第26話 灰の中に潜む牙
アランが倒した男の胸元──その銀の蛇の紋章が、揺れる魔法灯の光を受けて、不気味に鈍く輝いた。
──それは、見覚えのある紋章だった。
冒険者登録へギルドに向かったあの日。
貧民街の路地裏でぶつかった騎士の鎧にも、同じ印があったのだ。
レオンが低く呟く。
「……銀蛇騎士団、か」
(なんで王国の騎士団が絡んでる。)
アランが、倒れた男に一歩踏み寄り、語気を強めた。
「銀蛇──あんたら“騎士”のくせに、いったい何を企んでる!」
その声に反応するように、カストールが意識を取り戻す。
縛られたままの体をわずかに仰け反らせ、薄ら笑いを浮かべたまま見下ろしてきた。
「その通り。俺は“銀蛇騎士団”所属だ。それが何だ? 俺を本部にでも突き出すつもりか?」
(やられたか。どっかでこんな結末を望んでたかもな。)
その目に、後悔も動揺もなかった。
ただ、皮肉めいた挑発の色だけが浮かんでいた。
アランは言葉を詰まらせた。
代わって、レオンが前に出る。
「……銀蛇騎士団。王国直属の“秩序維持機関”……表向きはね」
「裏じゃ違うってことか?」
「少なくとも、表に出せないことを山ほどやってる。“影の騎士団”って呼ばれる所以さ」
アランは息を呑んだ。
「……じゃあ、こいつらが薬を……」
「断定はできない。でも、銀蛇の名前が関わってるなら──そういう可能性も、十分にある」
甘ったるい匂いが、まだ地下の空気に残っていた。
それは、麻薬精製の名残。
そして、何かもっと重たい“現実”の気配だった。
アランは深く息を吸った。
そして、レオンの方を一度見てから、決意を込めて頷いた。
アランが肩で息をしながら、傷だらけの身体で言い放った。
「……行こう。本部ってやつに」
カストールはしばらく黙っていた。
縛られたまま石畳に膝をつき、汗に濡れた額から、数本の銀髪が垂れている。
やがて、その口元がわずかに緩んだ。
「……まったく、無茶を通す連中だ」
静かに立ち上がる。
拘束されてなお、その背筋はまっすぐに伸びていた。まるで、敗北すら誇りの一部であるかのように。
「逃げる気か?なんて、言うなよ」
自嘲気味に笑い、少しだけ空を仰ぐような仕草をする。
「こんな場所で、騎士としての名を捨てて終わるなんて……それだけは、ごめんだ」
アランとレオンに目を向ける。
そこにあったのは、敵意でも、悔しさでもなく、どこか穏やかな光だった。
「どこかで置き去りにしたはずのものを……お前たちに、少しだけ思い出させてもらった」
「銀蛇騎士団のカストール!
敗者として、正しく歩こう。
せめて、それくらいの矜持は持ち合わせている。」
そう言って、カストールは自ら歩き出した。
敗北を背負いながらも、その足取りには確かな誇りと清々しさがあった。
──三人の足音が、濡れた石の床に静かに響いていく。
そしてその背中を、誰かが遠くから見ていた。
通路の闇に潜む、もうひとつの“影”が、静かに笑った。
地上へと続く崩れかけた階段の先、月明かりが差し込む旧下水道の出入口に、ひときわ存在感のある男が姿を現した。
風が吹くたび、長衣の裾がゆったりと揺れる。
手にはまだ熱を帯びた細槍――ゼルヴァ・ラディウス、冒険者ギルドのギルドマスターが現れた。
そのすぐ後ろを、イリナが早足でついて歩く。足取りは乱れていないが、その表情にはわずかな焦りが滲んでいた。
「……あれ? もう片付いてしまったのか」
(遅かったか)
ゼルヴァは、穏やかな声でそう言った。
けれどその声とは裏腹に、ほんのかすかに息が荒い。
瞳の奥には、まだ戦場の残り火が灯っていた。
「アランくん、レオンくん――無事!?」
イリナが冷静さを忘れたように、駆け寄ってくる。普段の無表情に近い顔からは想像もつかない、明確な心配の色が見えた。
「……すみません。少し、やられてしまいました」
レオンが立ち上がりながら、静かに答える。
アランは何も言わず、額から垂れる汗をぬぐうだけだった。肩で息をしている。
ゼルヴァはゆっくりと階段を降り、二人を見渡したあと、アランの肩に視線を留める。
「……ずいぶん無茶をしたな」
(わずかに残る、魔力の気配、これは…)
「ははっ。ギリギリでしたけど……なんとか、勝てました」
アランが苦笑交じりに答えると、イリナがすかさずポーチから瓶を取り出し、冷たい回復ポーションを彼に押し当てた。
「“なんとか”で済ませるの、そろそろやめなさい。勝てたのは、運が良かっただけ」
口調は鋭かったが、その手は驚くほど優しい。
「……間に合わなかったのはこちらだ。よく持ちこたえてくれた。ありがとう。――初めまして、ギルドマスターのゼルヴァ・ラディウスだ」
ゼルヴァはそう言って、微笑んだ。その声は静かで優しく、疲れた心に染みわたるようだった。
だが、その穏やかさの奥には――嵐の中心にいる者だけが持つ、芯のある静けさがあった。
「ギ、ギルドマスター……!?」
アランが思わず目を見開く。
顔に泥と血をこびりつかせたまま、子供のような反応でゼルヴァを見上げた。
「こりゃまた、大物のお出ましだな……」
レオンも、少し苦笑しながら短く呟いた。
そんな二人に、イリナが呆れたようにため息をつく。
「無駄口叩けるくらいには元気みたいね。……いいから、さっさとポーション飲みなさい。せめて“気休め”にはなるから」
イリナは少し間を置いてから、ぽつりと付け加える。
「とはいえ、あんたたちが動かなきゃ……誰も動かなかった。
それに――このまま放っておいたら、国全体が戦場になってたかもしれないの。よくやったわ。」
叱責でもなく、讃美でもなく。
ただ、現実を見据えた大人の言葉だった。
ゼルヴァはその言葉に静かに頷きながら、レオンとアランをまっすぐに見つめた。
「君たちが踏み込んだ一歩が、多くの未来を変えた。……それは間違いない。誇っていい」
ゼルヴァは崩れた通路の奥を静かに見やり、わずかに頷いた。
沈黙の中に、戦いの爪痕と、その向こうにある闇を見つめているようだった。
アランがふと背後を振り返る。
壁にもたれかかり、腕を縛られたままのカストールが、薄く目を閉じていた。
「……こいつのこと、どうします?」
アランの問いに、ゼルヴァは目を細め、静かに息を吐く。
「地下で見つけた麻薬製造機は、こちらで処理する。痕跡は消させない。……彼は“生きた証拠”だ」
ゼルヴァはアランとレオンに目を向け、穏やかに続けた。
「疲れているのは分かっている。でも……君たちがここで止めたのなら、最後まで見届けてやってほしい。
彼を“銀蛇”の本部まで連れていってくれないか?」
その言葉には、命令でも打算でもない――深い信頼と、責任を託す温かさが込められていた。
「それに……ほんの少しだけだが、すでに彼の顔が“騎士”に戻ってる気がするよ。君たちと出会ったおかげかもしれないね」
そう言って、ゼルヴァはまた柔らかく微笑む。
けれど、指先にまだ雷の残滓がちらついていた。




