第33話 流転の風と、氷の誓い
──それは、星詠みの塔に身を寄せてからしばらく経った頃だった。レオンは自身の魔力、魔術に対して少しずつ理解をし始めていた。
フェンメルに、魔獣騒ぎが起きた。郊外の研究施設から逃げ出した実験体。
名を、“霧喰い”。
それは霊体に近い実体の薄いモンスターで、魔力に反応し、空気中の微粒子を媒介に侵食・増殖する厄介な存在だった。
研究員と警備兵は全滅。現場は魔術結界によって封鎖された。
──だが。
その封鎖をすり抜けた霧喰いの一部が、都市の外れにある診療区へと流れ込んでしまった。
そこには、治療中の病人たち──特に、子どもたちが多く寝かされていた。
「結界の再展開が間に合わない……避難誘導も遅れている……!」
術者たちの焦燥と混乱が交錯する中──
ある一人の少年が、迷うことなく塔を飛び出していた。
レオン・ヴァルトハイト。
命じられたわけでも、名を求めたわけでもない。ただ、彼は走った。
「おい、危ないぞ、引き返せ!」
警備隊の叫びも聞かず、レオンは診療区の扉を押し開けた。
重い空気。腐敗したような、金属臭に似たにおい。
「……これは……」
廊下の奥に、半透明の影が蠢いていた。
霧喰い──漂うように浮かび、音もなく近づいてくるその様は、悪夢そのものだった。
「……空間に残留魔力が……いや、違う。“呼吸”で魔力を吸収してる……!」
即座に、詠唱を開始。
氷の魔法陣が床に広がり、足元から冷気が螺旋を描いて立ち上がる。
「《零域結界・型式C》──氷鎖陣、展開」
風が巻き、空気が張りつめる。
霧喰いたちがレオンに気づいた瞬間、数体が一斉に襲いかかった。
しかし──次の瞬間、空間が凍りつく。
《氷鎖陣》
魔力の波長を乱し、対象の移動を封じる拘束魔術。
それをレオンは三重結界として展開。
領域外からの侵入すら遮断する、高度な応用術だった。
「俺がやらなければ、誰も救えない」
恐れも、迷いもない。
ただその一点の想いだけが、魔術を研ぎ澄ませていた。
封鎖された診療区で、彼はたった一人で二時間、結界を維持し続けた。
魔力の消耗は激しく、体は軋み、意識も薄れかけていた。
それでも、彼は動かなかった。
──駆けつけた術師団が到着し、処理を引き継ぐと申し出ても。
レオンは最後までその場に残り続けた。
冷気の中、結界の奥で倒れていた少女の体に、自分の上着をそっとかけて。
その手は、震えていたが……温かかった。
夜。塔の屋上。
風が冷たく、星が冴えわたっていた。
「……よくやったな」
グレイ・ローデンハルトがそう告げたとき、レオンは黙って頷いた。
疲れ切っていた。言葉もほとんど出なかった。
けれど、胸には確かなものがあった。
「……あれが、俺の……」
言葉にできない想いが、胸の奥に広がっていく。
グレイはしばし彼を見つめ、そして、夜空に向かって静かに言った。
「真理の先にあるものは、祈りだ。
だが──その祈りを、現実に届ける手段を持つのが、“術者”という存在だ。忘れるな」
その言葉に、レオンは初めて思った。
自分の力が、ただ“孤独を守るため”ではなく──“誰かに届く”ものであっても、いいのではないか、と。
それが、“誓い”となった。
──己の魔術を、誰かのために振るうという、最初の一歩。
風が吹き、彼の長い前髪が揺れた。
夜の塔は静かに、そして誇らしげにその光を放っていた。




