第8話 ひと声の親切、狼の罠
夜明け亭の一階には、まだ早朝の薄明かりが静かに差し込んでいた。
木造の床に落ちるやわらかな影が、まるで時間の流れを穏やかに刻んでいるかのようだ。
奥のカウンターでは、宿の女将が湯気を立てるスープ鍋をかき混ぜており、
ほんのりとローズマリーの香りが漂い、やさしく室内を包み込んでいた。
壁に掛けられた旅人たちの古びた写真が、少し色褪せて見えたが、どれもその瞬間を大切に刻んだかのように感じられる。
アランは肩を回しながら、奥の長椅子に目をやった。
何人かの冒険者がまだ朝食をとっており、穏やかな笑い声とゆっくりとした会話が、薄明かりの中で響いている。
ここには、街の喧噪が始まる前の静けさと、何処か落ち着く空気が流れていた。
まるで、家に帰ったような安心感。
暖炉の炎がパチパチと小さな音を立て、心地よく空間を満たしている。
けれど、外に目を向ければ――
宿の窓から漏れる淡い光の先に、ラトールの街はまだ暗闇に包まれている。
そのどこか冷たい風に、ほんの少しだけ、不安な何かが絡みついている気がした。
あの薄暗い通りの先、街角で誰かが何かを話しているような気配が漂っていた。
目の前の温もりが、いっそう深い闇の中に浮かび上がる。
「よーし、手紙届けに行くか! さっさと終わらせて、修行もしたいしな! 体も動かさねぇと、剣の感覚が鈍りそうだ!」
すでに鞘を腰に装着し、準備万端の様子で外に飛び出していく。
その後ろから、まだ寝ぼけたような顔のレオンが、マントを直しながらゆっくりついてきた。
「……朝から元気だな、君は。修行の前に稼ぎの心配しろっての。無収入が続いたら、野宿生活だぞ?」
アランはくるりと振り返り、ニッと笑った。
「そのときゃそのときだ! 野宿なんて慣れたら宿と同じだろ?」
「慣れていい生活じゃないんだよ、それは」
レオンがため息をつきつつも、口元にはうっすら笑みが浮かんでいた。
こうして二人は、歩き出す。
手紙一通を届けるだけの依頼――けれど、それが新たな一日と、物語の始まりでもあった。
ラトールの街は活気に満ちていた。
魔道具の露店が並び、香草の匂いが漂う路地。
人々の足取りは早く、通りを行き交う声もにぎやかだった。
アランは手にした紙をじっと見つめながら首を傾げた。
「……えーっと、こっちで合ってるのか? 地図だとこの先に“錬金通り”って書いてあるけど……全部似たような建物に見えるんだよな……」
石造りの店や家が整然と並び、確かに景観は美しい。だが、どの道も同じに見えてしまい、方向感覚が狂う。
後ろから歩いてきたレオンがアランの肩越しに地図を覗き込む。
「……ふむ。地図がざっくりしすぎてるな。大通りの名称しか書いてない」
「……やっぱり迷った?」
そのとき、不意に脇の路地からふと声がかかった。
「君たち、迷ってるみたいだね。どこに行くの?」
二人が振り返ると、そこに立っていたのは、ごく普通の男だった。年の頃は二十代半ば。
服装も地味で、すれ違っても特に印象に残らないような人物だ。ただ、笑みを浮かべた口元だけが、どこか形だけに見えた。
「えっと……この“ナリア錬金術工房”って場所、探してるんだけど……」
アランが答えると、男はアランの持っている地図をちらりと覗き込んだ。
「その地図、大通りしか載ってないね。目的地は裏通りのほうだよ。表をぐるっと回るより、そこの角を右に曲がって、工房街の石橋を渡ったほうが早い。ヴィルマ先生も忙しいみたいだけどいるといいね」
「ほんとに? 助かる!」
「ありがとう、助言感謝します」
男はひらりと手を振り、「気をつけてね」とだけ言い残し、すぐに人混みに紛れていった。
その場に残った空気が、ほんの一瞬だけひどく静かになった気がした。
「……なあ、今の人、なんか妙に慣れてたな」
「この街の地理に詳しい地元民ってところだろ。さ、行こうか。道が合ってるか確かめつつな」
二人は男の教えに従って裏通りへと進みはじめる。
「それにしても、あの人……よく俺らが迷ってるってわかったよなぁ。声までかけてくれるなんて、親切な人もいるもんだな」
隣でレオンが小さく眉をひそめる。
「……地図広げて、二人でぐるぐる同じ場所歩いてたら誰でも気づくよ。どう見ても“道に迷ってます”って顔だったしな」
「うぐ……言われてみれば、そうかも」
小さく苦笑しながらアランは頬をかく。しかしその直後、隣のレオンの足がふと止まった。
「……待て」
「どうした?」
レオンはしばし視線を落とし、何かを考え込むように黙り込んだ。
「さっきの人……“ヴィルマ先生”って言ったよな?」
「え?」
「俺たちは、“ナリア錬金術工房”って言っただけだ。“ヴィルマ”なんて名前は出していない」
アランも目を瞬かせる。
「……あれ、そうだっけ?」
「間違いない。俺は言ってないし、君も言ってない」
二人の間に、わずかに緊張が走った。
「……ってことは、あの人、俺たちの行き先を“知ってた”ってことか?」
「もしくは――“俺たちを知っていた”」
レオンはそう言うと、ゆっくりと街路を振り返った。
さっきまで人波に紛れていたはずの男は、もうどこにもいない。
遠くから露店の呼び声が戻ってくる。さっきの静けさが、まるで幻のようだった。
「……なんか、ぞわっとしたぞ」
「今は深く考えるな。ここで立ち止まっても意味がない。とりあえず、工房に行こう」
そう言いながら、レオンはほんのわずかに目を細め、気配を探るように通りを見渡した。
そして、何も言わずに歩き出す。
アランもためらいがちにその後を追った。
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