第29話 束の間の休息
「すまない、君たち……。この状況はギルドに報告する。夜間の移動。これ以上の同行は危険だ。」
レーネが足を止め、振り返った。
「お前たちは、ここで待機してくれ。」
「でも……」
リィナが言いかけたが、レーネは小さく首を振る。
「遅い時間だし、泊まっていけ。……かなり疲れただろう。」
それは、短いが確かな労いだった。
「先輩たちは……戻るのか?」
「ああ。依頼は本来物資の搬送だ条件は達成した。道中での魔物の以上発生、及びあの男のこと、この事態は看過できない。……また連絡する。」
彼女たちの背が闇に紛れていく。
残されたアランたちは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
村の宿に入ると、古びた木の梁と懐かしい灯りが迎えてくれた。
だが、暖かさに胸が緩むほど心は落ち着かなかった。
「あの仮面の男…何だったんだ。ラトールに何が起きようとしてる。」
レオンが低く呟く。
リィナは窓辺に立ち、まだ沈まない赤い残光を見つめていた。
「あの時……アランが飛び出さなかったら、あたしも……」
言いかけて、リィナは言葉を切った。
振り返ると、アランは隅の椅子に座り、剣を抱いたまま俯いていた。
その姿が、ほんの少しだけ大きく見えた。
(……言葉にならないけど、分かったよ。)
リィナはそっと目を閉じた。
信じて動く。
それは無謀のようでいて、確かに絆の始まりだった。
外では、夜風が林を揺らし、どこか遠くで何かが啼いていた。
蝋燭の火が宿の廊下にゆらめき、静かな夜気が木の壁を冷やしていた。
アランは自室の椅子に座り、剣を膝に置いたままぼんやりと鞘を撫でていた。あの仮面の男の姿が、まだ脳裏を離れない。理屈ではわかっている。戦いは終わった。今は休むときだと。けれど、胸の奥に鈍い焦りが残っていた。
「……大丈夫?」
開いた襖の向こうからリィナが顔をのぞかせた。髪をほどいていて、いつもよりずっと柔らかな雰囲気だ。
「ああ、ちょっと考えごと。」
「考えごとばっかり。少しは休んだら?」
そう言って苦笑する彼女の声は、昼間の荒々しい戦いの影を感じさせなかった。むしろ、同じ年頃の仲間の声に戻っているように思えた。
「……食事ができたってさ。女将さんが呼んでたよ。」
アランが立ち上がると、リィナは少しだけ肩をすくめた。廊下を歩き出す背に、さっきよりもわずかに張りの戻った足取りを感じた。
広間の戸を引くと、温かな光が迎えた。
大きな木の卓に、湯気の立つスープと焼きたてのパン、塩漬け肉と新鮮なサラダが並んでいる。村の人々が「よく来てくれたね」と笑顔で声をかけてくれた。
「こんなに……いいの? わたしたち、ただの冒険者だよ?」
リィナが目を丸くする。年老いた女将はにこりと笑い、彼女の肩をそっと叩いた。
「遠いとこから荷を運んでくれて、魔物まで退けてくださったんでしょう?うちは何もできないけど、それくらいは。」
言葉が喉で詰まるのを、アランは見た。リィナは俯いて唇を噛んでいたが、やがてゆっくりと顔を上げ、声を震わせた。
「……ありがとう。」
それは彼女が今まで見せたことのない、柔らかな微笑みだった。
アランもレオンも、その笑顔に息をのんだ。戦うときの鋭い目ではない。憎しみも猜疑心も剥き出しにしない、素のリィナ。
(……こういう顔もするんだな。)
アランは胸の奥が少し熱くなるのを感じた。傍らのレオンも、同じように目を細めていた。
食事を終えると、少しだけ心がほぐれていた。
「いいチームになりそうだな。」
レオンが不意に呟いた。リィナが驚いたように振り向き、アランも言葉を失った。
「お、お前がそう言うなんてな。」
「何だ、信用できないって顔をするな。……最初は疑ってたが、やっぱりこうして一緒に飯を食うとわかることもある。」
レオンはわずかに照れたように視線を逸らし、手元の湯飲みを指で回した。リィナは小さく笑い、それを見たアランも、思わず頬を緩める。
「……そ、それなら。もう少しは頼りにしてくれる?」
「まあな。」
「……へえ。レオンがそんなこと言うなんて。」
からかうように言って、リィナはくすりと笑った。その声が夜の静けさに溶けていく。さっきよりもずっと自然な笑顔に見えた。
夜更けーーーー
アランとレオンは宿の裏庭で軽い剣の訓練をしていた。月明かりが白く照らし、二人の影が土の上で揺れる。
「……もう大丈夫そうだな。」
レオンが言う。剣を下ろし、深く息をついた。
「体は……動くよ。」
アランも剣を収めた。だが、言葉を続ける声が少し低くなる。
「でも……もし、また同じことがあったら。怖いんだ。……何もできずに、みんなが傷ついたらって。」
レオンは黙っていた。だが、その肩が小さく揺れた。
「……俺も同じだ。」
「え?」
「……あの仮面の男。あれが本気だったら、誰も立っていられなかった。」
レオンの声はかすかに震えていた。月明かりの下、強いと思っていた仲間の横顔が一瞬だけ脆く見えた。
「でも、だからこそ一緒にいるんだろう。……そうだろう、アラン。」
「……ああ。」
小さく頷き合い、剣を置いた。夜気が冷たく、けれど少しだけ心が軽くなった。
宿の縁側に戻ると、リィナが一人で空を見上げていた。
「起きてたんだな。」
アランが声をかけると、リィナは振り返った。その瞳に月が映り込み、どこか遠くを見ているようだった。
「……ねえ、アラン。」
「ん?」
「村って、やっぱりあたたかいんだね。」
その言葉は、風に揺れる灯火のように小さく、でも確かに届いた。
「……リィナも、昔はこういう場所に住んでたのか?」
「……まあね。」
ふいに声が途切れる。リィナは何か言いかけて、笑ってごまかした。
「ま、どうでもいいことだよ。」
「どうでもいいなんて……」
言いかけたが、アランはそれ以上言葉を探せなかった。目の前の彼女が、今この一瞬だけは守られていてほしいと、ただそれだけを思った。
「ほら、水、飲むだろ。」
アランは腰の水筒を手渡した。リィナは一瞬戸惑ってから、そっとそれを受け取る。
「……ありがとう。」
その声は、小さな笑顔に変わった。
アランは胸がふわりと温かくなるのを感じた。夜風が吹いても、もう寒さはなかった。




