第38話 氷の記憶
錬金術師ギルドは、冒険者ギルドの喧騒が嘘のように静かだった。
研磨薬の匂いがほのかに残る廊下を進むと、奥の作業室の扉がわずかに開いている。
レオンはひとつ息を整えてから、そっと声をかけた。
「……リリアさん、いますか?」
ガラス瓶を整理していた白銀の髪の女性が、振り向いた。細い指が止まり、赤紫の瞳がゆるやかに彼を映す。いつもと同じ穏やかな微笑の奥に、どこか探るような視線が宿っている気がした。
「あら、遅かったじゃない。杖ならまだよ?」
リリアはいつも通り淡々とした声で言った。けれど、ほんのわずかに、どこか期待を含んだ調子だった。
この少年が、今日は何を求めてきたのか。彼女自身、その理由を確かめるのが怖いような、楽しみなような気がした。
「……いえ」
レオンは言葉を探すように視線を落とし、そして小さく息を吐いた。
胸の奥に巣食う焦りと、もう一歩近づきたいという衝動を、隠すことができなかった。
「……今日は、杖じゃなくて。魔法の稽古を……つけていただけませんか」
彼が顔を上げたとき、リリアの瞳がわずかに見開かれた。ふと零れる小さな息。
それは長い年月、氷のように封じてきたものが、一瞬だけ解けたような声音だった。
「……そう。いいわ」
冷たい風が、訓練場に吹き抜けていた。剣戟の音はなく、ただ氷の羽毛が舞う。
「魔力の流れを意識しなさい。……あなたの魔法は、まだ震えている」
「わかっている。……けど」
レオンは膝をついたまま、肩で息をしていた。白い霜が彼の髪に薄く降りる。
目の奥に、悔しさが宿っていた。
「力を抑えることばかり考えるから、制御が曖昧になる。……もっと、氷に触れるように意識して」
リリアの声は穏やかだが、どこか遠い。感情を切り離すように、淡々と響く。
「……感情を乗せるな、だろう」
「ええ。氷は感情に敏感。心が揺らげば、必ず魔力が乱れる」
「……」
レオンは視線を落とした。訓練場に残る氷の結晶が、かつて見た雪と重なる。
――あの日、仮面の人に救われたときも、同じ冷たさだった。
(けれど、あのときは……どこか、温かかった)
訓練は夜更けまで続いた。氷の結晶が薄く散る中、二人の影だけが長く伸びていた。
やがて、リリアが氷結細剣を収め、ふっと息を吐いた。
「……今日はここまで」
「……ありがとうございます」
言いながら立ち上がろうとしたレオンの腕に、リリアの白い手が触れた。
一瞬、彼女の表情がやわらいだ。
「無理をしなくていい。あなたは、まだ十五歳でしょう」
「……」
「焦らないで。力は、焦燥で膨らむものじゃない」
その声は、誰かを思い出すように柔らかかった。けれど、すぐにリリアは手を離し、背を向ける。
「……戻りましょう。体を冷やすと回復が遅くなるわ」
夜の酒場は、遅い客だけが残っていた。
火の落ちかけたランプが、ふたりを照らす。
「珍しいな。……あなたが酒を飲むなんて」
レオンが小さく笑う。
リリアは視線を外し、グラスを傾けた。
「氷酒よ。魔力の鎮静にいいの」
「……似合う」
「何が?」
「冷たいものが。けど――」
レオンは視線を落とす。
小さな声で続けた。
「本当は……あなた、冷たい人じゃないだろう」
沈黙が落ちた。
氷の結晶を溶かすように、息が白く溶ける。
「……思い上がらないで。私は――」
「……」
「……ただ、もう誰も守れないと……思ってるそれだけよ」
それきり、リリアは口を閉ざした。心のどこかに溶け残る痛みを、見せたくなかった。
その後も訓練は続き、レオンは着実に魔力の精度を高めていった。
けれど――
「……っ!」
突如、氷の陣が崩れた。空気が震え、視界が白く染まる。
「レオン――!」
(危ない!魔力が暴走してる!)
氷の陣は暴走を始め、触れたものを凍結させていく。
レオンの目は焦点を失い、凍てついた光に呑まれていた。
「くそ……止まれっ!」
(カッコ悪い姿見せてたまるか!)
指先が震え、魔力が溢れ出す。
抑えきれない感情――悔しさ、恐怖、焦燥――すべてが氷になって噴き出した。
リリアは迷わず、彼に駆け寄る。白銀の髪が舞い、氷結細剣が空を裂いた。
「――氷解の祈り」
澄んだ声が、夜を貫いた。青い光が彼の胸元を包み、熱が消えていく。
吹き荒ぶ冷気は、凪いだ海のように静まった。
「……っ、は……っ……」
レオンは膝に崩れ、息を切らす。
その肩に、そっと手が置かれた。
「……大丈夫?」
(まさか、この子も魔力暴走をするなんて)
いつかと同じ、冷たいのに温かい手。レオンは顔を上げた。
リリアの目が、ひどく優しい色を宿していた。
「氷は……感情に敏感。だから、封じ込めるだけじゃだめなの」
「……」
「ちゃんと、認めてあげなさい。自分が……何を恐れているのか」
「……あなたは……」
「……私も、同じだから」
リリアはレオンの姿を大切な人と どこか、重ねてしまっていた。




