第10話 白い霧の狼
――白い霧が、静かに舞い始めていた。
地面に血がにじみ、レオンの視界は滲んでいく。脇腹から背にかけて深い傷。
横たわり、目を開けるのもやっとで、呼吸もまるで他人のもののように浅い。
「……チッ、ここまでか……」
声は自分の喉から出たはずなのに、ひどく遠くに聞こえた。耳鳴りがして、街のざわめきも何もかも、薄い膜に隔てられたように消えていく。ただ、静けさだけが残る。
視界の端で、仮面の刺客たちが去っていくのが見えた。足音すら届かない。無音の劇のように、ただ影が遠ざかる。
(……とどめも刺さずに……行くのか……)
思考が、ひどく遅い。浮かんでは消える。感情が波打つこともなく、ただ平らだった。
そのとき――
カラン……
石を踏む音がした。唯一、膜の向こうから届いた、微かで澄んだ音。
霧の帳の奥から、ひとつの影が近づいてくる。白銀の髪が、霧に溶けながら淡く光った。青白いローブが風に揺れた。
(……とどめでも……刺しに……来たか……)
視界の中心に、その姿がゆっくりと沈むようにしゃがむ。仮面に覆われた顔。声が、静かに降りてきた。
「君が死ぬにはまだ早い」
その声はどこか遠い。耳ではなく、胸の奥で直接響くようだった。冷たい手が傷に触れる。
(……何を……)
痛みも消え、温もりも消えた。感覚が薄れていく中で、ただその冷たさだけが、やけに鮮明に残った。
「――《氷解の祈り》」
光が揺れる。視界が白に溶けていく。冷気が皮膚を満たし、血の匂いすら遠のいていく。
(……なぜ……助ける……)
思考も声も、もう輪郭を失っていった。それでも、仮面の奥に見えた微かな表情だけは、はっきりと焼きついた。
――懐かしむように目を細める。
(……あの人に……似てる……)
心の奥に、雪のように小さなひびが入る。気配が、離れていく。霧が再び満ちて、すべてを塗り潰した。
(……行くのか……)
唇は震えるのに、声はもう出ない。視界が白く溶ける。音も、色も、匂いも――すべて遠い。
最後に残ったのは、凍えるはずの手のひらに触れた、一瞬だけの温もり。
それだけが、現実につながる糸のように残っていた。
レオンは、静かに瞼を閉じた。
白い霧が、世界を覆っていた。




