第9話 狼に踏み入る
一方その頃、石橋の影に沈むように身を潜めた男が、ゆっくりと懐から黒鉄の魔道具を取り出していた。
手のひらほどの鈍い光沢を持つ装置。
その中央に埋め込まれた水晶の球が、ぞっとするほど冷たい輝きを返す。
男は指先で球をひねった。
ひと瞬き、淡い紫の光が滲む。
直後、ざらついた声が魔道具の奥からにじみ出た。
『進捗は?』
低く、乾いた声。抑揚は最小限、感情の欠片さえ感じさせない。
男は視線を落としたまま、わずかに唇を歪める。
「……誘導は完了した。あの二人、予定通り裏通りに入った。……これで、ヴィルマのもとには届かない」
『そうか。』
一拍の沈黙が落ちた。街の喧騒が遠くに滲んでいく。
『――念のため、足止めしろ。最悪、殺しても構わん』
短い言葉。
その響きには、命の価値を量る重さも迷いもなかった。
男は応答せず、ゆっくりと魔道具を懐に戻す。
薄陽の差す橋の影に、ひどく冷たい気配だけが残った。
――その数分後。
裏通りの先、薄暗い石畳の道に、二人の足音だけが響いていた。
「なんだ?音がないな、やけに静かすぎる」
アランが足を止め、わずかに肩を強張らせる。
昼間の街の喧噪は、まるで遠い世界の音のようだった。
本来なら聞こえてくるはずの職人の槌音も、行き交う人の話し声も、今は何もない。
レオンも立ち止まり、目を細めて周囲を探る。
「人通りがあるはずなのに……気配が、ない」
石壁に反射する自分たちの呼吸の音が、やけに大きく耳に届いた。
風さえ止まったかのような重苦しい空気。
路地の奥に落ちる影が、ひどく深く、暗く感じられる。
張り詰めた沈黙――。
そのときだった。
ヒュッ──ッ!
空気を裂く鋭い音が、異様な静寂を引き裂いた。目にもとまらぬ速さのナイフが飛来し、アランの頬をかすめる。
細く赤い線が浮かび、石畳に一滴の血が落ちる音さえ聞こえた気がした。
「くっ――!」
「伏せろ、アラン!」
レオンが叫ぶ声が、石壁に反響してひびく。その声と同時に、周囲の建物の影が揺れた。
ひとつ、ふたつ――
闇から溶け出すように、人影が現れる。全員、黒い装束に身を包み、無機質な仮面をつけていた。
仮面には、それぞれ異なる文様が刻まれている。だがその模様は不気味な統一感を帯び、どれも仮面の「目」を強調するように描かれていた。
まるで、その目だけが世界を見据えているかのように――冷たい。
「……仮面、か」
アランは低く息を吐き、剣を抜く。一瞬で気配を絶ち、音もなく包囲を完成させるその動き。
殺気に淀んだ空気が、肌を刺すように重い。ただの盗賊ではない――直感が告げていた。
「誰だお前ら……!」
返事はなかった。静寂が返ってくる。
そのとき、一人の仮面の男が、ゆらりと手を上げる。
白く細い指先が、淡々と印を結んだ。何のためらいも、感情もなく。
――これが仕事だとでも言うように。
次の瞬間、掌から黒紫の魔力が蠢き、重い空気を振動させる。
ズガンッ!!
爆音とともに、地面が砕けた。石畳がえぐられ、破片が飛び散る。
「ちっ……これは完全に狙ってきてるな」
(また、厄介ごとかよ!どうなってんだ!)
レオンは片膝をつき、すぐに杖を構える。顔に僅かな汗がにじんでいた。
「《氷結壁》!」
冷たい魔力が炸裂し、氷の盾が現れる。
砕けた瓦礫と爆風が、その表面を叩いた。
視界が揺れる。
その隙にアランは地を蹴った。
剣が鈍く光り、仮面の集団に向かって閃く。
「こいつら、最初から殺す気だ!」
交錯した瞬間、仮面の奥の目が僅かに動く。
感情のない、冷たい瞳。
動きは迷いなく洗練されていた。人を殺すことが、当たり前のように染みついた者のそれだった。
バシュッ!
アランが一人を切り伏せた、その刹那――
背後で空気が歪んだ。
「アラン、危ない!!」
レオンの声が裂けるように響く。振り返るより早く、氷槍が鋭く飛び出し、
アランを狙った刺客の腕を根元から凍りつかせた。だが、息を呑む間もなく別の気配が襲いかかる。
視界の端。黒い仮面が、掌をこちらに向けていた。
――殺される。
「……っ!」
轟音。
ドガァンッ!!
爆風が通りを呑み、砕けた石畳と塵の奔流にレオンの身体が攫われた。
「レオン!!」
アランの喉が裂けそうな声を上げる。巻き上がる埃の中、レオンの体が力なく地面に叩きつけられる。
折れた杖が転がり、指先から血が垂れた。胸の辺りの布が裂け、深い赤が滲んでいく。
「……っは、ああ……クソ、やられた……か……」
声が掠れていた。目が霞むのか、レオンは何度も瞬きをする。
「しっかりしろ、レオン!」
アランが駆け寄ろうと踏み出す。
だが――追撃は来なかった。
爆風が過ぎ去った通りに、あの仮面の集団が無言で立ち尽くしていた。
先頭の男が短い笛を口にあてる。
甲高い音が冷たく響き渡った。
それ、ただの合図のようだった。
全員が同じ動きで、すっと後退する。
瓦礫を踏む音さえ立てずに、黒い影が次々と路地の奥へ跳び去っていく。
数心拍のあいだ、残された通りは不自然な静寂に沈んでいた。
アランは剣を握り締めたまま、息を吐いた。
「なんだ…逃げた?」
アランは追うこともできず、その場に膝をついた。喉の奥から、何かがこみ上げてくる。
「くそ……くそっ……!」
震える手でレオンの手を握りしめる。
石畳に、赤い血がにじんで広がっていく。
レオンは荒い息を繰り返しながら、うわ言のように小さく声を漏らした。
胸元の外套は焼け焦げ、肌も血と煤で汚れている。
「レオン! なあ、しっかりしろ! なあ、起きろ! 今すぐ手当てする、いいか、すぐ――!」
アランが支え起こそうとした腕を、レオンがわずかに振って止めた。
「……ダメだ……動けない……」
「何言ってんだよ、そんなわけあるか! 声出てんだろ、まだ意識もある、医者を呼ぶ、何とか――!」
「アラン……聞け……」
レオンの瞳が血の気を失いながらも、まっすぐにこちらを射抜いていた。
アランの息が荒くなる。
「何だよ……何を……」
「ヴィルマの身が……危ない……」
「は? 何言ってんだ、今はお前が――!」
「さっきの連中……たぶん……ヴィルマを……狙ってた……俺たちを……遠ざけて……」
レオンの声が掠れて、息と混じる。
「何でそんな……そんなことまでわかるんだよ、だったら最初から――」
「今……何かあったら……王都も……巻き込まれる……あの人は……」
レオンの喉が震え、血の泡が混じった声が漏れる。
アランは頭を振り、震える声で叫んだ。
「ふざけんな! そんなの今どうでもいい! お前が死んだら意味ないだろ!」
「……アラン……頼む……」
「……っ……!」
胸が引き裂かれるように痛んだ。
アランは噛み締めた唇から血が滲むのも気づかずに、ぐっと息を吸った。
「わかった……行く……行くよ……でも絶対死ぬな! ここで死んだら……許さねえからな……!」
振り返らずに立ち上がる。剣を握りしめ、走り出す。
レオンの言葉を胸に刻んだまま――
まだ血の匂いが漂う路地を駆け抜けて。
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