第31話 ひと筋、溶ける
その夜、風は冷たかった。王都リュミエールの宿屋「金の鹿亭」のひと部屋。小さな窓の隙間から差し込む月光が、床に淡い銀色を落としていた。
レオン・ヴァルトハイトは、窓辺に立ち尽くしていた。
手には開きかけの魔導書。けれど視線は文字ではなく、夜空の奥を彷徨っている。
「レオン〜、起きてんのか〜……」
布団の山から届いた声は、ぼんやりとしていたが、どこまでも真っ直ぐで、屈託がない。
アランの声だった。
レオンは返事をせず、ほんの少しだけ微笑んだ。
……ああ、本当にまぶしい。
その無垢な声が、過去の自分に突き刺さる。
手元の本を閉じ、彼はそっと目を伏せた。
そして、記憶は——過去へと遡っていく。
あれはまだ、フェンメルではない、もっと北方にある城館でのこと。
灰色の石造りの廊下に、乾いた靴音がひとつ響く。
幼いレオンは、まだ十歳にも満たなかった。
心臓が喉元で跳ねていた。緊張で指先が凍えるほど冷たくなっていた。
——今日は、「適性検査」の日だったからだ。
ヴァルトハイト家。
リヴァレス王国に名を連ねる、由緒ある貴族。政治と魔術の権威であり、“才覚”こそがその血にふさわしいとされる家系だった。
レオンの目の前には、魔力計測石と呼ばれる淡い青白い水晶が鎮座していた。
「力を抜け、レオン。思念を整えろ」
無表情な試験官が告げる。
息を呑み、レオンは石に手を触れた。
——何も起こらなかった。
いや、正確には、水晶はわずかに震えていた。だがその波長は異質で、計測不能と処理されてしまう。
魔力量、制御不能。
それが判定だった。
「……記録不能、ですね」
「遺伝的誤差でしょうか。家系にしては珍しい」
「少なくとも、家名を継ぐ資質は……」
ざわつく声の中、レオンはただ俯いた。
自分には何かが欠けているのだと、誰よりも早く悟ってしまった。
そのとき、部屋の隅で静かに見守っていた母が、口を開いた。
「……なるほど。ならば、レオンにこれ以上の期待は不要ね」
エリゼ・ヴァルトハイト。
美しく、冷ややかな女性だった。その声は凍える風のように、鋭く、拒絶を告げた。
「才なき者に、ヴァルトハイトの名は要らないわ」
それが、母が我が子に発した最後の言葉だった。
レオンは息を止めた。目を伏せたまま、心の奥で何かが凍りついていく音を聞いた。
夜が明けた頃、レオンは静かに家を出た。
置き手紙も、荷物もない。必要なものなど、何ひとつなかったからだ。
ただ胸に残っていたのは、「なぜ、光らなかったのか」という拭えぬ疑問と——
「どうして自分は、生まれてしまったのか」という、小さな絶望だけだった。
現実へと、意識がゆっくり浮上する。
レオンは目を開き、もう一度静かな屋根裏部屋を見渡した。
隣の布団ではアランが、実に幸せそうな寝息を立てている。
その音が、こんなにも心を和ませるものだったとは——かつての自分は、想像すらしなかっただろう。
あの家にいた頃、自分の声すら冷たく感じた。
けれど今、この部屋には、言葉がなくても温もりがあった。
「……バカみたいだな、俺も」
そう呟いて、レオンはふっと目を閉じた。
月明かりの下、その長い睫毛に影が落ちる。
凍てついた記憶の奥底で、ほんの僅かに——氷が、ひと筋、溶ける音がした。




