プロローグ 風綴の灯、再び揺らぐとき
リュミエールの空は、どこまでも高く澄んでいた。
風は乾いていて、遠くの土と草の香りを運びながら、街を穏やかに包み込んでいる。
町の通りには、焼き立てのパンの香りが漂い、笑い声がひびき渡る。
人々はゆったりと歩き、子どもたちは広場で遊びながら、まるで時間が止まったかのような、穏やかな日常を享受していた。
その日、ギルドの受付ではちょっとした賑わいがあった。
冒険者たちの間で、ある“噂”がささやかれていたからだ。
だが、それもまた、いつもの些細な出来事のように見えた。
「──次の仕事を持ってきたところよ」
書類を取り出したリゼットが、カウンター越しに笑う。
視線の先には、今日もコンビで待機していたアランとレオン。
「アラン、レオン。“配達の依頼”だけど、これが今ちょっと重要なの」
アランが顔を上げ、レオンが隣から書類をのぞき込む。
「依頼名は……『ラトールの錬金術師への手紙配達』?」
リゼットは表情を引き締めて説明を続けた。
「南にある町、ラトールまで。この手紙を届けてほしいの。宛先は、薬師兼錬金術師のナリア先生。王都の医薬が追いつかないから、あちらの知見と協力を求めてるの」
「ラトールって、王都から……」
「一日分の道のりだ。朝に出れば、夜には着けるな」とレオンが答える。
「そこまでしなきゃならないほど、今は医薬が逼迫してるってことか……」とアラン。
リゼットは静かにうなずいた。
「ええ。貧民街の騒動の影響はまだ尾を引いてるの。薬草価格も高騰してて、診療所もいっぱいいっぱい。錬金術師の助けが必要なの」
アランは、封筒の封蝋を一瞥した。
赤いロウの中央には、王家の簡略紋がうっすらと押されている。
「──了解、受けるよ」
即答に、リゼットはふっと柔らかく笑った。
「ほんと、あなたって……頼もしくなったわね」
その夜のことギルド裏の小道。レオンは静かな灯の下、以来副本の写しを手にしていた。
──何気ない配達依頼のはずだった。だが、ある記述に目が止まる。
「薬師兼錬金術師、ナリア・ヴィルマ・ルドノア……?」
記録上は“ナリア”となっていたが、記された“ヴィルマ”という名が、どうしても気にかかった。
──その名を、昔、聞いたことがある。
まだフェンメルの星詠みの塔にいた頃。師・グレイが一度だけ口にした“禁術に傾倒した錬金術師”の名。
「元素融合の暴走で研究塔を爆破し、北方領の錬金師ギルドを追放された女性──ヴィルマ」
確証はない。けれど、偶然にしては一致しすぎていた。
「まさか……あのヴィルマが、ラトールに?」
そんな考えを巡らせていたとき──
「おーい、レオン! 何やってんだよ、さっさと帰るぞー」
アランの声が、後ろから軽く吹き込む。レオンはその声に振り向き、少しだけ苦笑した。
「……ああ。どうせ放っておいても、先に走ってくんだろ。なら、僕が見ておかないとな」
「ん? なんか言ったか?」
「いや。なんでもない」
二人は夜の通りを並んで歩く。
以前なら、誰かと歩幅を合わせるなんて考えもしなかった。だが今は、こうして誰かと“旅”を選べる。
それだけで──ほんの少し、前に進めた気がする。
そして、彼らの知らぬところで──
王都の一角。荘厳な造りの貴族の館、その奥にひっそりと佇む私室。
ひとりの女が、月明かりの下で報告書をめくっていた。
「……ヴィルマ・ルドノア、ね。懐かしい名だこと」
エリゼ=ヴァルトハイト。
レオンの実母にして、“冷徹なる観察者”。
女は封も開けぬままの報告書に指を這わせ、静かに微笑んだ。
「レオン。あなたが“風”に乗ってどこまで行けるのか──試してごらんなさい」
窓がわずかに開き、風が書斎の帳を揺らした。それは、嵐の前触れだった。
──こうして、物語は再び動き出す。
第二章《魔道具職人の街と錬金術師》ラトール編、開幕。




