく、王都に戻ったリリアは姿を消した。
人知れず、彼女は闇の地下組織――黒き鴉の門を叩いた。
「君ほどの魔術師が、どうしてここへ?」
仮面の幹部が問う。
リリアは俯いたまま答えた。
「……もう、何も……信じられないの」
「なら、ここでは感情などいらない。必要なのは力だけだ」
「それでいい」
リリアは氷の仮面を手に取った。
「もう、誰も守れない。誰も救えない」
仮面を顔に当てる。ひやりと冷たい感触が、痛みを封じた。
「――だからせめて、壊すものとして生きる」
それが、仮面の魔女が生まれた夜だった。




