第30話 風は、街を通り抜けて
リュミエールの朝は、いつもと変わらぬ陽射しの中にあった。
赤瓦の屋根が金色に染まり、通りには焼きたてのパンの香りと、市場のざわめきが満ちている。
表向きは、すっかり平穏を取り戻したかのように見えた。
だが、そこに映る少年たちの背中は、確かに変わっていた。
アランは静かに立ち止まり、王都の中心にそびえる巨大な王城を見上げる。
それは、かつて眩しく輝いて見えた“守りの象徴”。
だが今は、どこか無機質で冷たく、その高い塔の窓から誰かに見下ろされているような、そんな錯覚すら覚える。
「……見られてる、のか?」
そんな言葉を呟くまでもなく、街の片隅には説明のつかない不安が根を張っていた。
衛兵たちの動きはいつもより硬く、目つきは鋭い。
道を行く市民たちもまた、どこか周囲に視線を向けながら歩いていた。
誰もが笑ってはいる。けれど、その笑顔の裏に、薄い膜のような警戒があった。
陽射しは変わらない。街の音も、匂いも、何も変わっていないはずなのに。
それでも、アランとレオンはもう、心から「平和だ」とは思えなかった。
その不穏な空気の中で、少年たちは鍛えられた。
剣ではなく心を、盾ではなく覚悟を――静かに、しかし確かに成長していた。
ギルド本部裏手の解体作業場。鼻を突く血と鉄の匂いの中、アランは獣の腹を器用に裂いていた。
以前は勢い任せで切り刻んでいた彼の手は、今や傷つけてはならない腱や臓器を避け、道具を使い分けるほどに洗練されていた。
「うまくなったじゃねぇか。ちょっと前まで筋ごとぶった切ってたのに」
ぶっきらぼうに声をかけたのは、解体職人のノランだった。だがその表情はどこか満足げだった。
「見てて覚えたんだよ。……こうすれば、素材の値も上がるんだろ?」
アランは額の汗を拭いながら、レオンの方へ目をやる。
隣ではレオンが静かに骨の関節を切り分けていた。氷魔法の小さな刃を使い、必要な部位だけを冷やし固める──その手際は、もはや職人の域だった。
「手際が良すぎる。君、本当に魔術士か?」
「……効率は美徳だからな」
ふたりは、しっかりと地に足をつけ前に進んでいた。
昼過ぎ、市場に降りれば、顔見知りの薬師が声をかけてくる。
「お、今日もヒールリーフの依頼かい? この前のは質が良かったよ」
「おう、今朝も採りに行ってきた。あんたのとこで役に立つなら、また持ってくるぞ」
アランが答えると、薬師の男は微笑みながら背を叩いた。
「最近、あんたらみたいな若いのが頑張ってくれるから助かるよ。ま、騎士団にゃ期待してないからな」
街の片隅、崩れかけた木柵の修理をしていれば、通りすがりの老人が帽子を取って礼を言う。
「お若いの、ご苦労さまですな。……ここ数日、あんたらの顔、よう見かけるよ。いい風が吹いてきたって感じだ」
そんな言葉をかけられるたび、アランは照れ臭そうに笑い、レオンは「やれやれ」と言いながらも肩の力を抜いていた。
ふたりは変わった。かつては「ただ動いていた」依頼も、今では責任をもって向き合うようになった。目の前の誰かのために、少しでも自分にできることをと。
ギルドのカウンターに、アランが泥のついた手袋を投げ出すと、リゼットが眉をしかめてため息をついた。
「ちょっとアランくん、またそんな泥だらけで……書類まで汚さないでよ」
「悪い悪い!今朝も薬草採ってたからな!ちゃんと選別してるぜ?」
レオンが後ろから冷静に入る。
「選別はいいが、提出物の扱いは別問題だ」
「うぐ……はい、気をつけます」
そのやり取りに、カウンター奥で素材鑑定をしていたイリナがちらりと顔を出す。
「ふん……まあ、あんたたちの薬草は使えるって評判よ。最近、こっちも仕分けの手間が減って助かってるんだから、少しは感謝してあげるわ」
「えっ、今の感謝の言葉だったのか?」
「調子に乗るな」
ノランが腕組みしたまま口を挟む。
「……だが、お前らにはちゃんと伝えておく。あの地下の騒ぎ。騎士団がどう言おうと、ギルドにとっちゃ、お前らが動かなきゃ死人が出てた」
「ノランさん……」
リゼットも一瞬、表情を曇らせた。
「報奨金が雀の涙だったのも、納得いってないのよ。あれだけのことをしておいて、“騎士団の手柄”だなんて……」
「国が決めたことに、私たちが逆らってもどうしようもない。でも、私たちはちゃんと知ってるわ。あなたたちが動いてくれたことをね」
アランは一瞬だけ、言葉を失った。そして小さく呟いた。
「ありがとな」
レオンが横で、ぼそりと付け加える。
「僕からも礼を言う。少し気持ちが晴れた。」
イリナがため息混じりに小声で吐き捨てる。
「……ほんと、無茶ばっか」
そんな空気を破るように、リゼットが机の上に依頼を取り出した。
「ちょうどよかった、次の仕事を持ってきたところよ。アラン、レオン──“配達の依頼”だけど、これが今ちょっと重要なの」
アランが顔を上げ、レオンが静かに隣からのぞき込む。
「依頼名は……『ラトールの錬金術師への手紙配達』?」
リゼットは真面目な口調で説明を始めた。
「南にある町、ラトールまで。この手紙を届けてほしいの。宛先は、薬師兼錬金術師のナリア先生。王都の薬草が追いつかないから、あちらの知見と協力を求めてるの。超緊急扱いではないけれど……大事な依頼よ」
「ラトールって、王都から……」
「一日分の道のりだ。午前に出れば、夕方には着けるな」とレオン。
「でも、そこまでしなきゃならないほど、今は医薬が逼迫してるってことか……」
「ええ。あの騒動の後遺症、まだまだ尾を引いてるの。薬草価格も高騰してて、診療所もいっぱいいっぱい。錬金術師の助けが必要なの」
アランは一度、手紙の封を見た。ロウの封蝋が押され、王家の紋章がうっすら刻まれている。
「──了解、受けるよ」
即答に、リゼットはふっと笑った。
「ほんと、あなたって……頼もしくなったわね」
(お願い、今後は何事もなく、立派な冒険者になってね)
アランは肩をすくめて笑い返す。
「正しさだけで世界は変わらないかもしれない。でも、それでも進まなきゃならないって、そう思ったからさ」
隣でレオンが口を挟む。
「……まあ、行き先が近いのは助かる。雨さえ降らなければ、往復でも大した労力じゃない」
アランがにやりと笑った。
「ま、雨が降っても行くけどな!」
そして、二人はまた一歩を踏み出す。
王都を離れ、小さな町ラトールへ。
次なる物語は、魔道具と錬金、そして“仮面を被る謎の組織”との出会いへと続いていく――。




